初日 最新 目次 MAIL HOME


あるこのつれづれ野球日記
あるこ
MAIL
HOME

2003年10月31日(金)
敦賀にまつわるエトセトラ


 今や私の野球観戦重要拠点となっている福井県敦賀市だが、初めてその地の踏んだのは今から7年前の夏である。当時はまだ「つるが」と読めず(バカ?)、「あつが」だと信じて疑わなかった。

 その日は夏の京都大会観戦のため、ともきちと2人で舞鶴球場に行った。東山のエースは後に日本ハムへ行った吉崎くんで、対戦相手北嵯峨のエースは今ダイエーにいる山田くんだった。後にプレミアのつく試合だが、東山が5回にツーランホームランを打たれ、サヨナラコールド負けした。

 応援していて初めてのコールド負け。私たちは計り知れないショックに襲われ、ホームに止まっていた小浜線に乗ってしまったのだ。これが人によく話す「哀愁の小浜線ツアー」だ。私たちの心境とは裏腹にのどかな景色が続く。ときどき地元の高校生が乗りこんできた。野球部にカバンを持ってる子がいた。いつもはよくしゃべる私たちだが、沈黙が続いた。そして、気づくとともきちは寝息をたてていた。

 1時間強、終点・敦賀に到着。ここで初めて、敦賀が「つるが」と読むのだと知った。けど、何度も忘れ、敦賀高校が甲子園に出たときも、「あつが」だと思いこんでおり、頭の中で自然と「つるが」と読めるようになったのはここ2,3年前のことだ。…それはともかく。私たちはそこで写真を撮り、敗戦ショックにひとまずキリをつけた。その後、米原方面へ向かう電車に乗り換えて、それぞれに地元へ帰った。

 その後、敦賀とはプツリと縁がきれたのだが、相方くんが車の免許を取るようになり、ドライブで意味なく何度も訪れるようになった。そして、2年前の秋、東山が敦賀気比高校と練習試合をすることになった。ここで初めて私の中で敦賀と高校野球が絡むことになる。このころは、まだ敦賀行きは「旅」の感覚だった。試合はWで2連敗だったが、なかなか内容がよかった。

 年が明け、春になった。HPに福井県内に住んでいるみどりさんが来てくれるようになり、県内の試合の日程がわかるようになった。そこで、春の北信越大会が敦賀で行われるのを知り、敦賀気比が出るというので、思い切って見に行くことにした。練習試合を見たときに、気になる選手がいたのだ。それにずっと京都の公式戦しか見ていなかったので、未知の領域に足を踏み入れたかったのもある。

 結果、見事に敦賀にハマッてしまい、今や市長杯や一年生大会まで見に行く羽目になってしまったのだが、これも不思議な縁だ。敦賀観戦歴は、まだ1年半くらい。地元にある敦賀高校が、「とんこう」と呼ばれていることも知ったが、私は未だ「つるが高校」と呼んでいる。そこらへんは線引きをしておこうと自分勝手に思っている。

 ところで、ある日、若狭高校との練習試合(監督代わったから、もうやらないだろうなあ、シクシク)の帰り、ドライバーの相方とともきちの3人で、大会中の敦賀総合運動公園野球場に立ち寄ったことがある。すでに試合が終わっていて、球場出入り口付近に人がたまっていた。私は試合結果を見ていて、ともきちは少し離れたところにいた。すると、球場でよく見かけたジャージ姿のおじいさんがともきちに話しかけてるじゃないですか!「どこから来たん?」というおじさんの問いに、ともきちはきまじめに「はあ、滋賀ですぅ」と答えたのだが、おじいさんは何故か、「今から(福井)県営(球場)行けへん?まだ試合やってるで」と言った。新手のナンパか?彼女、前からオヤジキラーやとは思ってたけど、まさかここまでとは…。



2003年10月30日(木)
本日、“さつまりこ”試食会


 今日は、日本シリーズ博多帰りの相方くんと会っていた。結果、負けてしまったのだけど、「貴重な経験をさせてもらった」と本人なりに充実した2日間だったようで何よりだ。(でも、結局、君のせいちゃうん?ロード0勝やろ??)

 さて、そんな相方くんにおみやげを頼んでおいた。博多行く人に、「めんたいこはイヤ」と言ったら何を持って帰ってくるのだろうとワクワクしていたのだが、もらったのは、さつまいものお菓子だった。その名をさつまりこという。九州、四国、中国、東北限定で、じゃがりこの姉妹品。さつまいもの皮を彷彿される紫色のパッケージの中には、芋の色そのもののスティックが。食べるとちょっと甘い。昔あった“おさつドキッ”みたいな味。でも、あれより素材の味が生きている。いも好きの私は気に入ったが、相方くんは「甘すぎるわ」と言っていた。元々、彼は芋を甘くすることが許せないらしい。わからん理屈や。

 その他にも、ダイエー優勝が決まったとき、球場付近で配られていた号外もくれた。西日本新聞とか、ここらではまずお目にかかれない。



2003年10月29日(水)
個人的伝言、「ベローチェって、チェーン店ですか?」


 大学野球の聖地、神宮球場に近くに、ベローチェという喫茶店があるらしい。神宮球場や付近の運動施設で試合を終えた選手や関係者がいると聞いたことがある。また、以前行ってたライター塾で六大学の取材をしていた(私は不参加)ときも、終わったらここで反省会をしていたと聞いた。

 なんでこんな話をいきなりするかというと、実は今日、仕事の合間に行った喫茶店が、「ベローチェ」という名前だったから。私は神宮球場の近くにあるベローチェを見たことがない。でも、イメージだけで、昔からあって、ちょっと神秘的で、主人は大学野球に熱心で、生き字引みたいなおじいさんなんだと勝手に思いこんでいた。だから、同じ名前の店なんてないと思っていたのだ。でも、今日の店に入って、冷静に、「チェーン店っていう可能性もあるんだな」と思い直したのだ。ほんまのところ、どうなんでしょ?

 というわけで、今日は喫茶店について。
 喫茶店、好きです。大好きです。前に会社にいたころは、1時間早く出勤して、近くのスタバで原稿を書く「ライターごっこ」をしていました。実際、そんな優雅なもんじゃないんでしょうけど。なんか、喫茶店で作品を書くという行為に、ものすっっごくあこがれてます。私が物書きになりたいと思った理由の半分は、これかもしれません。(怒られんで)

 今は、1人で行くより、2人で行く方が多いです。ネットで知り合った人と、試合後、喫茶店に入って、長話というパターン(一部、いきなり酒から入った人もいますが)。このごろは、野球談義は喫茶店ですることが多いですね。初めて市長に会った日は、入ったときは喫茶店だったのに、出たときにはレストランになっていました。推測トーク時間、6時間。また、みどりさんとは試合後にいろんな喫茶店に連れて行ってもらっています(いつもありがとうです)。私はいつも出向く方なのですが、いつか迎える立場になったときに、いい喫茶店に案内できるようになりたいものです。特に西京極の近く。いい店ないかなあ。

 喫茶店でトークしていると、ほとんどの人が、「普段は、こんな野球の話はできない」とか「野球のことを話せる人がいない」と言います。ここで言う“話せる”は、“語り合える”という意味なんでしょうけど。世の中、野球ファンは少なくないのに、“語り合える人がいない”と言う人の多さには驚きます。でも、私も昔は東山のこと、なかなか人に話せなかったし、話すことでもないだろうと思っていました。毎日ともきちと2人だけで盛り上がっていたものです。



2003年10月28日(火)
制服の話


 駅前のコンビニへ棚卸しに行ったとき、近くの高校があるのか、駅からぞろぞろと制服を着た学生が出てきた。男子生徒は今どき珍しい学ラン。ほとんどの子が詰め襟を取り、ボタンをはめずにだら〜んと歩いていたが、時々つめ襟ばっちり、ボタンもきちんとはめていたし、服に変な加工も施していない“ザ・模範生”もちらほらいた。しばらくすると、共通点に気づいた。彼ら、野球部員なのだ。坊主頭に、野球部のかばんを持っていた。友人が以前こんなことを言っていた。「学校は野球部を模範生にしたがるんだよ」。しかし、先生の目が光っていない駅前ですらきちんとしているなんて、きまじめな子たちだなあ。

 そんなわけで、今日は制服の話。
 町で見かけてもどこの制服かわからない(母校もわかんなかった)くらい今の制服はリニューアルされててかわいい。スカートの色も薄くなって、軽やかな印象を受ける。私らの時代は紺か黒って感じだった。制服は地味、ダサイが基本だった。そんな理不尽さに、私は“制服の役目〜鮗阿任眞紊譴襪茲Δ豊⊇の子の日に困らないように(実際、その期間は濃い色にスカートやズボンをはきなさいと言われませんでした?>女性のみなさんへ)”という説を作り、自分を納得させていた。なのに、なのに。なのにぃ〜。

 そんな私は中高の6年間制服だったが、何故かリボン、ネクタイといったものに無縁だった。セーラー服はともかく、ネクタイとかはあこがれたんだけどなあ。中学校はブレザーで、制服ではなく、標準服と呼ばれてれていた。高校は、夏と冬で違ってた。冬は1930年から変わっていない遺跡級で、ブラウスの襟が丸襟。慣れたけど、苦手だったなあ。女子校だし、校歌の歌詞に“乙女”という言葉が出てくるくらいだから、これくらいアリなんだろう。悪いのは学校じゃなくて、ここを受験した私…。夏は腐ったなすび色のスカートで、その出で立ちは、一昔前の田舎の銀行員。イヤでイヤでたまらなかったなあ。自分んとこの制服よりひどいのはないだろうと思っていた。

 ところが、世間は広い!
 カルチャーショックな制服を秋田の電車の中で発見。なんと、オール薄紫。藤色ですわ。ワンピース調で、生地も薄い(と見えた)。ごっつ着る人選びまっせ、これ。小柄で色白な子が着れば、深窓のお嬢様という言葉のもと、はまってしまうのだけど、私のすぐ側にいたぼっちゃりして色黒の子なんて、かわいうそうやった。学校側のいじめとしか思えない。私がこの高校やったら、これが原因で辞めてやる。ちゅーか、その前に受験しない。少子化の時代で、かわいい制服は大事なアピーポイントであるのはわかるけど。わかるけど、ちょっと暴走してすぎてませんかねえ?

