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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年01月08日(月)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「あのう、もう10年経ちましたけど…」


 高校生だったある日、山科グランドで練習試合を見ていた。当時は、まだかわいい女子高生(?)だったので、選手をもっと近くで見たいと、フェンスにへばりついていた。

 すると、相手校の関係者らしいおっちゃんに、「お前らがそんなところで見るなんて、10年早いわ」と言われた。頭に来た。なんで、あんたにそんなこと言われなあかんねん。東山の父兄さんに言われるんなら諦めつくけど、自分、関係ないやん。負けてんのが気にいらへんのとちゃうん。

 でも、ここは神聖なるグランド。ここで声を荒げたら私たちの負け。泣く泣く引き上げ観戦場所を移したのだが、今でも思い出すたびに腹が立つ。

 そういえば、もうあれから10年やねんなあ。あのときのおっちゃんに会ったら訊きたい。

 「あのー、もうあそこで見てもいいですよね?」




2001年01月09日(火)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「応援スタンドに乱入」


 高校野球部や特定選手を応援していると、チームの勝利やその選手の活躍以外の願い事が出てくる。たとえば、サインだったり、ツーショット写真だったり、電話番号の交換だったり、メールのやりとりだったり…。じゃあ、私もそうだったかというと実はそうではなかった。私のただ一つの願いは、水をかけてもらうことだった。

 “水をかける”。1992年の東山高校応援団は、試合で勝ったあとはえらい大騒ぎで、思いあまって、水をかけあうことがあった。その日の試合もすごくエキサイティングで、私もともきちもすっかり興奮しきっていた。気付いたら制服姿のまま、応援団の群れに乱入。わけわからないままにわいわい騒いでいた。選手の中には、私たちにハイタッチをして応じてくれる人もいた。

 そんななか、水を掛け合う選手たちがいたのだ。私は興奮状態の中にありながら、「うわ、いいなあ」とその光景に憧れた。すると、選手だか若いOBだかが、横で騒いでいるともきちに水をかけた。ともきちは、びっくりしてたけど、嬉しそう。かけた相手は、ちょっとやりすぎたかなあと申し訳なさそうにしていたけど、当のともきちは一向に気にする素振りはなかった。

 いいなあ、私も水かぶりたい。そう思った。でも、「私もかけてください」なんて恥ずかしくてよう言わんし、それにそういうことは自分の意志に関係なくされなければ意味がないように思えた。水をかぶるという選手と同じことをすることで、応援団の一員になりたかったのかもしれない。

 後に、他のファンの女の子から「何、あの子ら」みたいな陰口を叩かれていることを人づてで聞いた。不思議なことに、全然気にならなかった。熱い日に熱いスタンドにいると、暑さを忘れるものなんだという不思議な体験は何にも代え難い。




2001年01月10日(水)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「姉ちゃん、また来てな」


 夏の大会の楽しみの一つは、なんと言っても試合後に飲むLサイズのジュース。

 私たちは、試合中は飲み物を口にしなかった。思いっきりのどをカラカラにしておいてから、球場内の売店に駆け込んで、ジュースを頼む。たいていコーラを飲んでいたのだが、その1杯のおいしいこと!酒を常飲する今日この頃、飲酒以前の自分をあまり考えられずにいるが、そのときにはそのときの楽しみがあったようだ。

 カラカラの喉を刺激する炭酸、その場でなりふりかまわず一気飲み。無心になれた。試合を見る目的の一つは、この快感にあると言っても過言ではなかった。

 ある日試合終了後、いつも通り一気飲みを敢行していると、トレーナーを着た応援団の部員と目があった。すると、彼は「姉ちゃん、また来てな。」と言った。周りは混み合っていたが、目線で私に言っているのがわかった。

 顔を覚えててくれてるんだ…。私はうれしさと恥ずかしさで放心状態になっていた。うまく返事出来ずにいると、彼はもう視界から消えてしまっていた。




2001年01月12日(金)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「後輩」


 ある日、父兄さんにこう言われたことがある。「昔は強かったから、応援していても楽しかったんちゃう?それに比べて今は弱いし、ごめんねえ」。私は首を振った。当時は、いいことと同じくらい、いやそれ以上にイヤなこともあったのだ。自分の力ではどうすることもできないやるせなさとともにあった時代だと言っていい。

 1993年春、チームは甲子園に出場した。残念ながら結果は出せなかったが、それでも人気は衰えることなく、試合にもグランドにもいつも大勢の女の子たちが詰めかけていた。

 この人気が嬉しい反面、げんなりともしていた。“一緒に応援したい!”と思えるようないい女の子がほとんでいなかったからだ。男の子から見たいい女の子と、女の子から見たそれは明らかに違う。選手の気を引くために派手な格好をした子、選手のカバンについているキーホルダーをちぎる取るような輩と一緒にはされたくないと思った。でも、世間では私たちもそんな子たちも同じ“甲子園ギャル”となる。あーあ、イヤやな。

 そんな中、唯一“いい子だな”と思ったのが、大阪の女子高に通う2人組の女の子。1つ年下。敬語がきちんと使えるし、ところかまわずキャーキャー言ったり、選手にこびを売ることもなかった。その上、とびっきりかわいい&美人ときている(実際、選手の声をかけれらた子もいた)。彼女らを加え、4人で行動するようになっていた。私にはそれが嬉しかった。彼女らは、追っかけ歴的には後輩となるのだが、ホンマの後輩だったら最高やのになあと思った。

 それにくらべ、我が母校の本物の後輩の情けないこと!

