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2024年03月16日(土)
赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』

赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』@本多劇場


メンヘラ、DV、クレーマー、ストーカー、カルト。名前をつけるのはカンタン。名前がついたことで当事者が安心する側面があるというのも事実。しかしそこには、確実に零れおちてしまうものがある。

ボイラーマンはその名の通り、がんじがらめで一触即発の関係性を沸騰させる。だが、その沸騰に永続性はなく、怒りも悲しみもやがて冷める。湯冷ましを飲んだあとのような安らいだ顔で、彼らは元の場所に帰っていく。しかしボイラーマンは帰らない。帰る場所がないのかもしれない。

実食、カラオケシーンがなく、ガストがバーミヤンに。普段は配役表に氏名と年齢迄明記するところ、今回は役に名前がついておらず、属性のみ。ちょっと書き方を変えたかもしれない。しかしワンシチュエーション、(ほぼ)リアルタイムな時間の流れは確固とした赤堀作品のそれだ。属性だけになった登場人物の中に、観客は自分を見る。少しずつ、全員の性質に思い当たる節がある。作家の老いは観客の老いでもあり、作家の五感は観客の記憶を呼び覚ます。夜中の散歩、住宅街に流れる音、遠くから聴こえる赤ちゃんの声、お風呂の匂い、愛すべきちいさなものとこと。

赤堀さんは「名前をつけられない感覚」を丁寧に、執拗に腑分けしていく。それはゴミの分類にも似ている。燃えるものと燃やせるものの違い、リサイクル出来るものとそうでないもの、プラスチックの本体にちょっとだけ金属が含まれているもの。いくらでも分けることが出来る。多様性という言葉の奥で、無数に蠢く多様をひとつひとつゴミ袋から出していく。分けろ分けろと責める人物と、分けられないけどゴミは片付けるのが当たり前、という人物が一緒にゴミを拾うさまを描く。誰もが優しく弱く、そして頑固。

さらっと流した「放火の犯人」の属性も、あの台詞をそのままテキストでSNSに流したら炎上するだろうなと思い、同時にそのあとの「合わなかったんだろうね、かわいそうに」といった警官の言葉とそのニュアンスを聴けば、決して差別的な意味合いではないのだと理解出来る。問題に対して怒ることと、問題に付随するものを排除することは違うと示す。

彼女は男に殴られて死ぬかも知れない。ストーカーはやがて事件を起こすかも知れない。老人は宗教団体に尻の毛まで抜かれて打ち捨てられるかも知れない。実際、赤堀作品には「結果」迄を書いたものもある。しかし今回は、問題を前にして、どうすることも出来ず立ち尽くすボイラーマンを登場させる。沸騰はさせる。しかしそこ迄しか出来ない。そう書くことで作家自身も傷ついている。簡単に片付けられるものなど、書いてどうなるとものごとを見つめ続ける。表出しやすい悪意と、少しの善性。それは誰にでもあり、誰にでも見出せる。と書く。最後に残るのは、ちいさなちいさな、決して消えることのない光。

舞台装置(池田ともゆき)が白眉。入場してまず目に入る舞台の全景、思わず夜空を見上げたくなる縦の空間使いは、うれしい劇世界へのファーストコンタクト。建物の質感、公衆電話の灯、ゴミ集積所の汚れ具合も、ここで何が起こるんだ? と、開演の時間迄観客に想像の時間を提供してくれる。衣裳(坂東智代)も絶妙。「パパッと化粧して、パパッと着替えてくる」の塩梅が見事。トレンチコート姿の田中哲司、喪服姿の安達祐実といったキャッチーなスタイリングも素敵で、演出家が見たかったであろうものがしかと具現化され、観客に届けられた印象。

会話に次ぐ会話、正面を向かず、なんならずっと俯いている登場人物たち。演者への負荷と信頼感。観たいものがそこにある、好きものにはたまらない会話劇。ボイラーマンは関わったひとを沸騰させ、自身は蒸発しつつある。あなたの街、私の街にもボイラーマンがやってくる日がくるかも。心のすみで待っている。

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・赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』│田中哲司×安達祐実×でんでん×赤堀雅秋 合同取材会レポート┃ローチケ演劇宣言!
田中 役者の存在だけで場を持たせなきゃいけない分、負担は結構かかると思います。
田中 赤堀くんの登場人物って余裕のない人が多いんです。
そうそう、そういうのが大好きなひとにはたまらない芝居でした。流石田中さん、赤堀現場を知り尽くしている

『日本対俺』のときに発売された『赤堀雅秋カレンダー』が半額以下で売られており、そして売り切れておらず、涙を誘いました(笑)。いやあ、卓上仕様だったら買ったよ、卓上なら……。グラビアアイドルとして(??)ポスターサイズは譲れなかったのだろうが……