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2023年03月25日(土)
『ロングショット』

『ロングショット』@スタジオ空洞


人類のことは好きじゃないけど、愛すべき個人がいて、人間が生きるためにコツコツと、せっせとつくったもの──歌とか鈴とか整えられた川とかモノを運ぶのが好きなクルマとか記録するレコーダーとか──を愛しく思ってしまうひとはグッとくるのではないか。それは私のことであり、そう思う誰かのことでもある。

こういう作品に出会えるから、演劇を観るのをやめられないんだな。冥土の土産が増えていく。それは悪い気分じゃない。

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作:鈴木健太
演出:生西康典
出演(五十音順):カラス/飴屋法水・フルカワ/首藤なずな・シミズ/高山玲子・タクシー/橋本清・キューちゃん/畠山峻
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公演情報ページはこちら。活動を存じ上げているのは飴屋さんと生西さんのみ。他の方は全くのはじめまして。スタジオ空洞も初めて行く場所。小雨のなか、何度も地図で確かめ乍らようやく辿り着く。ちょっとした冒険気分。

スタジオ空洞は地下にある、横長のコンクリート打ちっ放しスペース。中央に支柱があり、観客席を二分している。その支柱の真横に座る。意外と死角はない。演技エリアの壁側にスピーカーが等間隔で並んでいる。上手側にいろいろなものが置かれている。ヴァイオリン、トランペット、鈴類(所謂すず、と、仏具としても使われるおりん)、メトロノーム、バケツ、ペットボトル、ハーモニックパイプ等々。あとになって、これはカラスの巣だったのかもと気付く。だからキラキラしたモノをこまごま集めて溜め込んでたのか? そう思うと愛しくなってくる。ウチも干してた洗濯物振り落とされてハンガー持ってかれたことあるなあ、なんてことも思い出す。かわいいかよ。怒れん。

スタジオのため舞台袖というものがなく、下手側に控え室のようなスペースがある。開演が近くなると、そこから演者たちがそろそろと出てくる。何人かは客席の背後にまわり、そこで開演を待っている。なんとなく振り向くと、飴屋さんがいた。目が合ってしまう。互いにゆっくりと会釈する。偶然だが、こういう開演前と後との境目が静かに繋がっていく感覚も心地よい。

照明は天井から吊るされている暖色の電球。暗転するとバミリも見えない。そもそもバミリはあったのだろうか? 演者たちは自由に動いているようだが、そうではない。ではどうやって暗闇の中を彼らは動きまわっているのだろう? 彼らはモノローグとダイアローグの間に、手にしたペットボトルの水を飲む。舞台袖で飲む暇がないからとも、虚構と現実が繋がっているからともいえる。

言葉のひとつひとつが胸に刺さり、同時に温かく沁みていく。心のなかで何度も頷く。しかし、噛みしめ反芻する先から忘れていってしまう。それが演劇なのだとも思う。それでもテキストで読み返したい、何度でも思い出したい。懐中電灯は車のヘッドライトになり、演者を照らすスポットライトになり、いかようにも姿を変える。楽器や小道具(といってもそれは人生の傍に自然にあるものとして存在するようで、舞台のために用意されたものですらなく感じる)が立てる物音は、舞台上の情景を次々と変えていく。雑踏、川べり、死に向かうひとがいる部屋、映画館。タクシー(カーステレオ)が唄う歌(※)で、コンビニの店名を連想する。コンビニの入店ベルはほぼ唯一のSE(他は生演奏ともいえる)。想像力と記憶力によって、観客は演劇を体験する。

※「Daydream Believer」。千秋楽を迎えたので書いておく。数十年経ったら自分も忘れてしまいそうなので(…)

演者の台詞が正反対の方向から聴こえることも。演者はマイクを装着していたのだと思うが、そのままの声が直接届くときもある。ささやくような声もしっかり届く。空間の大きさとスピーカー配置の妙。マイクのオン/オフは生/死の区別だろうか? とも思うが、実際のところは分からない。照明のランプはオペレーションで灯るときと、演者がスイッチを切るものに分けられる。

音も明かりも、浮かんでは消える。自分たちで終わらせるときと、外部の力によって終わらせられるとき。人間とモノの命のようだ。「全然違う」ことが、輪のように「同じ」こととして返ってくる。メトロノームは一定のリズムを刻んでいるようで、ゼンマイの戻りとともにBPMが遅くなっていく。天井のチューブからバケツへと落ちてくる水滴は、いつの間にか途切れている。これも人間とモノの寿命を感じさせる。ゆっくりと命が尽きていく。それは辛いことにも、永い眠りへの安らぎにも聴こえる。