 これが、今んとこ、自分が着ていた母校(高校)の夏服の上回ってNO.1にのし上がった“日本一とんでもない制服”です。さらなる強者をみかけたら随時報告しますので、お楽しみに(?)。




2003年10月27日(月)
元福井高校・宮下くんのこと。


 2000年6月のある日、練習試合を見に、福井高校のグランドへ行った。強烈に印象に残るピッチャーがいた。5回1/3を投げ、11奪三振6四死球。6連続三振を奪ったかと思ったら、三連続四球。体格も良く、なんかドロンと落ちる変化球が決まった。ボールもそこそこ速い。安定感はてんでないけど、この子は主戦かそれに相当する二番手だろうと思った。そこで、福井高校の父兄さんに、「あのピッチャーは、何という名前なんですか?」と聞いたら、「宮下じゃないですか?」という答えが返ってきた。まだ1年生だという。

 その日から、ことあるごとに、福井高校の宮下くんを雑誌やネットで探し始めた。自分の見る目がすべてとは言わないけど、あのピッチングみたら、「いつかは注目される選手になる」と思ってしまう。結局、彼の名前を目にすることはなかった。後に福井の高校野球を見るようになり、福井大会のプログラムを手にするが、そこでも載っているときと、そうでないときがあった。エースは下級生だった。

 そして、私に“東山しか見えない夏”が来た。49代表校がようやくそろったころ、福井高校の甲子園出場を知った。あの日、福井の父兄さんによくしてもらった私は気が高揚して、「甲子園で会いましょう」なんて言ってしまったのだが、まさか実現するとは思わなかった。3年生になっていた宮下くんは、ベンチに入りしていた。でも、背番号は二桁。この2年間で、四球の数を減らすことが出来なかったのか、何かアクシデントがあったのか、あのときがピークだったのか、エースがもっとすごいのか…どんな推測も結果の前にひれ伏せてしまう。案の定、緒戦を戦った福井はエースが活躍し、注目された。これで、私は“宮下くんの文字を追う”ことを終えてしまった。

 ところは、今朝、何げなく去年の甲子園の雑誌を見ていると、彼の名前を見つけた。福井高校が大敗した帝京戦、5回から登板して最後まで投げていた。記事を見て、あのときのどろんとした球がフォークだと知った。記録は、4回1/3投げて、奪三振4、四死球は1だった。

 今頃気づくなんて、あまりにも遅すぎるのだけど、「ああ、試合にでれたんだ。甲子園で投げれたんだな」と、彼のインタビュー記事の文字を追いながら、妙な感慨に浸ってしまった。今はどうしてるのだろう。野球、続けてるかな?
  



2003年10月26日(日)
100万画素で“ポロロロロ〜ン”♪


 今日は久しぶりに東山の山科グランドへお邪魔。すでに練習が始まっていて、いつものOBが顔を揃えていた。しばらくすると、吉崎さん(OB吉崎選手のお父さん)が来られたので、挨拶した。で、「なんで皇子山に行かへんのや?」と聞かれた。私を誰やと思ってますの(笑)。

 とてもいい天気で、写メール日和。そういえば、携帯を変えてから初めてやなあ、山グラに来たの。そう思って、おもむろに携帯をかばんから取り出し、グランドを写してみようとした矢先、後ろで子供の声がした。「写真撮ろ、写真」

 振り返ると、小学生低学年くらいの女の子が2人、携帯電話を持っている。本気か。それもカメラ付きかいな。私のやってくることって、この子らレベル?私の20年間って…。私が恥ずかしさで泣きそうになっているのもおかまいなく、彼女達はフェンス前まで進む。カシャカシャという音。2人は画面を一瞬ちらっと見て、うれしそうに、今度はダイヤルボタンを押す。ポポポ。ボタン確認音。

 気になった。こんな小さな子供に携帯買い与えてるのか親の顔が見たいなどと思い、機種を確認しようと彼女たちの小さな手に握られている携帯をのぞき込んだ。すると、それは良くできたおもちゃだった。胸をなでおろした。私は大人やねん。君らに同じ土俵に立ってもらったら困るねん。などと心に中でふんぞり返った。

 とはいえ、東山グランドに若い女の子がくるのは珍しいので、思わず、ポロロロロ〜ン(私の携帯は、“カシャ”などというかっこいい音を出してくれません)とやってしまった。そして彼女たちはこのあと、じじさまに「金網持ったらあかん」と叱られ、ご機嫌を損ねて出ていってしまうのだけど。

<今日の他の人の動き>

☆みどりさん、遂に皇子山デビュー。またまた高校野球に魅了された模様。このノリで次は東山戦の会場へ拉致して見ようと思う(笑)。

☆相方くん、福岡ドーム。前日にサークルのOBからチケットを譲り受ける。本人曰く。「気持ち悪いくらい運がむいてきた」。でも、負けたじゃん。
 



2003年10月25日(土)
『そうだろう…』、どうだろう?


 高校野球と言えば、西浦達雄さん。西浦達雄さんと言えば、高校野球なのです。名曲『瞬間(とき)』を始め、長年多くの高校野球テーマ曲を作っておられます。好きなアーチストの一人です。活動が地道故に、CDを手に入れるのが困難でしたが、ネット社会のおかげで、西浦さんの歌を知ってから10年以上たってようやくCDを買うことが出来ました。『Voice of Mind』というベスト盤です。最近はこれをBGMにPCと向き合っています。

 私より一足先にCDを手に入れたみどりさんもハマリッぱなしで、2人で球場へ行くときの車でのBGMは大概これです。そんなみどりさんが言います。「『そうだろう…』という曲、すごくいい曲で好きなんだけど、どうしてもその意味がわからない」。

 『そうだろう…』は、アルバム11曲目に入っています。すでに有名な話らしいのですが、これは98年夏甲子園で準優勝したときの京都成章高校の部員がモデル。春、レギュラーで甲子園に出た彼ですが、夏はベンチに入れなかったそうで、後日そのときの心境を西浦さんが本人から直接聞いて、作ったのがこの曲です。みどりさんはそのエピソードを知っています(私に教えてくれたのも彼女ですから)が、それでも「わからない」と言います。

 そのとき、私はまだCDを買っていなかったので、歌詞カードを見せてもらうことにしました。ときどき「?」を思うことはありましたが、だいたいのニュアンスはわかったつもりでいました。

 ところが、いざCDを買い、耳で聞いてみると、わからないんです。歌詞だけ見て頭でわかったようなことを言ってた自分を恥ずかしく思いました。わかったつもりのものをわからなくさせたもの。それは音や歌手の声色なんでしょうか?不思議です。でも、詩全体の世界がわからなくても、ちりばめられた言葉の1つ1つに響くものがあり、私もこの歌は好きです。わかるにはきっとモデルとなった部員のような苦い経験がないとダメなのかもしれませんね。

 『そうだろう…』

 あいまいな夢は 何げない日々に
 のみ込まれてゆく
 吐き捨てるように 呟いてた
 君の声が こだましてる

 おしよせる想いは 言葉にならない
 声にも出せない
 わかってた君を 信じてた
 いたいほどに悲しいほど

 いつも 美しい夕焼けが
 君をつつむまで 唇かんで
 耐えてきたんだ そうだろ

 涙、堪えるのが 辛いなら
 大きな声で 叫べばいい
 高く見上げたあの空が君を見てる
 どれほどの夢を、あつめたって
 どれほどの言葉を、伝えても
 君のその目の輝きには、かなわない
 この溢れ出だす涙をとめられない

 こたえは、いつも あきらめた季節
 取り戻すように
 君の中にある 傷ついてた
 痛みさえも 偽らずに

 たしかに あの遠い記憶が
 導いてくれている
 はみだしそうな 憧れは
 あの未来へ 駆け出してく

 それを 誰かに伝えたくて
 誰かに届くまで 心の声が
 今も響いている そうだろ

 涙、堪えるのが 辛いなら
 大きな声で 叫べばいい
 高く見上げたあの空が君を見てる
 どれほどの夢を、あつめたって
 どれほどの言葉を、伝えても
 君のその目の輝きには、かなわない
 この溢れ出だす涙をとめられない 

(作詞、作曲、編曲、歌:西浦達雄)


 余談ですが。
 歌詞カードには彼の活動の記録が書いてありました。よく見ると、甲子園球場「炎の5回裏」とありました。出来た当初は、「ちっ、巨人のマネしやがって、プライドがないんか、球団はよぉ」とかうそぶいてたのですが、作者が西浦さんとわかると話は別です。おまえにも、阪神ファンの“プライド”あらへんやんけってな具合ですが、ま、この球団にしてこのファンということで、ご勘弁願います(苦笑)。



2003年10月24日(金)
高野連にポン


 仕事場がともきちん家の近所だったので、今日はともきちとおデー。行きつけの居酒屋へ行った。マスターの人柄を慕った常連客の多い店だが、今日は閑古鳥?2時間ほどいたが、客が私たちだけという状態がわりと長く続いた。

