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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年01月01日(月)
はじめまして、あるこです。


 はじめまして。京都で野球ファンをやっています“あるこ”と申します。これから、このスペースを使って、野球日記たるものを書いてみようと思います。ルールもうろおぼえ、ボールの握り方の知らない…そんな野球ド素人の私ですが、それでも野球日記を書く権利はあるはず(笑)です。他の野球日記とはちょっと違ったアジを出していければ、至福ですが、さてどうなりますことやら。拙い文章が続きますが、暖かく見守っていただければ嬉しく思います。

☆この日記の主な登場人物及び団体☆

○あるこ→この日記の作者。京都在住。社会的未熟児。
○ともきち→あるこの親友。かつ東山追っかけ仲間(?)。滋賀県在住のOLちゃん。
○相方→あるこの相方。兵庫県在住。あること違い真っ当な会社員。
○応援校→東山高校と同義語。命の源?!

※日記の正式な開始日は、2001年3月31日からです。2001年1月2日から3月30日のスペースを使って、削除されたコンテンツに置いていたコラムを転記しています。ですので、日付と内容には一切関係ありません。よろしくご了承ください。

1月のスペースは応援回顧録を、2月のスペースには東山高校硬式野球部関連コラムを転記しています。




2001年01月02日(火)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「追っかけ姉ちゃん」


“姉ちゃん”という言葉の響きが好きだ。 

2人姉妹の末っ子である私は家族内において、自分の名前以外で自分を表す代名詞を持っていない。

ある日、OBの父兄さん同志が集まって飲み会をするとのことで、偶然、私とともきちも誘ってくださった。この時期は、まだともきちが前面に出ての追っかけ活動だったので、私のことを覚えてくださっていない方も何人かいたが、それでも、「ああ、元気やってんの」と声をかけてくださる方もいて、嬉しかった。

ところが、顔は知っていても名前は知らない関係。ビールを注ぎに来てくださった陽気なお父さんから出てきた言葉は。

「お、追っかけ姉ちゃん、ま、一杯飲みぃや」

いい響きだ。一遍に気に入ってしまった。

というわけで、このコンテンツでは、“あるこ”ではなく“追っかけ姉ちゃん”でいかせてもらおうと思う。




2001年01月03日(水)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「始まりは京阪電車」


 高校のとき、京阪電車の京津線で通学していた。滋賀県と京都市内をつなぐ電車で、2両編成の車内は通勤通学客で混み合っていた。路面を走る電車で、渋滞のときが大受難。

 そんなある日、一緒に通学していたともきちが言った。「かっこいい人、見つけてん。ガシの野球部の人」こいつ、いつのまに…。ちょっと羨望を含んだ目で彼女を見ていると、気付いたら、東山の学園祭に行くことになっていた。野球部の情報を仕入れるらしい。

 男子校の学園祭、実は興味よりめんどくさいなあと思ったのが正直なところだった。ただ、小学校のときに好きだった男の子が中学から東山に行き、風の頼りで高校にも上がっていると聞いていたので、「あ、もしかして会えるかも」と漠然と思った。(結局、会えました。と言っても見ただけだけどね)

 男子校の学園祭は自分の学校のそれよりはるかに楽しそうだった。いろんな企画が盛りだくさんでまさに“祭”という感じだった。

 でも、肝心な目標はそれではない。校内をうろつき野球部員を探してた。すると、出来過ぎたドラマのように、向こうから歩いてくる野球部員を発見。野球カバンを肩にかけ、頭はもちろん丸坊主。

 こんな至近距離で高校球児を見たのは初めて。軽く興奮してしまった。ともきちは、それどころではない。練習場所やお目当ての子のことなど必死で聞き込んでいた。私はすごく背の高いその部員をずっと見上げていた。首痛いなあと思ってた。

 実は、この日、野球部は試合だった。京都大会の準決勝か決勝か。選抜行きをかけた近畿大会に向けて闘っている最中だった。

 練習は、学校内ではなく、市内にある山科グランドという場所でやっているという。あ、あと2,3日で連れていかれるな。帰り道、すっかり陽気になっているともきちの顔を見てそう思った。



2001年01月04日(木)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「夜のグランド、白い息」


 数日後、私は案の定、山科グランドにいた。

 当時、私もともきちもまだ予備校に行ってなかったので、放課後部活が終わるとフリーだった。季節は確実に冬に向かっているころで、日はとっぷり暮れ、空は星の光が映える深紺色だった。時間帯にしてはそんなに遅くなかったと思うのだが、すごい夜遅くに行ったような印象はぬぐいきれない。

 最寄駅である京阪電車「御陵」駅で降りると、すっかり寝静まったような静かな小路をひたすら南下した。行けども行けども辿り着けず、道を照らす電灯もなんだか心細い。もう帰ろうや。何度そう言おうと思ったかわからない。

 ようやく到着したグランドは、すごく静かだった。もう練習は終わりにさしかかっていて、不自然なほどまぶしいライトの下で、選手たちは規則正しく並んで走っていた。グランドの門は開いていた。その気になれば入れたかもしれない。あまりの静けさが私たちにそれを許さなかった。