舞台(といっても、客席とほぼ地続きなのだ)上には生者と死者がいる。どちらが生きていてどちらが死んでいるかを追い乍ら見ていたが、それは無意味に思えてくる。池袋でクルマ、というとある事故のことが連想されてしまうが、観ているうちにそれは穿ち過ぎだと思いなおす。皆が死んでいるようにも思う。キューちゃんは好きな映画を観るために出かけた映画館で死んだ。クルマは事故を起こして廃車になっているかも知れない。シミズも苗字が変わることで何かを死なせているかも知れない。フルカワは死にゆく祖母を見つめている。カラスの寿命は意外と長いが、どのカラスがいつから彼女を見ていたかは分からない。ひょっとしたら、こどもの頃に目が合ったあのカラスが、今もどこかで彼女を見ているかも知れないじゃないか。

人間ではないカラスに愛嬌を感じる。生物ではないタクシーをかわいらしく思う。擬人化されているから、という設定以上のものを感じさせる演者の力。シミズとフルカワが唄う声は、物体ではないのに近づき、離れ、融和する。夜中、暗闇で灯るコンビニの明かりにホッとするように、コンビニ袋のカサカサ音にも安心する。コンビニの明かりも私を、あるいは誰かを見ている。世界のあちこちに自然物と人工物が共生している。

モノを運ぶのが好きなタクシーはサンタになる。タクシーは記録を残すドライブレコーダーに意味はないと思っていたが、クリスマスソングを憶えているカーステレオに好感をもつ。「(昔の)映画の中の人は全員死んでいる」が、記録されているから現在それを観ることが出来る。常々「ああ、この映画に出てる動物、もう死んでるなあ」と思っていた。そうだ、人間もそうだった。今更ハッとする。やはり私は人類が好きではないのだ。

ポツリポツリと交わされる会話は、叫び声、ささやき声、たどたどしい発音とさまざまだ。そんななか激しく鳴らされるトランペットや打楽器は、災厄のように恐怖を喚起する。どんなに誠実に、注意を払って暮らしていても、そうでないひとと同じように天災や事故、あるいは攻撃がやってくる。恨みはしない。しかし、災厄を避けられたひとが、ただただ羨ましい。この言葉には、深い他者への優しさと自身への悲しみがある。そして思う、やはり私は人間を愛しく思う。再び、「全然違う」ことが、輪のように「同じ」こととして返ってくる。

カラスとシミズが交わす会話、「全然違うよ」と「同じだよ」は、こうして、人間への愛、映画への愛、演劇への愛、モノへの愛を静かに聴かせてくれる。

ラストシーン、懐中電灯が最後の変身を遂げる。スタジオの壁はスクリーンとなり、懐中電灯が映写機となる。映写機は何も映さない。いや、白い光を映している。パチン、パチンとライトのスイッチが切られる。空間は暗闇に包まれる。地明かりがつき、換気口? を演者たちが開けていく。

出演者全員が唯一無二の存在として立っていた。観ているこちらも同じこと。違うことと同じことをロングショットで捉える。長い時間のあとで、長い射程を経て、また会いたい。そう思う。

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・作者の鈴木健太さん、照明、音響、演出助手、告知ビジュアルも手掛けていた。ヌトミックにも出演されているとのこと。これからも作品を観ていきたい

・首藤さんも高山さんも橋本さんも畠山さんにもまた観たい。声、姿、佇まい。皆が皆魅力的だった

・開場音楽は『「PNUMA_KENOSIS」ICHIRO KATO (NEON INN)』とのクレジット。生西さんのツイートによると、「高校の同級生だった加藤一郎くんの作ったものでした。亡くなって20年近く経つのかな」。ここにも人間のつくったレコーダーの善性。聴けてよかった

・演者としての飴屋さんがニヤニヤし乍らぴょんぴょん跳ねまわる光景ってときどき見るんだけど、あれ愛嬌あって好き。今回はボックスを踏む飴屋法水という貴重なものも見られました

・電車での「忍者ごっこ」、長塚圭史も以前同じようなことをいっていたことを思い出した。彼の場合は妖精だったかな。これは都会で、電車で通学や通勤をするひと特有のものでもあるなと思った。ウチの田舎だと車窓の外に飛び移れるような建物がほぼないので、忍者はすぐに置いていかれる(笑)

・池袋西口、シネマ・ロサより奥地に行くのも初めてだった。今でいうガチ中華料理店が沢山ありますね。気になる