 いつもは有線が流れる店内だが、今日は日本シリーズの中継。マスター自身阪神ファンなのだが、それ以上に店にくるお客さんに対する配慮なのだろう。ところが、この有様。「やっぱ、日本シリーズやから、みんな家で見てんのかな?」とため息。そっか、こんな日に飲み屋に来て、ツレの愚痴(心がケチな人はダメねという話)を聞いてる阪神ファンってちょっとおかしいのかもしれない。

 そうそう、実は今日、相方くんが甲子園に行ってました。レフトスタンド30段100番(多分)に座っていたアヒル顔の男性がヤツです。2日前にサークルの先輩に譲ってもらったそうで。仕事で行けなくなったからとかで、「それなら一番(応援を)がんばってるヤツに見てきてもらおう」ということになったらしく。そうなると、あの9・15のために3日前から並んでいた彼の右に出るものはなく。やっぱ神様はいるんやなあとか思ったりして。

 帰り、道で野球選手らしき子とすれ違った。ふうんと思って通り過ぎたのだが、近くのホテルに「歓迎○○高校ご一行様」と書いてあってビビッた。明日から始まる近畿大会のために泊まり込んでいるのだろう。でも、皇子山球場とここでは同じ大津でも遠いやん。「そんなん高速でビュンと行ったらすぐやん」とはともきち@大津市民。それにしても、彼らどこに行こうとしてたんやろ。

ともきち:「ふふふ、飲みに連れて行きたかったねえ。現役球児と一杯やるなんて貴重やん」。
私:「そして、写メールで高野連にポン」
ともきち:「日記に書かれへんやん」

 最近、妄想の世界からなかなか戻ってこれません…。



2003年10月23日(木)
文字変換と私。


 今日、仕事の移動中の車内では、携帯の話で盛り上がっていた。着うたをアラーム音にしている人がいる。その音は、ヤイコのこの曲。♪目〜をさまさないで ダメじゃん。

 もうそんな時代の流れについていけそうにない私だが、我が携帯:J−SH53(SHARP)に注文がある。メールを打つ際の文字変換、なんとかならんか。前の携帯はたいがいアホで、「両手」すら変換できないくせに、「ミスチル」と入れるとご丁寧に「Mr.children」と変換するという、オヤジがカラオケでウケを狙って無理して若い人の歌を歌うような気遣いがあったりした。進化したんやらか、今度こそ賢いのを!と思ったけど、今後は賢すぎてむかつく。こないだ、「郎」の字を出したくて、「ろう」と打って変換してみたところ…。なんで変換候補が90個弱あって、「郎」が出てこおへんの。「ろうけつ染め」があって、なんで「郎」がないの。日本全国、携帯ユーザーのなかで、「ろうけつ染め」の変換が必要な人ってそないおらんやろ。呉服問屋にいたころ聞いたけど、なんのことかすら忘れたわ。なんか意味のわからん言葉を広辞苑で調べると、説明文の中に意味のわからん言葉を見つけたときのようなストレスがたまる。

 ただ、今回の携帯では、「球児」が一発変換されるから助かる。以前は、「たま」→変換→「球」、「じどう」→変換→「児童」→童を削除という世にもややこしい手順をとらねばならばかったので。

 PCは携帯と比べると幾分か賢いが、びっくりするのは、「観戦記」が一発変換できないことかな?一発変換すると、「巻線機」となる(笑)。あと、ローカルネタにが欠かせない「京滋」も出ない。「京都滋賀」と打って、いらんものを消す。なんか裏方でかっこ悪いことをして、かっこつけてるような、妙な良心の呵責にかられる。ま、読みかなを変えたりして出てくるだけマシで、高校野球を中心に文章を書いていると変な校名にも遭遇するわけで、中にはいちいち手書きで入力しなければならないときも出てくるから、それくらいで文句も言えないのだけど。
 



2003年10月22日(水)
試合終了


 2−5で、その高校の夏が終わった。私は次の試合を見るために球場に着いたばかりで、まだ息があがっていた。サイレンが鳴った。

 サードベースコーチがグランドに突っ伏せていた。夏の終わりを象徴するシーン。これまでの試合展開も知らないし、彼の名前も知らない。でも、生で見るその姿は、やっぱり胸に迫るものがある。私は応援している高校を通じて、“夏が終わる瞬間”を何度も味わっている。この瞬間、時間の流れを忘れる。選手の時が止まり、そして、私の時も止まる。今回もそうなるのだろうと思った。

 ところが、すぐ後ろにいた塁審が、彼のお尻をポンポンと叩く。彼の反応はない。すると、塁審は彼に何か声をかけ、すでにチームメイトが整列しているホームベース付近を指さした。その指は、ムッとして彼を叱っているように見えた。まもなく彼は立ち上がり、小走りでホームベースへ向かった。

 あの瞬間って、こんなに短かったんや。
 こんなあっけないものやったん?
 私は、毎年こんな短い時間にいろんな気持ちを詰め込み、回想までしているんだ。信じられない。どんなにすごい圧縮ファイルやねん。

 もう少し、彼に時間をあげて欲しかったと思う。でも、「まだ試合は終わっていない」と言う塁審の指先は正しい。



2003年10月21日(火)
グランド日記ビッグウエーブ


 この「野球日記」は頻繁に更新しているが、他のコンテンツの更新は牛の歩みより遅い。自分でも、「こんなんじゃあかんやろ」と思うのだが、書けないものは書けないのだ。

 更新の傾向は、だいたい半年に1度くらい狂ったように一気に書き上げるというもので、何がきっかけになるかはよくわからない。本当はグランドに行ったら、その日に書くのがベストだと思う。ところが、プランクトン級の些細な「明日でいっか」が命取りになって、何年も放置された状態のものもある。もう記憶がやばい。

 ところが、今日、久々にビッグウエーブがやってきたので、狂ってみた。今までのことを教訓に、簡単な文章でもいいから、一昨日行ったグランドを早めにあげてしまおうと思い、ちょっとふんばってみた。すると、それがスイッチになり、一気に文章構成が浮かんだのだ。今まで、「この文章は仕上がるのだろうか」と首を傾げていたのが嘘みたい。結局、一気に7校もアップしてしまった。途中、「ここで止めたら次はいつ書けるかわからへん。果てるまでいけ〜」と自分に鞭を打って夜中まで更新作業。ムラで出来た人間ですわ(笑)。

 さて、今回のビッグウエーブにはちょっと思い当たるフシがある。実は、高校野球サイトの管理人である知人から(『ベースボール倶楽部』ではありません)「(グランドへの)道順などをかなり詳しく紹介してしまったのはどうかと思って、(HPに載せるのは)自粛しました」と書かれたメールをもらったのだ。私はそれを、「そっか、詳しく書かなくていいんだ!書かない方がいいなんだ!」と妙な感激の中で読んだ(ごめんなさい)。元々、説明文は読むのも書くのも苦手だから、どこに何があるか書かねばならないグランド日記はちょっとしんどかったのだ。これで、説明文から解放される。ひゃっほ〜い!ってな具合だ。



2003年10月20日(月)
皇子山球場の遠近感


 この秋、皇子山球場が熱い!
 神宮行きをかけた大学野球のリーグ戦に、センバツをかけた高校野球近畿大会と豪華な試合が目白押し。

 福井在住の友人・みどりさんは、会場のある皇子山球場の場所を聞いて、「(近畿大会を)見に行ってみようか」と言った。近畿大会は6年ローテンションで会場が変わるが、福井の人からみると、高校野球観戦という意味で一番近い他地方は滋賀になる。それも、電車やバスで湖西線の近江今津へ行けるようになっているため、そこから皇子山の最寄駅「西大津」までは1時間かからない。近畿大会を見るなら、滋賀会場である今年がチャンスなのだ。ずっと、「他の地方の試合を見たい」と言っていた彼女だが、なかなか機会に恵まれなかったようだ。今年は、是非近畿大会デビューを果たして欲しいもの。他地方での観戦には地元では得られない魅力があり、知り合いとかもいないので気楽でよかったりする。その良さは私も知っているから、昨日会ったときに、「是非来てくださいね」と念を押しておいた。

 かく言う私は、電車で一駅の場所なのに、今のところ観戦の予定はない。ただ、改造後の皇子山には一度は行って確認しておきたいことがある。それは、車窓から見たとき、スタンドの石段(アスファルトなんだろうけど、石が混ざっているような素材だった)が残っているように見えるのだが、それは本当かどうか。

 皇子山球場の石段スタンドには想い出がある。高校生のあの秋、カクテル光線の中、ともきちは悔しくて鞄を冷たくなったスタンドの地面にたたきつけた。あれが、いまだ終わることのない東山活動に始まりで、戻るべき原点だ。改装を知ったとき、ともきちは、「あの石段もなくなって、こぎれいなスタンドになるんやろな。もう私の愛する皇子山球場じゃなくなるんやろな」と言っていたのだ。だから、なんとなく石段が残っているとうれしく思う。
 



2003年10月19日(日)
インスピレーション


 今日は、福井県の1年生大会たるものを観戦した。対戦カードは、敦賀ー金津。この大会は、試合会場や時間を対戦校同士で決めるため、関係者以外が観戦するのはなかなか難しい。幸い、敦賀高校には野球部のHPがあるため、そこに日程が載っていたのだ。いとありがたき。

 会場は敦賀高校の練習場でもある敦賀市営球場。場内には双方の父兄や部員、近所の人や制服姿の女子高生がいた。試合は秋晴れ(というか暑くて焼けたよ)の中、熱戦が繰り広げられた。双方1年生であるためか、ミスは普段のそれより多かった。序盤は金津に送球ミスが目立ち、敦賀が6−0と大量リード。ところが、中盤以降は金津がジワジワ追い上げた。そして、8回にはついに8−8の同点に。序盤の展開を見ていると、「コールドかもなあ。昼には帰れるかな」とのんびり構えていたが、そうもいかなくなった。