 夏の大会、試合に負けたあとに選手を追いかけて、キャキャ言っている。それも目立つ制服姿で。ああ、やめてよ、同じ学校通ってるなんて恥ずかしいわ。

 ホンマの方の後輩の女の子は、学校を出てすぐ就職してしまったため、試合で見かけることはなくなった。でも、ともきちの家にはしばらくは年賀状が来、東山の動向を気にする文面があったのだという。



2001年01月13日(土)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「ともきちのウイニングボール?!」


 滋賀県内にあるともきち邸の部屋には、東山で使われている公式ボールがあります。表面には、「東山高校」と印刷されています。いや、盗んだものでもなんでもないんですよ。もらったんです、一応。

 93年春、山科グランドで練習か何かを見ていたとき、顔を知っている程度のOBがひょっこりやってきて、「これ、やるわ」と言って正面にいたともきちの手の平にボールを置いていった。そのおっちゃんは、お礼を言う間もなくどっかに行ってしまった。私たちは呆然としてそのボールを眺めていた。ともきちは、戸惑うばかりで、「どうする?このボール誰がもらう?じゃんけんでもしよっか?どうせなら一人1個づつくれたらよかったのに…」と私たちの様子をうかがっていた。

 しかし、OBのおっちゃんは私たちではなく、ともきちにくれたのだ。私は、「自分がもろとき」と言った。一緒にいた残り2人の女の子(回顧録「後輩」参照)も同意してくれた。私はすでにこのころから、ともきちの東山に対する思い入れと行動力に敬意を抱いていたもかもしれない。ともきちは、「わかった、じゃあ、試合のたびに持ってくるわ」と言って、嬉しそうにボールを握りしめていた。

 それにしても、あのとき何故おっちゃんは、ともきちにボールをくれたのだろう。当時はたくさん女の子が詰めかけていた。一人一人にそんなことをしていたらキリがないはず。そんななか、私たちを選んだ根拠は何だろう。そういえば、その前に「硬式ボール、触ってみたいなあ」という話をしたようなしてなかったような…。

 後日、ともきちに言って、ボールを触らせてもらった。初めての硬式ボールの感触は、堅くて小さかった。心に残った選手にサインを書いてもらおうという企画を企てたこともあり、印字の裏側にはある選手にサインをしてもらった。そのボール、長年握りしめているせいか、だいぶ黒光りしているが今でも重宝されている。



2001年01月14日(日)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「宝物」


 1995年の夏のこと。
 京都大会準々決勝でチームが勝利を収めたのを見届け、ともきちと2人で球場を後にしようとすると、後方から誰かの呼び止められたような気がして振り返った。そこには試合が終わったあと、歓談している父兄さんがいらっしゃった。

 父兄さんが私たちを手招きしている。「何やろ?」と思って駆け寄ると、「これ、あげるわ。来年も再来年も応援にきてね」。

 その父兄さんはご自分のカバンからおもむろに差し出した帽子を私たちにくれた。藤色地にツバの端に白色の筆記体で「Higashiyama」と書かれている。当時、お母さん達がおそろいでかぶっておられたサンバーンだった。びっくりした。

 私たち2人はただ驚くだけで、お礼の言葉も上手く口にできなかったように思う。おそろいの帽子、なんだか仲間にしてもらえたような、私たちの存在を認めてくださっているように思えて嬉しかった。

 残念ながら、このサンバーン、負けクセがついてしまい、今では試合でかぶることはない。でも、これは私の宝物! 生まれて初めて、そんな感情を持ったように思う。 

 幾度もバージョンアップを繰り返し、今の父兄さんたちがかぶっておられるものとは違うので、もう手に入らない。



2001年01月15日(月)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「おつかれさまでした」


 1997年の東山は、京都で一番長い夏を敗戦という形で終えた。

 いろんな思いはあっただろうけど、球場から出てきた選手の顔は晴れ晴れしていた。人目かまわず彼女と2ショット写真を撮る選手もいた。普段ならいい感じがしないのだが、このときはほほえましくすら思えた。

 エースピッチャーは顔立ちの整った女性ウケするタイプだ。そのため、お母さんの間でも人気者で、何人かのお母さんは一緒に写真を撮っていた。

 すでに選手と話すことはなかったが、このときは不思議と何か一言言いたいと思った。それはともきちも同じだった。

 私たちは、ちょっと離れた場所にいたのだが、偶然彼が一人で側を歩いていた。若干距離があるので、大きな声を出さないと聞こえない。こういうときの行動力はともきちの専売特許。「あのー、おつかれさまでした。…楽しかったです」

 すると、彼はこちらを向いて軽く脱帽し、会釈した。困ったような笑顔だった。後で、「試合で負けたのに“楽しかった”なんて言ってしもた。恥ずかしー(>_<)」と彼女は赤面していたが、でもそれが私たちの偽らざる気持ちだった。

 あと一歩で逃した甲子園。でも、それよりもうこのチーム、この父兄さんたちと試合を見れないのが悲しい。泣いて、笑って、怒って…本当に楽しかった。夢のような10数日間だった。

 あの華やかな舞台は、苦しい練習を乗り越えてきた選手たちのためにある。なんだか便乗したみたいで申し訳ないなあと思いつつ、でも、応援は止められないなと改めて思う。