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2019年03月02日(土)
『世界は一人』

『世界は一人』@東京芸術劇場 プレイハウス

これは好きなやつだ……岩井秀人の作品どれも好きだけども。ひとは皆絶対的にひとりで、それでも他者と関わらずには生きていけない。ちいさな家族のうちうちの話が、岩井さんの取材力(対象者に「書かせる、語らせる」力でもある)と構成力、それを立体化する演者たちの力によって劇場空間に現れる。客席を埋め尽くした多くの観客はそれを持ち帰り、うちうちのウチの話を思い出す。それは他者に開陳出来るかな? うーん、ウチは結構笑えるネタ沢山あるんだけど、それは一族が死に絶えないと外には出せないな。出せた方が楽になるかな、出してから後悔する気持ちの方が勝ってしまうかな。以前も書いた気がするが、思い出すのは鷺沢萠さんのことだ。お祖母さまの「おばあちゃんのことは、もうよしとくれね」という言葉。鷺沢さんがこの作品を観られればよかったのにとも思う。

九州、炭鉱の町に生まれ育った三人のこどもたち。貧富の差が極端で、収入は労働の対価に限らない。金がない家の子と、(親が)金(だけ)を持っている家の子の地獄を両方描いていたことに溜飲が下がる思いだった。いや、ウチに金があった訳ではないが。ここ最近の印象だが、SNS上では前者の声が大きく聞こえる。「金があるに越したことはないじゃないか」「金があるくせに贅沢な悩みだ」、云々。これは「黙れ」と同意義だ。そして金がある家の子は黙ってしまう。黙って自分ん家の地獄から逃げ出せなくなる。どっちも黙らないでいいんだよ。

同様に、善悪や正しい、間違っているというジャッジとは別に、一人のひととして「合わない」「向いてない」ものはあるのだということを、こどもの側からだけでなく、親の側からも描いてくれたことにも胸をうたれた。

出演者のひとりである松尾スズキが育った町のことは、ご本人の著作でもよく知られている。とはいえ、この作品は松尾さんだけの物語ではない。観客の多くが、松たか子の両親やきょうだい、家柄を知っているだろうし、瑛太の父親や弟のことを知っている。この時点で、ハイバイや『モロモロ』シリーズのそれとは趣が違う。しかし抜群に巧い演者ばかりなので、絶望的なやりとりを所作、会話のリズム、声のトーンによって軽やかな=鑑賞に耐えうるものにし、「個人の物語」から普遍性を引きずり出す。ここはあのひと(自分)ん家じゃなくて、舞台と客席という安全な場所なのだ。あのひとの(自分の?)つらい出来事は舞台に載り、他の観客たちと笑いあえるものになったのだ、と感じさせてくれる。岩井さんが全国で取材してきたあれやこれが東京デビューする瞬間も観られた。父親が側溝を流れてくるエピソードを、巡り巡ってお松が演じるのだものな……前川さんいうところの「供養」か、と思う。ダンサー松尾さん、のんべえ菅原永二が観られたのも楽しかったです。

似てるというのとは違うけど、鴻上尚史の『トランス』にやられたひとには響く内容ではないかな。相手にとっての自分を演じること。自他の区別がつかなくなること。ひとはひとり。世界は一人。鴻上さんの「親の影響を受けないひとはいない」という言葉を思い出した。悪いことも良いことも、そして不在も、子は親の影響から逃れられない。親を憎んで憎んで憎み倒したひとが親になり、子を持ったときその子とどう接するか。その親を持った子はどうするか。それでも家に帰らなければならないというとき、どこに助けを求めればいいか? いくらでも考えることが出来る。あの子は帰ることにした。これからどうなるかは判らない。親に(それが善意、ひいては愛情の果てとはいえ)殺されるかもしれない(が、まあいいか。しょうがない)と思ったことがある観客は、ただただふたりとも無事で、と祈る。

パイプカットのくだりでは笑いが起こっていた。昨年『て』を観たときに思い当たり、感想が書けなかったことをまた思い出した。いつから? ということだ。父親はいつからパイプカットをしていた? 父親のDVはいつから始まった? ひょっとして自分の父親は別のひとかもしれない。自分はレイプ(夫婦間にもレイプはある)によって生まれた子かもしれない。いつぞやの対談で岩井さんと前川知大が話していたように、私も相手が電話に出ないと「あ、死んだ」と思うタチなのでなあ。台詞に書かれない時間のことを考える余白が岩井さんのホンにはあり、その余白に思い至ることがあるかどうかで、物語はいかようにも変わっていく。

と、岩井さんの作品はついつい自分に寄せて観てしまうので、芯に当たるとダメージが大きい。それでも、また観に行ってしまうな。

遠くの客席迄届く音楽劇(音楽:前野健太)という形式、回転扉にも遊具にも見える大型ハイバイドア(美術:秋山光洋)、そして衣裳(:伊賀大介)と見立ても素晴らしかった。網柄のタイツを履いているだけでなんとなく母親のキャラクターを見せる。ネッカチーフを巻くだけで女学生になる。『おとこたち』(衣裳:小松陽佳留)での見立てにも唸ったが、この辺りは岩井さんからイメージを発注しているのだろうか。衣裳によって平原テツのプロポーションのよさが際立つ、というのも新しい発見でした。