 9回表、金津高校は二死ながら、ランナー三塁のチャンスを迎えていた。そこで、敦賀ベンチが動いた。ライトにいた選手をレフトへ。後で書くが、この選手は今日絶好調だった。結果、ふらふら〜とレフト前に小さなフライがあがり、代ったばかりのレフトがボールに飛び込んでキャッチ。敦賀高校スタンドは大いに沸いた。そして、その裏、今度は金津のキャッチャーがファールフライを好捕。双方、さっきまでポロポロやってたチームとは思わない。高校野球って、やっぱ精神力なんかなあと思ってしまった。

 延長11回。金津がスクイズで1点を入れ、敦賀も万事休すかと思いきや、二死二塁、センター前ヒットでランナーが還ってきた。クロスプレー。判定は、セーフ。

 勝負は12回についた。
 背番号をつけていない2年生部員による応援は熱を帯びていた。敦賀高校は大きな赤いメガフォンを持ち、歌ったり踊ったりとしていた。ピンチのときは、さすがに先輩で、するどいアドバイスが飛んだが、ここまできたら、みな前のめりになって試合を見守っていた。声が枯れていた。金津高校の2年生はベンチの外にいた。ヒットが出たり、得点が入ると、自分たちが試合に出ているときのように喜んで1年生を出迎えていた。中でもキャッチャーの子の飛び上がる仕草がかわいかった(笑)。で、この回から、1年生も含め、ベンチにいた選手はみな、スタンドの最前列に移動し、空きペットボトルを手に、これまた前のめりに試合を見守っていた。敦賀の「10」番をつけた選手の打球がセカンドの頭上を越え、ライト前へ、約4時間の長い試合が終わった。
 
 バッターは、勝負が決まっても走塁の速度をゆるめることなかった。そして、三本間で歓喜の輪ができた。金津のマウンドには膝を折ってうなだれる選手がいた。練習試合に毛が生えたもの。試合前、私はそんなイメージを持っていたが、どんな試合であれ、勝てばうれしいし、負ければ悔しい。大会の規模とかは、選手や応援団にはそれほど関係ないのかもしれない。挨拶がおわって、ベンチに帰るとき、うなだれるチームメートを励ます金津ナインの姿があった。

 スタンドはようやくざわめき、観客が球場外へ移動し始めた。すると、ネット裏に敦賀の監督らしき男性が姿を見せた。記録を取っていた関係者に何か話してるようだ。耳を澄ましてみた。「いい試合だった。9回、守備代えたの。打球が飛んでくるなって思って。インスピレーションだよ」。私は、印象に残っていた9回表のレフトのファインプレーを思い出した。確かにアレがなければ、試合はどうなってたかわからない。さっきも書いたが、彼は今日絶好調で、3安打か4安打くらい打ったし、最終回はピッチャーだった。なかなかセンスのある子なのかもしれない。それにしても、見事な勝負勘だ。

<1年生大会1回戦> 
敦賀 10x−9 金津 (延長12回サヨナラ)
※公式HPで確認したところ、延長11回になっていました。



2003年10月18日(土)
悩んだ末の結論…?!

 
 旅行中、Nさんからメールをもらった。「18日は、関西六大学野球の優勝決定戦と日本シリーズに第一戦が同じ時間帯にあります。どっちを見るか悩みます」とのこと。そうして、私にもその悩みは感染する。怖い話を聞いたら、誰かに同じ話をして怖がるのを見て、気を紛らわせる。あの戦法ですね(笑)。

 関西六大学の優勝決定戦は、我が母校・龍谷大学対京都産業大学。球場は家から最も近い皇子山球場。日本シリーズは、相方くんが甲子園でのPV(パブリックビューイング)チケットを買っていて、「余ったら誘うわ」と言っていたので、誘われたらそちらに行かねばならばい。悩みはしたが、自分の意志だけで結論を出せない立場にいた。

 ところが、今日昼をすぎても相方くんから連絡はなかった。(「週末まで(隠岐に)いるんやと思ってた」相方くん後日談)ほな大学野球やなと思ったのだけど、結局、夕方以降、私は何をしてたかと言うと…『めちゃイケ』見てました。岡女体育祭完全版。一体何をしているのでしょう、私は。でもって、おもろなかったし。

 なんかね。3時くらいに急に、「もう球場は寒いんやろな」と思った。ちょうど1年前も西京極に龍産戦を見に行っているけど、半袖で行ってイタイ思いをした。寒いし、恥ずかしいし…みたいな。あと、勝ったときはいいけど、負けたときに1人で帰るのはあまりにもむなしいなって思って。母校というのはやっぱし特別。硬式野球部とは別に何も関係もないんだけど、チームが負けると、自分も否定されたような気分になってしまうのだ。不思議だ。その負けたときの気持ちの処理に自信がなかった。東山だと1人で行っても誰か知ってる人がいるからいいんだけど、母校の場合はそういう人、いないし。結局、深夜にネットで龍大が勝ったことも、阪神が負けたことも知った。

 ところで、Nさんは結局どちらをご覧になったのでしょう?



2003年10月17日(金)
隠岐への旅 『ベースボールカクテル』


 実は、旅の前いろいろあって鬱状態だった。私生活でのこともあるし、ホテルの予約のときに電話の向こうから受けた印象で、町から歓迎されているないような気がしたのだ。別に歓迎して欲しいとは思わないが、「来てもいいよ」くらいの雰囲気が欲しかった。テンションがあがらなくて、前日の夜に、「やめようかな」とすら思っていた。飛行機が離陸するとき、そんなウジウジした気持ちは伊丹においていって、隠岐では何も考えずに楽しもうと思った。でも、気持ちの切り替えって簡単じゃない。隠岐高校のグランドへ行ったときの私の精神状態はそんな感じだった。

 ところが何故だろう。グランド整備をしている部員達を見ていると、胸のつっかえがすっと取れていくのを感じた。私、癒されていく。そう思った。

 ベース周りが、トンボを持った部員たちによって、滑らかになっていく。グランドの土の色がそこだけ濃く変わる。別段なんてことないグランド整備。はっと目をひくものもない。事態は何も解決していない。でも、段々段々自分が楽になっていった。

 野球って人をこんな気持ちにするんだあ。
 私は自分で自分に驚いた。

 お酒もそうだけど、たった一口が究極においしいときってある。そんな体験をした。



2003年10月16日(木)
隠岐への旅◆ 悗△襪海旅堝圧録』


 ★2日目。

 朝からごはんとみそ汁だなんて、何時代以来だろう。食事付きの旅はいいもんだ♪今日の旅の始動は10時。ベットメイクのおばちゃんがごぞごぞ動き始めたころ、ホテルをあとにした。今日は五箇方面へ行く。ほんまならロウソク島とか行けたはずやのに、ヒロシ(注:父です)のアホ〜。

 それはともかく。
 10時25分発のバスだったので、10時25分ちょうどに着いたバスに乗ると、「これ、営業所に行くから」と言われた。紛らわしい時間に、紛らわしい場所に止まんなよ。ま、出発前に言ってくれたから良かったんだけどさ。まもなく、本命の五箇行きバスが着た。道中、五箇村に入るまではおばあちゃんまみれになる。「外に出ないとダメね」「わたし、このバスになって(整理券を取る方式のヤツ)から初めて乗るからよくわからなくて」、顔見知りかそうでないかよくわからないような会話が交わされていた。途中からは自由乗降。私の田舎ツアーもついにここまできたか…。

 五箇村に入ると、1人ぼっちのバスの旅。バスは、壊れてるんちゃうかと思うくらいゆっくり走った。そのおかげで景色をじっくり見ることができた。私がこの島で見た好きな光景の1つは、縁側に座って、おしゃべりしているおじいちゃんおばあちゃんたちだ。仕事の合間なんだろう。なんか心がぽかぽかする。

 水若酢神社、隠岐郷土館(ここの受付に「一人ですか?」といぶかしげな顔で聞かれた。悪いか)、五箇創生館と一気に回った。で、次はまたもやバスに乗って、隠岐温泉へ。しかし、温泉の開業時間は午後2時から。今、午後12時半。どないせえっちゅーねん。私は時間をつぶすのが下手なので、30分ほど後に来た西郷方面のバスに乗って帰ることに。

 帰り、19世紀のフランス老兵みたいな運転手のおじさんに、「もう帰るの?バス、まだあるのに」と言われた。口調は優しかったけど、鉄の仮面みたいに変わらない表情がちょっと怖かった(汗)。いい人だったんだけどね。車内に私1人にあると地元のことを色々話してくれた。

 私には気になることがあった。モーモードームに行ったときに見たパネルで、「負けた牛は悲しい一生を送ることもしばしばです」と書いてあったのだ。悲しい一生って?おじさんが牛突きの話をしてくれたときに聞いてみた。「負けたら、もうダメだね。二度と戦えない」。燃え尽き症候群ってことかな?いや、牛にとってもっと重い本能的な物を奪われてしまうのだろう。私は黙り込んでしまった。すると、おじさんは言った。「だから、勝負が完全につく前にほどほどのところで、ひきあげるんだよ。普通の大会はね。横綱同士だとそうもいかないけど」。そう言えば、ここに伝わる古典相撲も2回取って、2回目は1回目に負けた相手に勝たせて面目を保つようにするらしい。

 観光協会の回し者かというくらい観光を勧めるおじさんにノセられ、途中下車して玉若酢神社へ行った。現地に着くと、観光バスが出発したところだった。境内にいた写真屋さんは道具を片づけて出ていった。またがらんどう。お参りして、散歩がてら西郷港に戻った。まだ、時間は余ってる。それならと明日に予定してたサイクリングへ今日行ってしまおうと、観光協会でチャリを借りた。びっくりするくらいボロいチャリで、いざ出発!

