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2015年09月05日(土)
『RED』

シス・カンパニー『RED』@新国立劇場 小劇場

マーク・ロスコの話な訳ですが、彼については代表的な作品群と、最期についてを類型的に知っているだけだった。その有名な『シーグラム壁画』が、シーグラムに飾られることがなかったのは何故か? 彼の傍にいたかも知れない助手とのやりとりからその謎に迫る。脚本は『グラディエーター』『007 スカイフォール』等、映画での仕事で成果をあげているジョン・ローガン。翻訳・演出は小川絵梨子。マーク・ロスコ=田中哲司、助手=小栗旬のふたり芝居。

シーグラム壁画の謎を追うと言うミステリ、アート制作の舞台裏とそれにまつわる芸術家の苦悩、ふたりの人間の交感の物語。話の層が厚く味わい深い。ロスコが助手を雇ったのは労働力の必要に駆られてであり、その助手の感性に興味がある訳ではない。助手にはケンと言う名前があるが、それを知ることが出来るのは作品紹介のテキストやパンフレットからのみで、彼は劇中一度もロスコから名前を呼ばれることがない。冒頭からロスコは膨大な言葉を吐く。それは独白のようであり、ひとあたりよく接しようとする助手をはねつけ、聞き手に何も期待していないかのように響く。この台詞量、近年哲司さんが出演してきた舞台を連想させる。よくこんな台詞憶えられるなと言った現実的なことから、では何故彼にこういった作品へのオファーが多いのか、どうして彼はそのオファーを受けるのかと言ったこと迄いろいろと考えさせられる。そして彼が舞台で演じる人物には、常にと言っていい程死の色が濃い。

助言等必要ない、お前には何も聞こうとはしていないと言うロスコだが、それでも彼は助手との対話から何かを探し当てようとしているようでもある。あることをきっかけに彼は助手の過去を知り、それに応えるかのように自分の過去をぽろりと話す。時間の経過とともに、その交感の時間が増える。助手には同世代の「仲間」がいると示唆されるような場面も挿入され、対してロスコにはそういった人物がいないさまが浮かび上がる。いたとしてもその仲間は既に死にとりこまれ、自身の未来を侵食してきている。身体の老いはイメージを筆に落とすことを困難にし、それに伴い決断に迷いが生じる。助手はロスコが解りきっている現実を突きつけ、ロスコは助手がそう言ってくれることを待っているかのようにすら見えてくる。それはロスコから助手への、アートと人生のリレーのように映る。ラストシーンは助手の巣立ちのようにも、ロスコが助手を解放したかのようにも解釈出来るが、それは感傷的すぎるだろう。ロスコの最期を暗示させるような場面もあり、センチメンタルとは離れたところで尾を引く。

芸術への理解と言うものは抽象的である場合が多いが、鑑賞者の目に映るものは絶対に万人同じではない。抽象画と言われていても具象画に見えるひとはいる。そしてそのイメージを言語化出来なければ感動を共有しづらい。言葉が持つ数多のイメージを操る劇作家の孤独にも重なるようだった。劇中連呼された「いいね!」は、SNSへの示唆にもとれたが原語ではどうなっているのだろう。Facebookにおける「いいね!」は、英語版では「Like」。芸術への理解は翻訳でもある。

赤と黒と言う色からイメージされる台詞の応酬、そのイメージを目の前に差し出すかのような、表情豊かな照明は服部基によるもの。前述したような死のイメージをまとう哲司さんと対峙する小栗くんは、未来を感じさせてくれる輝きを持つ助手像。長身のふたりが100号はゆうに超える(パンフによるとF150号とのこと)キャンバスを塗りつくす場面は圧巻。息があがるふたりを息をつめて見つめる観客、緊迫感が持続する小劇場の空間もいい。コミカルなやりとりもあるので終始眉間に皺を寄せて観る小難しさもない。そういう時間があるから尚更せつないのだが。それにしても飲食し乍らのシーンはたいへんだろうなあ、これをマチソワも結構あるひと月半続けるのか……と違う面でも役者のたいへんさにしみじみする。

『ART』と同じ年に観られたのもよかった。『RED』は創作者側から、『ART』は鑑賞者側からの視点。

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・PAPERMAG: Backstage with Red's Eddie Redmayne
・英語生活:エディ・レッドメイン【37】2009年のインタビュー記事、舞台REDレッド
2009年の英国初演では助手をエディ・レッドメインが演じたんですねー。そのときのインタヴューが興味深かったので張っておく。自身の「color-blind」について、色を扱う作品に出演することについて、テクニカル的なことから心情から。自身の髪の色について話されることについての戸惑いも