初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2017年09月18日(月)
『を待ちながら』

『を待ちながら』@こまばアゴラ劇場

『コルバトントリ、』から二年、山下澄人と飴屋法水のタッグ再び。タイトルからもピンとくるように、『ゴドーを待ちながら』の飜案でもあります。

これから行かれる方、従来のアゴラとは入場経路が違います。その道のりを注意深く見ておくと、着席してから当日パンレットを読んだときや、とあるシーンにあたって考えることが増えて楽しいですよ。以下ネタバレあります。

-----

この演劇をこの場所で観ること、この場所で待つこと。いつかはこの場所から移動したいと思っている登場人物たちと、終演後に劇場を出ていく観客たちひとりひとりについて。そして、今観ることについて。ひとは生まれたときから死にはじめているし、生きていると必ず死ぬ。そして一度死んだら死ぬことはない。死ぬ要因はいろいろあれど、それを何かのせいにすることが出来ないやさしいひとたちがいる。彼らは何を待っている? そのことを考えさせられる。

おとうさんとこどもがいる。おとうさんは身体を思いどおりに動かすことが出来ない。おとうさんは自殺をはかったことがある。ふたりは何かを待っている。ゴドーかもしれない。ここから移動するきっかけになることかもしれない。それは死ぬことと同義かもしれず、待望するものであるかもしれない。長身の自称こびとと白髪のかっぱがやってくる。こびととかっぱはじゃれあい、こびとはかっぱのことをからかったりする。かっぱはニヤニヤして、くるくるとよく動く黒い瞳でこびとたちを見る。一輪車に乗ったもうひとりのこどもがあるしらせを持ってくる。

今月に入り、青年団が豊岡へ移転することが発表された。アゴラ劇場が2020年以降どうなるかはまだ判らないそうだ。オーナーが変わり続くかもしれない。なくなるかもしれない。いや、なんでもいつかはなくなるのだ。ひとと一緒だ。入場時間がきて案内されたのは、いつもの急な階段口ではなかった。楽屋口だろうか? メイク道具らしきものや小道具をつくった痕跡がある部屋を通り、従来の舞台がある場所へ辿り着く。非常口誘導灯があそこにあるということは、普段の正面はこちらかなどと考える。舞台袖はない。観客は演者たちと同じ場所から出入りする。あんなところにエレベーターがあったのか。なくなるかもしれない劇場の、初めての顔を見た。

一輪車のこどもは血まみれで、途中迄自分が死んでいることに気づいていない。こびととかっぱが出るよという噂をききつけ、わくわくしながら、狂喜の様相で家を出る。おかあさんに一輪車に乗っていくのは危ないからやめなさい、といわれたが気に留めない。うっかりおばあさんの黄色い車に轢かれる。ちいさなちいさなおばあさん。こんな歳になってひとを轢き殺してしまうなんて。一輪車のこどもはやりきれない。おばあさんのせいじゃない。では何のせい? 一輪車で出かけた自分のせい? こびととかっぱが出るという噂のせい? あなたたちの噂を聴かなければ私は死ぬことはなかった。おばあさんがひとを殺すことはなかった。私はあなたにあたりたい。やつあたりしたい。

やつあたりを静かに受けとめるひと。誰にもあたれないやさしいひと。彼らの沈黙をじっと見る。「聞き逃さないよ」という。「助けられないよ」という。劇中『アンネの日記』が朗読される。アンネ・フランクは病死だが、一輪車のこどもとこびとは「殺されたんや」と明言する。

誰に殺されたのだろう、何に殺されたといえばいいのだろう。そんなこびとはかっぱに煽られ首を吊ろうとする。そのための木は客席にあるようだ。彼は客席に踏み込んでいく。彼の胸あたりが自分の目の前にくる。呼吸が浅い。こびとは実際は大柄で、死のうとすることも演技だ。それでもあの胸の動きが忘れられない。演劇は嘘だが、その効力はとても大きい。かっぱはこびとに、待ち続けるふたりに、一輪車のこどもに、彼らとともにいる音楽家に向かって叫ぶ。「助けちゃだめかな?」。

ままにならぬは浮世の習い。そうだ、「僕にだけ吠える犬」は『動物園物語』にも出てきたな。「死ぬ」と「いぬ」の母音は同じだ。「行く」もそうだ。彼らは「いう」。不条理演劇の代表作といえば『ゴドー〜』と『動物園物語』じゃないか。しかしどちらも作品が不条理なのではなく、世の中の不条理を描いているだけではないのだろうか。そんな世界でやさしいひとたちは沈黙し、彼らに「助けちゃだめかな?」と問うひとがいる。それを知ることが出来た。この作品を観てよかった。

山下さんと飴屋さん、ふたりのおきゃんな面が観られたことも楽しかった。山下さんの関西弁が場を和ませる。もととなった作品の笑いの部分に気づかされる。飴屋さんをかっぱにしたのも絶妙な…きゅうりぎらいのかっぱな……(笑)。

一輪車で軽やかに、滑らかに場を走りまわる佐久間麻由の肢体、身体能力、声、表情が素晴らしかった。一輪車って、乗りこなせるとあんなに美しい動線を描くものなのか。劇中登場する蚊のようでも、その蚊に血を吸わせるおとうさんを指してこどもがたとえる天使のようでもあった。音楽の宇波拓が演奏家としても出演。台詞もある。開け放ったドアの外から聴こえる環境音と、そこへとけこむアナログな弦楽器、打楽器。かっぱのマイクパフォーマンスにはデジタルなノイズ。そして自身が発する声。音のためにいるが、その存在は最初からここにいるのが決まっていたかのよう。ゴドー待ちに現れた六人目、彼はゴドーなのか? と思うのも楽しい。

待ちつづける荻田忠利とくるみは、世界の不条理をしかと見ている。開演前からふたりは舞台にいて、家族のように(演じている役柄は確かに父子だ)時間をすごしている。その静かな様子を目にすることも、忘れがたいひととき。最後にひとりで立ちあがった荻田さんが、退場していく場面をずっと憶えていようと思う。このとき、この場でしか見られない座組だった。

聴き逃さないように、見逃さないように。耳を澄ます、目を凝らす。今しか聴けない「下手くそな嘘」を。今しか観られない演劇を。

-----

・『新潮』2017年10月号
『を待ちながら』戯曲掲載。かっぱは当初おじいさんだったんだね…白髪の……(微笑)
今作のプロデューサー、佐々木敦による『死んで いる者たち』の寄稿も。
観てから読むもよし、読んでから観てもよし…って、新潮なのに角川みたいなこといってもうた。そして「助けちゃだめかな?」は戯曲にない台詞で、別のシーンに「手伝っちゃダメなんだっけ」という言葉で出てくる。この変化について考える

・佐々木敦のTumblr『小島信夫の/とベケット』
観劇後に読んだ。今回の企画が実現してよかった

・芥川賞作家・山下澄人が7年ぶりに脚本を手がけた舞台『を待ちながら』を上演 | SPICE
インタヴュアーが元シアターガイドの今井さん。インタヴュー前のテキストがまたよいです

・先月末から喘息発症、やー数十年ぶりですわこんな派手なの。芝居や映画を数本とばしようやく症状がおさまってきたので観ることが出来た一本目でした。アゴラって退場しづらいつくりなので、何かあったときのためなるべく出口に近いとこに…と思ってたら入退場口が普段と違うので焦った。発作が起きず無事終わってホッとした

・ライヴとかならまあ大丈夫なんだが、芝居、映画、クラシック系のコンサートはまだちょっと怖いなあ。22時間大丈夫でも残りの2時間で発作が起こったりするので諦めの判断が難しい