 行き先は夕日の見える丘公園という場所で、ここから島前の島々が見えるのだという。西郷大橋を渡ると、ダラダラした登り坂。かなりしんどかったので、自転車を押して歩くことに。しばらくすると、下り坂になって、目の前には蒼い海、緑の草原、岩肌の見えた崖に、放牧された黒い牛(?)。人気がないことをいいこと、「ひゃっほ〜」と叫んでしまった。絶景やね。ふわぁ〜とか言いながらアホみたいな顔してチャリで坂を下った。風が涼しかったけど、帰りはこれが登りになるのだと思うと、「いやん!」って感じ。

 ここらは開発中で、工事現場があちこちあった。土を掘り起こしている場所はなぜか牛の糞くさかった。カラスが土を掘り起こすショベルカーをじっと監視しているかのようにたたずんでいた。

 そんなこんなで、西郷港から4km強。夕日の見える丘公園の到着。なんてことない雑草ぼうぼうの場所に木のベンチがあるだけ。景色はきれいにはきれいだった。普通ならここで、「疲れがふっとんだ」ということになるんだろうけど、素直に心の声に耳を傾けると、「ま、これくらいじゃないと、くたびれもうけやで」という答えが出た。私、バチ当たりですか?感動は義務じゃないし、いいってことで。帰りは、行きよりすんなり帰れた。往復9km弱を1時間半で走破。明日、ヤバいな。

 自転車を返したらすぐホテルへ戻って、夕食。今日は昨日より量がちょっと少ないと思った(苦笑)ので、アカイカの煮付けを追加。やらかい、やらかい(柔らかいの意)。今日のお酒は、隠岐の誉。熱燗でいただいた。とても飲みやすかった。それにしても、すること、もう尽きた。明日何すればいいんやろ。


 ★3日目。

 漁港そばで魚を売っているお魚センターの開店は10時。また間際まで部屋でウダウダしてからの出発。開店まで近くのベンチで待機。店の人がドアを開けた瞬間、立ち上がった。開店一番客ですぅ。イカを二種類と塩鯖、岩のり(おつまみにイケる)と地酒を買って、本日の任務終了。ヒマで狂いそうだったので、ホテルの総合案内場にあった旅のノートに書き込み(見つけたら教えてね〜)、地図で見つけた東山神社へ行き、諸浦神社へ行っても時間が腐るほど余った。ヒマに任せておかんに電話し、路地裏にいた犬を写メールに撮り(失敗)、1年ほど音信をとっていなかった学生時代の友人に突然メールを送ったりした。昼はお好み焼き。そして、隠岐自然博物館の入り口にあるビデオでの観光案内を見て時間をつぶす。ここで初めて、私の頭の中で後鳥羽上皇と後醍醐天皇がこんがらがってたことに気づいた(2人とも政治犯で島流しで隠岐に来ました)。自然博物館(有料)に入ろうと思ったら、受付に人がいなかった。タダで入れそうやなと思った。でも、これまでの観光スポットがかっかり度を思うとここも期待をもてそうにない。やめた。

 空港行バス出発の2時半まで、バス停前の木のベンチに腰掛けて読書を1時間半ほど。バスに乗り込んだとき、そのバス停前に妙な愛着を感じる自分がいた。一昨日空港前からここに降ろされたときは誰もいなくて、孤独で泣きそうになったのに、今では懐かしい始まりの場所で、妙に落ち着く場所になっていた。バスの時間待ち。休憩。暇つぶし。何かにつけ、ここに座っていたことを思い出した。

 隠岐空港に着いて、携帯写メールのモードが替わっていることに気づいた。100万画素っていうから、ご機嫌であちこち撮ったのに、ずっとピンぼけ画像でおかしいなあと思っていたのだけど。私って…



2003年10月15日(水)
隠岐への旅  悗△襪海見た隠岐という町』


 隠岐ツアーから土壇場で「や〜めた」と手を引いた父が言った。「飛行機、どうせプロペラやろ。パラパラパラァ〜や」…ってホンマにプロペラやったやんけ。座席は40席もない。大型バスでも50くらいあるのに。で、すごく揺れる。すごい騒音。酔った。オエ〜。

 隠岐で過ごした3日間は、親切と不親切が極端に入り交じって、情緒不安定になりそうだった。旅の前から薄々勘づいてはいたが、この町は一人旅の者には冷たいというか、応対に困っているような印象を受けた。観光は大切な収入源だからこそ、収益の多い団体に焦点を合わせているのだろう。それはそれでしょうがないか。でも、焦点のぼやけたスタンスで旅をしたからこそ、素の町の様子を垣間見たような気もしないではない。決していいことばかりではなく、むしろ不愉快というか腹立つことの方が多かったけど。

 ます、民宿は1人だと断られたし、ホテルに予約の電話をしたときも応対が悪かった。郷土館などに入るときも「1人ですか?」といぶかしげな顔されたし、受付も人がいなかった。たぶんタダで入れたと思う。寺も団体観光客が出ていくと、誰もいないがらんどうのただの古びた建物。五箇創生館にあるレストランで、「梅干しを抜いてください」と頼んでおにぎりを作ってもらったら、梅干しが入ってた。やる気か?おまけに勘定するにはレジに店の人がいない。呼んでも、呼んでも出てこないから、厨房まで行きましたよ、わたしゃ。工事をしていた業者のおじさんさえいなければ、食い逃げ出来た。で、やっとレジから出てきたおばさんが、「どうでしたか?」と聞きやがる。「どうしようもないわ」とはとても答えられなかったけど。店を出て、イライラしたのでコーヒーを飲もうと自販機で缶コーヒーを買うと、ヘコ缶やった。28年間生きてて初めての屈辱。ホテルは予約時の印象とうって変わっていいところだったけど、戻ってきたときに、「そこに鍵おいてあるんで、ご自分のを取ってください」っていうのはどうなんだろう。受付んとこに5,6個の鍵が並んでた。セキュリティー、大丈夫?田舎の家は鍵をかけないって聞くけど、ホテルでもそのノリやったらあかんやろ。最終日の昼は立ち読みしたガイドブックに書いてあったお好み焼き屋さんへ行った。まあ、おいしかったけど、おしゃべり好きで気さくなおかみさんは奥の部屋でむっつり顔でネギ切ってたし、店に出てたハリガネロックの大上そっくりな兄ちゃんには愛想がない。そういえば、この3日間いろんな店や施設に行ったけど、イキイキした「いらっしゃいませ!」は聞けずしまいやったなあ。いらっしゃいませの声かけすらなかったとこもあったし。のんびりしてるというか、いい加減というか…。平日閑散期の極みをたっぷり味わわせていただきました、はい。

 もちろん、いいこともありましよ。道行くおじちゃんやおばちゃんが、挨拶してくれたり(誰とも話さない一人旅の身、挨拶という名のぬくもりには弱い)、バスの運転手さんが観光案内してくれたり、バスガイドのお姉さんに寺の見所を教えてもらったり、ホテルではご飯を食べながらマスターと隠岐高校や阪神の話で盛り上がった。(最終日の朝の挨拶が、「星野さん、辞めるんやってねえ」だったから)

 3日間快晴だった(ただし1日目の夜は雨)。印象に残ったのは、大きな鳥(カラスとか)が非常に低い位置を飛んでいたこと。襲われるんじゃないかと最初はちょっと怖かった。2日目ぶらぶらしていると、漁師さんが釣ってきたアカイカを水揚げしていた。めちゃデカかった。水揚げのシーンはテレビでしか見たことないから、物珍しくて、ずっと見てた。

 でも、やっぱりここは大勢でわいわい来る方がいいと思った。車があればなおいい。車がなかったので、時間が余ってしゃあないのに、動けないということで最終日はしんどかった。名物のロウソク島も見れなかったし。家に帰ったら、私の撮った写真を見た父が言った。「なんや、晴れてたんや。ワシも行けば良かったな」。なんじゃ、そら。



2003年10月13日(月)
メガフォンの君


 遊学館高校の試合には集中できない。何故か。応援団があまりにもおもしろいから。言葉ではうまく言い表せないのだけど、他の高校とはちょっと違った歌が使われスタイルもちょっと変わっている。踊りは、テクノロボのように小刻みに動いたり、ときにまじめなラジオ体操の動きが混じったりと、おもしろいというか、滑稽というか…。気づいたら、試合そっちのけで、応援席ばかり見てた。

 応援団の部員の持っているメガフォンは、4色ある。青、赤、黄、ピンク、紫。そのうち、後者3つは1人しか持っていない。これは推定だが、青が1年生、赤が2年生。残りの3色は応援団幹部なのではないか。

 やはり目立っていたのは、最前列を陣取る黄、ピンク、紫の3色のメガフォンの選手。オリジナルの踊りに加えて、細かいアドリブが効いているし、滑稽さも違う。そもそも、どぎついピンク色のメガフォンを持っているという地点で、もうおもしろい。その日は、黄色とピンクのメガフォンが特に目立っていた。このノリ、絶対関西人や。右が尼崎出身、左が寝屋川やなと勝手に想像して楽しんだ。落ち込んだときや悲しいときにこのビデオかDVDでもあれば、ちょっとは元気になれるかもしれない。

