白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2013年06月06日(木) キムチチャーハン。

午前中、最低限の家事を片付けて実家に行ってきた。

「食べたいものとか、買ってきて欲しいものがあったら教えて。行く前に買っていくから」と電話をしたのだけれど「特に何も無い」と言うので、夕食用のお惣菜をタッパーに詰めて家を出た。

実家に着くと母が「待ってました」とばかりに機関銃のように話をはじめた。昨夜の時点ではあれこれ心配していたのだけど、揉め事はどうにか丸く収まったらしい。あれこれ対策を考えて行ったのだけど、そんな必要は無さそうでホッっとした。私が出来る事と言えば母の愚痴を聞くことだけ。2時間ばかり延々と聞き役に徹してきた。

お昼近くになり「一緒にお昼を食べようかと」と言うことになったのだけど、実家には碌な物が無いと言う。内心「だから行く前に電話したのに…」と思ったのだけど、言ったところでどうにもならないので、実家の冷蔵庫を物色。白菜キムチと卵、ウィンナーと炊飯器のご飯でキムチチャーハンを作った。母は満足そうにキムチチャーハンを食べていた。結果論になってしまうけれど、何か買って行った物を食べるよりも、簡素でも手作りの温かい食べ物で良かったのかも知れない。

私は人に何かを食べさせる側の人間なのだなぁ……なんて事を思った。

私が家族の台所を仕切るようになったのは独身時代。それも結構若い頃だ。結婚後も、実家でも夫の実家でも「手作りの物」はほとんど食べた事が無い。結婚当初は義母も気を使って色々作ってくれていたけれど、気のおけない間柄になってからは、遊びに行っても外食か私が作ったお弁当を食べている。

正直、不満が全く無い訳じゃない。でも、たぶん私は誰かに何かを食べさせるって行為が好きなのだと思う。実はそんなに苦痛でもないし、それはそれで楽しんでいる。運命とか、そんな大げさな事ではないけれど、そういう風に生まれついたのかなぁ……と思ったりした。

そんな私にも尽くしの手料理を食べさせてくれる人がいる。高校時代からの友人のF(かつての同志F)だ。人に何かを食べさせたり、食べさせてもらったりするのって、人間関係に特殊な作用を及ぼすのだろうか。家族の繋がりも「一緒に食事をとる」って事が大切だと言われるけれど、団欒とかそういうのを抜きにしても「同じものを食べる」とか「誰にか何かを食べさせる」とか「誰かに食べ物の世話をしてもらう」とかって、生き物の本能に語りかける何かがあるのかも知れない。

……とグダグダ書いてしまったけれど、実家のゴタゴタはなんとか解決したようで、心底安心した。母も落ち着いてくれて良かったなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。


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