 私たちは、隣の家のガレージのブロック塀から顔を出し、息を殺してその光景を見守っていた。

「ひ〜がしやまっ、ファイトッ!」

 記憶する限り、彼らはそんなかけ声をともに走っていたように思う。白い息がやけに私に中で鮮やかだった。ふー。私の口からも白い息は出たが、彼らのそれは別物のように思えた。




2001年01月05日(金)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「るるぶ」


 東山高校山科グランドのすぐ側に『るるぶ』という喫茶店がある。

 私とともきちが、初めて山科グランドに足を運び、息を殺して練習風景を見ていたとき、背後で知らない人の声がした。

 「誰のファンなんや?」
 びっくりして、心臓が飛び出そうになった。ビクッと静電気が走ったようなときの仕草で声のする方を振り返った。見たことないお兄さんとおじさんの間くらいの男性が立っていた。近所の人かな。にしても、そんなんグランドの中にいる選手に聞こえてたらどうすんねんさー。恥ずかしいわあ。

 それが、『るるぶ』のマスターとの出会い。当時同校を指導されていた長谷部監督がお客さんとしてよく店に来られておられたのだという。仕事の合間に、グランドに足を運んで練習を見に来るのだとおっしゃっていた。

 それから、ともきちと二人で『るるぶ』に足を運ぶようになった。まだ父兄さんとお話出来なかった私たちは、このマスターにいろいろ教えてもらっていた。

 甲子園に出ていたことは、カウンターの端に立て掛けてあるコーヒーチケットに監督さんを始め、父兄さんやマスコミ関係者の名前を見受けた。また、試合後の審判の方が汗を拭きながらアイスコーヒーを飲んでおられたこともあったっけ?

 応援を通して多くの人と出会ったが、つきあいの継続性でこのマスターを越える人はいない。成人式のときは、ともきちと共に振り袖のまま、店の足を運んだ。学校を出てからは、行くたびに「まだ見にきてんのか。はよ、結婚でもしぃや」と言われるのだけれど(苦笑)。

 1年ほど前、「自分、えらい肥えたなあ」と言われたのがショックで、それ以来姿を見せていない。きっちり痩せたら、あのドアを開けてみようと思う。そのときまで、覚えててくれてるかな?

 ちなみに、2人のお気に入りはフルーツサンド♪




2001年01月06日(土)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「がんばれ、がんばれ、tohzan!」


 初めて見た東山の試合は、近畿大会の神戸弘陵戦だ。11月頭、まだ改装前の皇子山球場で行われた。日常世界から抜け出したようなまぶしさが印象的な点灯試合。黒袴を着て踊っていた相手校応援団に印象が未だに色褪せない。

 試合に内容、今となっては覚えていない。ただすごいいい試合で手に汗を握っていたっけ?

 ピンチも幾度となくあった。そのたび応援団が声援を送る。「がんばれ、がんばれ、岡島」団長のかけ声のあと、残りの団員がリピートする。これが、ピッチャー→キャッチャー…の順で進み、ライトの選手の名前が呼ばれたあとは、「がんばれ、がんばれ、とうざん」で締めくくられた。

 私の中で、この応援が強烈に印象に残った。応援は、攻撃中にするものだとばかり思っていた。だから、守備のときの送られた声援は衝撃的だったのだ。そして「あ、これこそ“応援”なんかもな」と思った。

 延長13回、負けた。「負けたら、カバン、投げつけんねん」と言っていたともきちは、石畳の上に10円玉で厚さを縮めた学生カバンをたたきつけた。
 
 負けたのは悔しかった。でも、それ以上に感動した。あの日があったから、今の私がいる。あれから10年以上経つが、あのカクテル光線とナインの姿が忘れられない。




2001年01月07日(日)
追っかけ姉ちゃんの応援回顧録 「不覚の一言」


 残念ながら近畿大会で敗れてしまった東山だが、私の中で、東山に対する興味はあの試合で倍増した。今まではともきちにつきあわされてというニアンスでグランドに足を運んでいた私だが、それからは同じ誘われるにしても、気持ちは積極的になった。

そして、その度に立ち寄っていたのが『るるぶ』。グランドに行く前に、ここで夕食や昼食、お茶をする。当時、ここの常連さんの一人に某父兄さんがいた。私たちがコーヒーを飲んでいると、マスターが紹介してくれた。「この人、○○(選手名)のお父さんやで」。カウンター席、2つほどあけて腰掛けておられた故横山やすし氏の面影が少しあるその父兄さんは、ちらっとこちらを見て会釈した。

 初めて会う“選手の父兄さん”という存在。私もともきちも、「何か話さないと」とあわてて、持ち得ていたちっぽけな東山に対する知識を一生懸命探り当てた。近畿大会の話になった。現状では厳しいというころは、私たちもわかっていた。ちょっと重苦しい雰囲気になった。なんとか話を続けなければ。私の苦肉の策は…。

「どっかが不祥事でも起こしてくれたら、出れるんですかね」

 !!!
 言葉を発し終わる前に、“やばい”と思った。ずっと穏やかだった父兄さんの表情が一変したのだ。

 「そんなこと言ったらあかん」。父兄さんは、厳しい表情をなさった。父親に叱られているような感覚だった。私は何も言えず、ただ体を小さくして、「すみません…」と言った。

 父兄さんもあっさりした方で、頷いて見せると、それからは何事もなく話が進んでいった。それにしても、“知らない”とはなんと恐ろしいこと…。