 そんな彼らだが、一つ一つの動きを見ていると、運動神経の良さがうかがえ、それでも試合に出れないんだと思うと、なんだかなと思った。



2003年10月12日(日)
せやから、蝋燭ぷれいはやめなはれ


 実は今日、京滋大学リーグの試合を見に行こうと思ったが、朝に母が体調を崩した。別に母は「出かけるな」とは言っていなかったが、どうも家を出る気にはなれなかった。こんな事態、初めてだ。昔ファームの試合を見ているときに、おじいちゃんが死んだと電話で聞かされても普通に試合を見ていたのに。寝込む母を目の当たりにして、自分が無力なのを思い知った。やっぱり、私の年頃って結婚してるか、仕事持って自立していなければならないんだなって改めて思った。もしもお母さんは死んだらどうしよう。縁起でもないけど、そんなことを考えると、あれもこれもで気持ちがどんと沈んだ。

 幸い母は夕方になると症状が楽になったみたいで、昨日から約束してたともきちとのおデーに出かけることが出来た。滋賀県内一号線を、歩く、食べる、歩く、飲む。歩行者通行禁止の小さいトンネルの路肩を通って、車に“ファンッ!”と一発かまされた。

 締めは、駅前のビルの屋上にあるバー。屋外のテラスに席を取った。滋賀の夜景は、どぎついネオンがなくて上品だ。街が静かなのもいい。ライトは星のような色をしてる。視界の端に琵琶湖を捕らえながらの乾杯。初めて飲んだのだけど、ラムインコークはうまい。テーブルの真ん中にははかなげに揺れるろうそく。これが明かり代わり。メニューが見にくくて苦戦した。私たちはラムインコークをちびちびやりながら、時間をやりすごす。

 私はこないだ換えた携帯のアドレス帳をいじりながら、六甲おろしは誰の着信音にしようかと迷い、ともきちは一人蝋燭ぷれいにいそしんでいた。蝋(ろう)を指先にたらし、「見て、見て〜。私の指紋模様のろうそくが出来たぁ」「うわ、指先が蝋燭になった」とか言ってた。挙げ句の果てに、「この微妙な熱さが快感やねん」だってさ。明らかのMキチじゃねえか。ま、私も高校時代はクリスマスミサ(兼二学期終業式)のとき、ヒマだからと蝋でプログラムが書かれた紙に「あほ」って書いて遊んでたけどさ。どうやら、彼女とのつきあい方を考え直さねばならない時期がきたみたい(嘘)。

 でも、類友とはよく言ったもので、私も家帰ってネットでフラフラ野球系サイト見てたら凹んでしまうのに、いっつも見ているもんなあ。自分をいじめたいとしか思えへん。



2003年10月11日(土)
ベンチ前のワンシーン


 第一試合 福井 7−2 武蔵工大二

 2−0で武蔵工大二がリードしていた7回表、福井もようやく相手投手と捕らえ始め、一死二三塁のチャンスを迎えていた。さあ、スクイズか?ヒッティングか?どうする、バッテリー?と頭を緊迫モードに切り換えようとした矢先、武蔵工大二にバッテリーミス(ワイルドピッチ)が出た。

 ボールは転々と転がり、ランナーが1人還った。キャッチャーはまだボールに追いつけない。そして、ボールは三塁側福井高校のベンチへ。キャッチャーはあわててベンチの中まで追いかけるも、背走気味の姿勢の上、グランドとベンチ間の段差に体勢を崩した。気づくと、二塁ランナーも帰還。その姿を見て、福井高校のベンチがわいた。みんなが輪になって万歳みたなことをしていた。なんて言ってるのかまではわからなかったけど、声がよく響いた。

 そして、そのすぐ横にまだ立ち上がれずにいるキャッチャーがいた。もうすでにランナーのいなくなったホームベース辺りに目をやっていた彼は、がっくりと肩を落とした。すらっとした長身。頭が小さくて、モデル並の身体バランスを持っている。これは試合序盤に彼の姿を見たときの印象だか、なぜかこのとき、そんな自分の言葉が頭の中でリプレイされた。それにしても、喜びに沸く相手校ベンチの中で迎えた痛恨の瞬間(とき)。一体、どんな心境になるんだろう。こんな場所で試合の明暗が分かれるのは、ババをひかされたようでちょっとかわいそうだなと思った。一塁側武蔵工大二スタンドから音がなくなった。このあと、どんな展開になろうと、私がまっ先に思い浮かべるのはきっとこのシーンだと確信した。

 試合は、2−7で終了した。ベンチの挨拶が終わったあと、背番号「6」をつけた選手がうなだれていた。あのとき、マウンドにいた選手だ。整列のとき一番先頭にいたから、キャプテンだと思う。秋の終わりは、重くて切ない。そして、センバツはまだ遠い。



2003年10月10日(金)
いやん。


 学校生活というものが大嫌いだったので、小中高の卒業アルバムや文集はすべて捨てた。ところが、何故かPCルームの片隅で彼らを発見。母曰く、「捨てるんやったら、私がもろとこって思って…」

 それで、ふと思い出したことがある。中学の卒業アルバムの中で、グランドに3年全員(500名程度。当時は、マンモス校でした)で、撮った写真がある。レンズは、校舎の屋上からグランドにいる生徒を見下ろす形で向けられ、生徒はそのレンズに向かって何かしらのポーズと撮っている。ポジションは、「学校へ行こう」の未成年の主張(だったっけ?)みたいな感じだ。

 何とも思っていなかった写真だが、ふと見ると、グランドの片隅に野球部員が。しかも、これから部活なのか、こともあろうに、生着替えの最中で、中にはトランクスを公開しちゃってる子もいた。彼らは下級生だから、兄弟でもいない限りこの写真を見ないだろうけど、自分の知らないところで、トランクス姿が映った写真を後生大事にもたれてるとはたまらないね(笑)。是非とも、「探偵ナイトスクープ」で本人達を見つけ出して、見せてあげたい。

 あちこちのグランドへ行く。その大半が学校のグランドを使っている。「ああ、ここは学校の体育の授業でも使うんやなあ」と思うと妙な気持ちになる。野球部の使う場所には、マウンド部分が高くなってたり、黒土があったりと、普通のグランドのそれとはちょっと違った趣がある。野球部のあった高校出身の友人に、「(それを)意識したことあるか」と聞くが、「さあ?」という返事しか返ってこない。うそんと思っていたが、私自身も中学時代に野球部があったが、グランドで野球部の存在を意識したことはなかったんやなと、その写真を見たときに思った。

 余談だが、すでに文集を手元に持ってなかった二十歳のころ、アルバイト先の塾の生徒に、「先生、小学校の時の文集にこんなこと書いてるやろ〜」と言われてビビッたことがある。彼女の姉が、私と同級生だったのだ。最悪、地元大嫌いぃ〜。



2003年10月09日(木)
風景の切り取り


 未だ終わることはないのだけど、「こんな文章でいいんやろか」という私の悩み(というか愚痴)を聞いた知人がこんな話をしてくれた。

 たとえば、ピッチャーがボールを投げるというひとつのシーンがある。カメラを構えたとき、これをどういう視点から撮るのかは人によって違う。ピッチャーを撮る人もいれば、バッターから撮る人もいるし、キャッチャーから撮る人も、サードベースコーチャーから撮る人もいる。だから、どこを切り取ったか。それだけでもその人が書いた文章であるといえるんだ。

 「私ならバッターに向かっていくボールにピントを合わせてあとは、わざとぼかして撮るな」などと考えながら、その話を聞いていた。わざわざ「自分はこう思った」と自分のことを出さないからと言って、「事実だけ書いた無機質な文章」になるわけではない。自分の視点に自信を持ちなさい。そう言われているような気がした。

 最近、人から、「淡々とした文章になってきた」と言われる。「感動が伝わってこない」とも言われたことがある。なんでだろうと思ったけど、もしかしたら、今の私は自分のことにそれほど興味がないんじゃないかという結論に至った。それより、自分が見てきたものや、聞いてきた話そのものに興味がある。それを書くことが今の私のとっては、自己表現である。だから、以前から日記を見ていた人から見れば、「淡々としている」と思われても仕方ないかな。

 体が動くうち、足が動くうちは、あちこちいろんな場所に行って、いろんなものを見たり、聞いたりしていたい。能書きをたれるには、まだ若すぎるもん。



2003年10月08日(水)
☆あるこから読者様にお知らせ☆


 こんばんわ。今日は平日ですが、仕事がありません。これ幸いと家でゆっくりしたいと思います。

 さて、突然ではありますが、日記のリフレッシュ休暇を取ります。実はちょうど2年前も風邪が長引いて、日記休んでるんですね。人には何らかの周期というものがあるのかもしれません。

 再スタートの予定は、2週間後の10月22日です。それではみなさま、ごきげんよう。あるこでした。

追伸:10/9〜21間の記入のある日記の大半は22日以降に書き足したものです。



2003年10月07日(火)
お父さんの選択


 Nさんは、2児の父。2人とも男の子だ。野球の好きなNさんのことだから、当然子供にも野球をさせているものだろうと思ったのだが…。

 Nさんは言う。
 キャッチボールをしても全く捕れなかった下の子が、最近ようやくボールをグラブに当てることが出来るようになった。あともう少しで捕れるところまできている。でも、野球チームに入ったら、「なんで捕れないんだ」と怒られるんだよ。

 野球好きのNさんの子供だ。もちろん野球には興味を持っている。野球のテレビゲームとかでも、配球を考えるようになったんだとうれしそうに話してくれた。そんなNさんが何より恐れているのが、子供が野球を嫌いになることだ。

