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2014年08月19日(火)
『朝日のような夕日をつれて2014』

KOKAMI@network.vol.13 紀伊國屋ホール開場50年記念公演『朝日のような夕日をつれて2014』@紀伊國屋ホール

また『朝日〜』が観られるなんて思ってなかった。そして、大高さんが言っているとおり、これが「(大高さんたちが出る)最後の朝日になるのだろうな」と思った。ヘンな話だが、「早く観たい」と言うはやる気持ちではなく「演者の体力的に」前半のチケットをとっておいた方がいいだろうか、と迄思っていた。実際観てみれば、そういうことにはあまり意味がなかった。ラストシーンの八百屋舞台があまりにも急勾配に見えて、「滑ったりしないかな、怪我しませんように!」なんて思ったくらいか。そう思う年齢になったと言うことでもあり、そのことが嬉しくもあった。

『朝日のような夕日をつれて』は作品として残るだろうか。多くのひとたちの心に残ると思う。今後、鴻上さん以外の演出家が手を出すだろうか。これ程手強い作品はないだろう。第三舞台、鴻上さん以外の演出で上演された記録はあるが、それはいったいどんなものだったのだろう。

時代とともにアップデートされる内容。役者たちの成り立ちから創り出されるシーン。唯一無二の場を、それぞれの時代に立ち上げることの困難さ。それを目撃することが出来る幸運。今となっては『ゴドーを待ちながら』を観た回数の方が多くなっている。そのイメージから、今回の出演者が決まったとき「玉置さんは少年役だろうな、なんて贅沢な。彼はゴドー1、2も出来るポテンシャルだろう」なんて思ったものだった。そして舞台を観て思い出した。少年はとても重要な役で、高いポテンシャルが求められるものだった。あたりまえだ、『朝日〜』は『ゴドー〜』であって『ゴドー〜』ではないのだ。少年は孤独が怖くて、仲間に入れてもらいたくて、ハジけにハジけまくる寂しい人物だった。ゴドーはやってくるし、ウラジミールではなくウラヤマ、エストラゴンではなくエスカワだ。観ない時間は作品のだいじな部分を忘れさせてしまう。

しかしその「観ない時間」は、この作品の新しい魅力を知るのに必要な時間をくれる。いろんな演出の(鴻上さん本人が演出したものも含む)『ゴドー〜』を観たこと、昨年『ゴドーは待たれながら』を観たこと。そして、第三舞台名義ではなくこの作品が上演されるときがきた。小須田さんが、彼らしい言葉で「(自分たちは)鴻上尚史に調教されてきた役者」と言っていたが、そうではない役者がこの作品に出演するときがきた。「ミュージカル病」をネタにしていた作品に、ミュージカルで鳴らした役者が出る。日本の喜劇を代表する事務所の役者が出る。伊礼さんも藤井さんも、出演者皆が持ちうる能力を惜しげもなくオープンにし、その地力を見せる。そして、彼らは「何者にも似ていない」『朝日のような夕日をつれて』を魅せてくれる。「第三舞台は何者にも似ていない」ように。

同じ時代に生まれてよかったと思う。そしてどの時代にも、誰にでもそう思うものがある。どの時代にも、どの場所にも、そんなものはある。それが「何者にも似ていない」と言うことなのだ。そのことを認識させてくれたのも第三舞台だった。そして、この作品だった。観られたことに感謝します。