初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2023年02月18日(土)
『笑の大学』

『笑の大学』@PARCO劇場


初演、再演の演出は山田和也だったので、三谷幸喜が演出するヴァージョンは初めて観る。他言語で上演されたもの、映画は未見。韓国語上演の初演は劇作家をファン・ジョンミン、検閲官をソン・ヨンチャンが演じたんだよなあ。観てみたかった。三谷さんがいっている通り劇作家は年齢が重要なキーになるので、今後ジョンミンさんがこの作品に出演することになったとしたら、劇作家ではなく検閲官役になるだろう。それはそれで観てみたい。

序盤、内野聖陽の台詞まわしがあまりにも西村雅彦と似ていてギョッとする。寄せたのか、役柄上そうなるのかどちらだろう。自分で喋ってみればわかるが(かなり独特ないいまわしなので、当時身内で真似したのだ・笑)ああいう口調で──終始不機嫌に、苦虫を噛み潰したように──滑舌よく話すのは結構難しいのだ。ところがこれがクリアに聴こえる。やはり巧い。何故かいちばん憶えている台詞(ホント何故)、「中で暴れて大騒ぎ」もあの声音で聴けてうれしかった。

内野さんと瀬戸さんは初共演。敵対しているともいえる立場の検閲官と劇作家が、いつのまにか協力して「笑えるホン」を書くようになる。内野さんいうところの“瀬戸康史くんとのセッション”はそれはもう見事で、“対話”を存分に堪能する。ひたすら笑い、終盤はひたすら聴き入る。

そんななか、出ずっぱりのふたりが場(=日)が変わるタイミングでそれぞれひとりになるシーンがある。初対面の検閲官を待つ劇作家、劇団の仲間たちからある仕打ちを受けたあとの劇作家。今川焼の包みをだいじそうに触れる検閲官、ホンの問題箇所を読みなおし、つい笑ってしまう検閲官。対話以外のところで、それぞれの心の動きを表現する。そのちょっとした仕草や表情が素晴らしく、次第にふたりは会うのが楽しみになっているように見えてくる。劇作家は「どんなに制限されても面白くしてやる」と思い、検閲官は「面白い箇所を指摘してやる」と思っている。明日はもっと面白くなる。はやく明日が来ないかな。ふたりがそう思っているのではとすら感じるようになってくる。だからこそ、終盤の展開は苦い。

笑いの才能があるのではとすら思われた検閲官が、あることをきっかけに権力者としての力を振りかざす。笑わせることばかり考えていると思われた劇作家が鉄の意志を見せる。そして驚くことに、検閲官はその立場を利用して劇作家を救おうとすらする。しかし、それは“間に合わない”。

喜劇作家と検閲官は解りあえないかもしれないが、それでも、という瞬間がある。「海難事故で漂流の末ロシアに流れ着いたひとたちが、笑うことで生きる気力を取り戻した」話をする劇作家(このエピソード、『月光露針路日本 風雲児たち』を観たあとだとハッとする。初演もこうだったっけ?)。「笑うことなど考えなくていいから、とにかく生き延びろ」という検閲官。全く正反対のことをいっているのに、行き着く先は同じことだ。死んではいけない、生き延びろ。

今が戦前であるというのはタモリではなく菊地成孔からの受け売りだ。その思いは日に日に強くなる。検閲するのは“お上”だけではない。市井のひとたちが互いを監視し、個人の言葉など打ち消して全体主義へと向かっていく。「おくにのために」尽くすことが、当然のことのように語られ始める。笑っている場合じゃない、不謹慎だ、こんなご時世だぞ。そうした空気は確実に拡がっている。“間に合わな”くなる前に、私たちはどうすればいいのか。ひとりひとり想像しなければならない。

生きることに笑いは必要ないというひとがいることは知っている。しかし、私は笑うことで何かを変えられるかもしれないという可能性に賭け続ける。喜劇作家・三谷幸喜の決意表明はずっと変わらない。その矜持を代弁するかのように、瀬戸康史は強い声と居ずまいで喜劇作家を演じる。比較的後方の席から観たのだが、彼の瞳に照明が反射し、キラリと光る瞬間があった。気のせいかもしれない。しかしそれ程瀬戸さんの目の力が強かった、と思うことは出来る。信じることが出来る想像力を、その想像力こそが生きる活力になるのだと、この舞台は伝えてくれる。

『国民の映画』との共通点、相違点を考える。国威発揚に利用される文化。集団の怖さ、権力の恐ろしさ、それでも流されなかったひと、そして命を落とすひと。『国民の映画』では登場人物たちのその後が語られるが、『笑の大学』ではそれがない。『国民〜』に登場した実在の人物たちとは違い、『笑〜』のふたりは歴史にその名が残っていない。しかし、検閲官にも劇作家にも、向坂睦男と椿一という名前がある。彼らはどこかの誰かなのだ。

彼らのその後が語られないことに希望を見たい。戦争が終わり、劇作家は生還する。検閲官は罪に問われるだろうが、それでもなんとか生き延びる。いつかふたりが再会し、共に喜劇を楽しむことがあれば……。そんな想像も可能なのだ。それがどんなに儚い願いだとしても。

いつかまた、この作品が上演されることがあったら。“新しい戦後”ではない“戦後”のまま、その気持ちをもって観ることが出来るだろうか。そうであってほしい。

-----

・HISTORY of “WARAI NO DAIGAKU”┃PARCO STAGE BLOG
こちらの画像にあるけれど、初演の鳥小屋は極めてオーソドックスなもの。今回の鳥小屋は折りたたみ出来るポータブル仕様、結構インパクトあった。格好いい(笑)。
先述の「劇作家は年齢が重要なキー」、思えば他の国ではどういう風に扱われているのだろう。特に韓国は時代が時代なだけにどちらの軍にとられる設定になっているのか……自国にしても日本にしてもつらい