 上の子が一時、少年野球チームに入りたいと言った。そのきっかけがお父さんが草野球で試合をしているのを見たことにあるらしい。不思議なことに、Nさんはその日絶不調でいいところなしだったらしいのだが、子供は子供なりに何か感じとったのだろう。そんな子供にNさんは言った。「野球チームに入ったら、褒めてもらえなくなるし、今よりもっときつく怒られるんだぞ。それに、日曜日も遊びに行けないし。それでもいいんだったら(チームに)入ってもいいぞ」。結果、上の子は野球チームには入っていない。Nさんは、「入るなって言ってるようなもんだよね」と言った苦笑した。

 私はこの話を聞きながら、もうすでに、「これを日記に書いてみたいな」と思っていた。反感を持つ人も出るだろうと思った。それは、Nさんの言葉の端々に表れている少年野球チームに対するイメージの対してである。私は少年野球がどのようなものかよくわからないが、Nさんの思っているようなチームばかりではないと思う。悪く言えば、Nさんはちょっと偏った野球観を持っていて、子供の可能性ややる気の芽を摘んでいる。でも、Nさんと向き合って話をし、彼の表情や仕草を見ているとどうしてもそういう風には思えなかった。この人は、野球や親子の絆を切ないほど大切にしているんだ。

 後日、人から「本格的に野球を始めるのは中学からでも遅くない。それまではいろんな競技で体を鍛えればいいんだ」と聞いた。今度、Nさんに会ったら伝えようと思う。



2003年10月06日(月)
2003年7月25日のもうひとつの日記


 ここに載せる日記は、2003年7月25日付日記の最後まで書き切れなかったボツ作品(自分で“作品”というのはなんだかなあ)です。この日は、東山が夏の京都大会で負けた日でした。ちょっと自分に酔いすぎてるので、恥ずかしいのですが。



 試合前夜、私が何をしていたかというと、以前つけていたスコアブックを眺めていた。2001年5月12日。その日は、鴨沂高校との練習試合だった。ダブルヘッターの第二試合、1年生が一挙9人も試合に出た。今は球場の電光掲示板で目にする名前が並んでいる。みんな、1年生だった。「この子らももうすぐ高校野球から卒業すんねんなあ」。そんなことを考えていた。ふと我に返って、「何してんねん、あかん、あかん」と何かを払い落とすように何度も首を振って、慌ててスコアブックをしまった。結果的に、これが私の感じた“敗戦の兆候”となってしまった。

 まず、負け方からして、しゃあないなあと娘に甘い父親みたいな心境になってしまう。12本のヒットに、エラー2つもらって、取った点は1点。それも、併殺間に入ったもので。残塁数を数えるのが怖い…。こっちはエラー0で(エラーくさいのはいくつかあったけど。記録員、万歳)。ピッチャーはよかった。大会初、公式戦初先発の野村くんも、プレッシャーとかあっただろうに、よくしのいだと思う。終盤、木村くんに交代。でも、与四死球はやっぱり多かったな。4回戦、いや3回戦くらいからかな?攻撃のチグハグさや、離塁にちょっと気がかりな面はあった。やっぱり強豪にそれでは通用しない。それでもやっぱり愛おしい。私は結果を受け入れる。今日が終われば、明日が来る。シンプルに言えばそれだけのこと。

 スタンドを出て階段を降ると、1人の父兄さんに声をかけられた。「今までありがとうございました」。私は、「おつかれさまでした」と返した。他になんて言えばいいのだろう。少しの沈黙のあと、「あの子たちは、地獄を見ているから…。そこからはい上がって、ここまで来たから。ただ、それだけで…」。父兄さんは涙が出そうになるのか、何度も目尻を拭いながら、話してくれた。

 いつもお世話になっていた3年生の父兄さんに、「次の人、紹介しとくわ」とまだ面識のない2年生の父兄さんの元へ連れていかれた。「がんばります」「よろしくお願いします」。挨拶はぎこちない。いつもそうだ。滞りなく、「こんにちわ」を言えるようになったころ、夏が終わってしまう。

 出待ちをしている間も、小さな挨拶を何度かした。黙礼だけで終わった人も、握手までした人もいた。「これからも東山を応援してあげてね」。この言葉を一番多く聞いた気がする。

 選手が出てきた。「おつかれさん」「ようやった!」の言葉が大きな拍手の中に混じっていた。そのあと、監督が出てきて、「選手に挨拶させるんで」と言った。東山活動史上初のことだ。選手のいる場所までみんなで移動。

 父兄さん、OB、ファン。多くのギャラリーの前に選手が整列し、高橋キャプテンが挨拶。

「ぼくたちのチームは不祥事があり、辛いこともあったけど、部員が辞めないで最後まで続けられてことがうれしかったです。3年生でベンチに入れないヤツもいたけど、みんな、応援してくれて…。試合には勝てませんでしたが、悔いはありません。今までありがとうございました」

 本当に晴れやかな顔だった。

 そのあと、集合写真の撮影が始まった。「はじけようけぇ」の声があがり、みんなざわめきはじめた。父兄さんのデジカメから、女子高生のカメラ付き携帯まで、選手たちには複数のレンズが向けれた。「こっち向いて」「こっち向いて」とあちこちから声があがる。被写体の選手たちは、「どこ見てええかわからん」「カメラ多すぎ〜」とか言いながらも、きっちりサービスポーズを決めた。一歩離れたところで、なんとも言えない優しい笑みをした監督が選手のそんな光景をじっと見守っていた。

 ひとまずキリがつき、ギャラリーがカメラや携帯を片づけたころ、選手がまたパフォーマンスを始めていた。みんなで何か叫びながら、帽子を一斉に空に向かって放ったのだ。安っぽい青春ドラマみたいやなと思いながらも、白い雲をバックに舞った帽子の残像は脳裏にしっかり焼き付いてしまった。

 なんで、こんなにあかるくて楽しいそうにしているんだろう。試合負けたのに。辛いことあったからこそ、「もう一度甲子園へ」の気持ちが強かったはずなのに…。



2003年10月05日(日)
今日の成績:1勝1敗


 今日は、久しぶりの練習試合♪
 昨日父兄さんから電話をいただいて知った。今秋は試合数が少ないので、1つ1つを大切にしなければ。

 2試合あったが、見たのは1試合だけ(自分、さっき“1つ1つを大切にしなければ”って書いたばっかりやん)。一時は逆転されたが、どうにか勝利を収めることができた。今日は2年生が修学旅行中のため、出場選手はすべて1年生。初めて見る選手もいて、それなりに収穫があった。(今日の名言:「おい、キャッチャー、何照れてんねん!」。)

 中盤は、日頃苦戦しているバックホームで好プレーが出て、ランナーをアウトにした。好プレーっていうと、すごいパフォーマンスのファインプレーかなと思われがちだが、そうじゃなくて、当たり前のことを当たり前に処理することが出来たという意味での好プレー。捕球のファインプレーやスローイングのファインプレーもぐっと目を引いていいのだけど、練習を見るようになってからは外野と内野の連携によるバックホームの成功を見たい自分がいる。相手ベンチでは、「スタートの判断は間違っていない。相手がいい返球したからな」という声が。やったね!

 夕方帰宅し、次なる戦いは、「日本シリーズチケット獲得テレフォンアタック」!夕飯食べて、しばしの休息のあと、相方くんのアドバイスにより、「1分前からかけ始める」も、すでに「こちらはNTTです。おかけになった番号はたいへんこみあって、かかりにくくなっています…」。撃沈。世の中そんなに甘くない。以降は、ネットいじりをしながらのリダイアル攻めだったが、ずっとアナウンス以外の声を聞くことはなかった。結局、10時前に相方から、「おつかれさまでした」のtel。チケットは全戦完売したとのこと。サークルのOB数名で総当たりしたが、誰1人ひっかからなかった。でも、世の中には電話がつながった人もいるわけで。何をどうやったら、電話ってつながるん?伊東家のみなさん、教えてください。



2003年10月04日(土)
掛布雅之氏の講演会に行って思い出した記録に表れないキャッチボールのこと。


 地元の文化会館で、掛布雅之氏の講演会があるというので、行ってみた。しかも無料である。一体、どういうコネを使ってこんなことが実現できてしまったのか。28年間根を下ろしているこの町にも、まだまだ不思議なことが潜んでいる。実は、掛布氏を見るのは2回目。1回目は、『探偵ナイトスクープ』の収録を見に行ったときに、顧問としてスタジオにいたのだ。でも、今回は小さなホールだったので、そのときよりも遙かに近い位置で、顔や表情まで見ることができた。

 会は、少年野球の選手が多数集まる中、トーク方式で話が進められた。掛布氏は、智弁和歌山の制服のようなブレザーを着ていた。普段テレビで見るのと比べて、はるかにかしこまった雰囲気があったからか、なぜか「高嶋監督に似ているなあ」と思いながら、ずっと顔を眺めていた。掛布氏ほどの有名な人だ。今更、ここだけという裏話もないだろう。でも、私は彼をそれほど知らないし、今年の日本シリーズの展望とかも読んでいないので、素直に「そうなんだ」と頷くことが出来たのは、幸いに思う。

 さて、一番印象に残った話は、キャッチボールの話だった。掛布氏が初めて一軍の試合に帯同したとき、中村勝広氏がキャッチボールの相手をしてくれた。中村氏は、投げるときは彼が捕りやすいようにと、優しいボールを胸元に投げ、受けるときは彼の下手さを見せないように方向のはずれたボールでも手で捕りに行かず体を動かしてきちんと正面から捕ってくれたのだという。掛布氏は、「2軍では“ボールだけのキャッチボール”だけど、1軍の方がしていたのは“心のキャッチボール”なんですね」と語った。ま、“心のキャッチボール”という言葉はともかく、相手のことを考えたキャッチボールであることには間違いない。そのときふと思った。その一軍の方は、返球も大事にするのかな、と。

 試合には、記録に表れないキャッチボールがある。それは、ピッチャーへの返球だ。1つのプレーが終わると、次のプレーを始めるためにピッチャーにボールを戻さなければならない。高校野球を中心に見ている私だが、このところ気になってならないことがある。

 返球、雑になってませんか?下手ならともかく、雑なんですよ。私が高校野球を見始めたころ、テレビに映ってる野手(主にキャッチャー)は、ピッチャーにボールを返すとき、だいたい胸元に投げていて、その位置が極端に変わることはなかったように思う。ところが、地方球場やグランドで見るそれは、位置がバラバラなだけではなく、明らかに見当違いの場所に投げてたり、ボールを地面にたたきつけるように投げてたりする。単なるレベルの違いかな?と思ってたら、テレビで見る甲子園でもそれに近いことが起こっている。

 そんな乱暴な返球したら、ピッチャーが余計な体力使わないといけないし、その返球1つにしてもスローイングの練習になるのにもったいないなあと思う。多くの指導者も“キャッチボールの大切さ”は口酸っぱく言っているのに、返球の雑さに檄を飛ばす場面には今まで出くわしたことがない。世の中にはいい加減な返球を突いて、果敢にホームを狙うチームだってある。今夏、京都大会で失敗に終わったけど、そういう試合を見た。野球選手の善し悪しの判断にはいろんな基準があるが、返球の存在も侮れないぞ、などと思う今日この頃である。



2003年10月03日(金)
お酒大好き、あるこです。


 1人でも多く自分のHPを見てもらいたい場合、目立つ場所に自分の嫌いなものを書かない方がいいと思う。

 他サイトの掲示板で、宣伝を何度もするような管理人が運営するサイトには本来なら行かない。でも、どういう気の迷いか、よほど暇だったのか、今回行ってみることにした。“どんなんかな〜”と思って、クリックすると、トップページにいきなり、『お酒は嫌いです』と書いてあって驚いた。私は、しばらくその文字を眺めたあと、ステータスバーの『←戻る』をクリック。結局、そのサイトを何ひとつ見ることはなかった。

 私はお酒が大好きだ。ま、一升瓶を抱いて寝るほどでないにしろ。でも、この人の中で、球場で酒飲みながら贔屓の球団を応援したり、夜の居酒屋で盛り上がる野球談義は、全否定されるんだろうな。私は身動きが取れなくなる。ご本人にお酒にまつわる苦い思い出があるのかもしれないし、その気持ちを批判する気はない。ただ、私のような酒好き野球好きには素直に入って行けないのだ。

 なぜこの人は、そんな目立つ場所に野球とは関係ない『お酒は嫌いです』と書いたのだろう。たとえば、アンチ巨人のためのサイトを立ち上げ、そこに『巨人が嫌いです』と書いてあるなら、よくわかる。そりゃ、巨人の好きな人には用事はない。でも、このサイトはお酒の嫌いな人のためのサイトではなく、野球のサイトなのだ。不思議だ、不思議だ、なんでそんなこと書いてるんだろう。

 そっか。これか、『酒好き野球好き』に対する拒絶のサインなんだ。ちっ、だったら、宣伝の地点で、「アルコールの入れずに野球を見るのが好きな人は来てください」って言ってくれないと。お互いの平和のためにさ。

 余談だが、私はトップページのプロフィールには自分の好きなことしか書いていない。でも、友人曰く、「若い女の子をシャットアウトしている雰囲気がヒシヒシと伝わってくる」のだそうだ。



2003年10月02日(木)
結局、好き嫌いと自分の立場でしか物が言えない私です…


 今日の日記は、1度書いて消しました。内容はこんな感じでした。

 元阪神の吉田選手が今社会人チームで活躍していることをテレビのニュースで知った。でも、私はその1人の枠で、高校生や大学生を入れて欲しかった。ワールドカップやオリンピックの代表のプロで固められつつあり、これではアマの活躍の場がなくなる。ま、強くないと、これから野球をする子供も増えないから、仕方ないんだけど、そんな子供の活躍や飛躍の場所は残されるのだろうか。

 …と、まあ、そんな感じ。久しぶりの評論調の文章だった。書いている途中で、「このままだと、評論系になっちゃうな。でも、久々やからいっか」と惰性に任せてしまった結果だ。でも、PCをオフにして布団に入った瞬間から強烈に後悔。削除したくてたまらなくなり、朝一番でPCの電源を入れ、削除したのだ。

 なんか嘘っぽいなって思ったし、自分の肝心な気持ちから逃げてたし、心がないし、恩着せがましいし、みたいな。ホントは自分がそうしたいのに、「あなたのためにしてあげる」っていう人、いるじゃないですか?あんな印象を自分で書いたその文章から受けたんですよ。それはイヤだったので、書き直すことに決めた。

 私は単純に、高校生→社会人という経歴でプロに入る選手が好きなのだ。広島にいた津田さん(故人)とか、ヤクルトの伊藤智仁投手や、メジャーリーガーの野茂さんとか。特に、高校で無名だったのに社会人で飛躍して…というパターンはたまらない。そういう選手を1人でも多くみたい。だから、現状を気に入っていない。あと、自分が不景気の中就職活動をしていたのも影響している、かな?それを回りくどく、「現状の野球界を嘆く」みたいな一般論で書いてしまったから、イタイ文章になったんだな。ああ、恥ずかしい。

 でも、長年、私はこの事実に気づかなかった。いや、きづこうとしなかったのだ。なぜ、今日急に気づいたのかわからないけど、ま、よかったと思ってる。



2003年10月01日(水)
風邪ひいてまんねん 〜呼吸ができてナンボ〜


 「10月に入ったら、運気が良くなる」って言ったのは、どこのおばはんやったっけ。嘘さらせ、金返せ。今日、私は風邪を悪化させて、息することだけで精一杯の中、休憩時間30分で、9時間も働いた上、夜には救急病院に行く羽目になったんやで。今月の行く末が思いやられるわ。

 昨日は思ったより調子が良かったので、今日も大丈夫かなって思って出勤したら、11時くらいから、咳がひどくなり、息するのもしんどくなった。空気を吸うたびに、ヒィ〜とかいう壊れた機械みたいな音がした。絶対、人の32%くらいしか空気吸ってへんわってくらいのしんどさだった。こうなったら、ミスも注意も怖くないわい。

 最初は痰が出ないからこういう症状が起こってるんだと思った。だから、早く家に帰って思う存分出したんねんって思ってたけど、家に帰っても状況は変わらないどころか悪化に一途。咳したら後頭部に雷のように襲う痛み、それでも出ない痰。2時間くらいうんうん唸ってると、おかんが言った。「それ、痰が出えへんからと違って、気管が狭なってるからとちゃうか?」

 私は、子供の頃小児喘息を持っていたことを思い出した。今の自分はすごく重症なんやと思ってるけど、昔はこんなことを定期的に繰り返して、乗り越えてきたのだ。当時は近所の診療所(今は廃業)に行って、診察室の前にある古い椅子に腰掛けて吸入をしてたっけ?気管支を広げるお薬みたなものを霧状にして、それを深呼吸しながら、肺まで吸い込む。

 ということは、このまま唸っていても、治る見込みナシやん。朝までこんなんで明日の仕事は無理やろ。今の今まで、痰さえ出れば治るって思ってたけど、これは病院行って吸入してもらうしかない。でも、今は夜の9時。病院はやってない。ああ、もっと早く気づいていれば。私は勝手な思いこみで人生を失敗するのではないか。

 そんなとき、母の天の声。「救急病院行くか?」
 私は素直に頷いて、おとんの車に乗った。車内にいる3人は全員風邪。咳の競演。本物の患者はだぁ〜れだ?

 病院に着いた。入り口は救急車が搬入するところと同じで、「そんなんちゃうねんけど」とかなりビクビクしながら入った。でも、このときは患者がいなかったのが、警備員のおじさんと受付の男性職員が穏やかな顔をして私たちを迎えてくれた。

 熱を計ったあと、診察室の通された。だだっ広い部屋だった。学校の教室2つ分くらいかな?緊急手当をするベットが4台くらいおいてあった。私は吸入をすることになった。一刻を争う命の現場の片隅で、お世話になった吸入器と16年ぶりの再会。あんまりうれしくなかったけど、霧を吸い込んだ瞬間、自分がなんでここにいるか忘れた。普通に呼吸が出来たのだ。

 15分間吸入をしながら考えたこと。
 もし、今、ここに、『救急病院24時』とかいうドキュメントで取り上げられるような重症の患者さんがものすごい血相で運び込まれたらどうしよう。あの壮絶な光景の片隅で、アホみたいに口を開けて吸入している私はあまりに場にそぐわない。部屋の隅でのどかに南京町(神戸)の話をしているあの女医さんたちも豹変するのかな。なんか、あまり見たくない…。平和な時間が流れますように。

 ところが、ピーポーピーポーの音が近づき、入り口で止まった。ああ、神様!運び込まれたのは、おばあさん。意識があるらしく、自分の症状を説明してた。むごい傷や血もない。ああ、よかった。

 3日分の薬をもらって、病院を出たらちょうど午後10時だった。私はありがたき酸素の恩恵を気管支で感じていた。帰り、おばあさんを運んでた救急車が止まっていて、灰色の制服を着た人が作業をしていた。たぶん、救命士と呼ばれる人だろう。私はそんなわけないと思いながらも、彼らの顔を見た。よかった、知り合いじゃない。鼻血色のジャージを着てるところを見られたら、死んでも死にきれんよて、なんてこんな場所で不謹慎なことを思った。ゲンキンなもんだね。