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2014年06月21日(土)
『十九歳のジェイコブ』

『十九歳のジェイコブ』@新国立劇場 小劇場

オープニングの情景にはっとする。ジェイコブってまんまヤコブのことだったんだ……だからあの光だったんだ!宣美と瞬時に繋がる、舞台上のヴィジュアルにまず唸る。

実際目の前にあるのはヤコブの梯子ではなく、贄のように柱に絡みつき、天に掲げられた家族の肖像。ギリシャ悲劇としての父殺しは本編にも引用されるが、幕開けのこの光景は、アベルが神に捧げた羊のようにも見える。何故中上健次と松井周?当初の違和感がこれで払拭された。神話だ。

しかし電話をかけ続ける弟は、兄の死に直面して暴走を始めたとも受け取れる。この逆転。

原作は未読だったのだが『十九歳の地図』は読んでいたので、合わせて結ぶ像はあった。イタ電とか(笑)。自身が演出しない松井周脚本作品を観たのは二本目、維新派以外の松本雄吉演出を観るのも二本目(追記:おっと勘違い、『レミング』を観ているので三本目だ)。松本さんが所謂現代の台詞劇を演出するのを観たのは『石のような水』が初めてだったのだが、メロドラマとも映る男女の情交を真正面から描いていて新鮮でもあった。今作もそれは反映され、セックスが荒々しく、ときにはそれこそ宗教画のように美しく描かれる。聖衣のような長いシーツが風になびく、その下で絡み合う男女の不毛な繁殖。

当たり前だが劇場には天井がある。空は見えない。前後左右へと伸びる線はジャズ喫茶の椅子になり、移動の手段としての道路になり、若者たちが身体を伸ばす寝台になる。照明の暗さと相俟って、どこに移動しても閉塞感がある。ちらりと、そろそろ野外の維新派を見たいなと思う。

自分の出自を辿る焦燥、家族への情動を社会と結びつけようとするジェイコブとユキは対照的な道を選ぶ。原作が発表されたのは1970〜80年代。ジャズ喫茶にフーテンがたまり、ラリハイに耽る若者の光景はもはや遠い昔のことだ。だいたいハイミノールで連想されることと言えば、シティボーイズの『ウルトラシオシオハイミナール』なのだ(笑・それも14年前の話ですがな)。レトロな空気を眺める気持ちは常に頭の隅にあり、それを今どう観るかを考える。隣席の年配の男性はこの情景を懐かしく観ているのだろうかと思う。しかし、ジェイコブやユキ、キャス、ケイコのヒリヒリとしたやりとりから目を離すことは出来なかった。先に立つのは彼らを案ずる気持ちだ。この子たちの将来はどうなるのだろう、この子たちはこれからどうやって生きていくのだろう……それは、自分がもはや若者ではないと言うことを再確認する場でもあった。

彷徨する彼らの背中を見る。ただただ、穏やかな未来があればいいと願う。そう思うことが老いだと言うなら、それは確かにそうなのだ。そして、願うばかりで彼らに手を差し伸べることは出来ない。

若者四人がよかった。石田卓也さんの印象、グミチョコパインで止まってたもんで(浦島)精悍な青年になっててビックリした!屈強な身体にマグマのような熱情が閉じ込められているかのよう。対して清廉すら感じる美しい青年、松下洸平さん演じるユキの捻れ。心が寄る。横田美紀さんは当時のフーテンと現代の女の子の顔が代わる代わる顔を出す混乱が見事。奥村佳恵さんもそれは同様で、昭和の薄幸美人のような空気をまとっているのに現代っ子らしい身体を持っている。対する大人たち、有薗芳記さんが印象的。彼岸にいるようなジャズ喫茶のマスター。性別も善悪もフラットに見渡し、犯罪にはするりと身を躱す。実はいちばんヤバい大人。

そうそう、今回『ゼロ・アワー』で観て気になっていた松角洋平さんを観るのも楽しみだったのだが、ケガで降板して残念。早い段階でのことだったのでチョウ・ヨンホさんに代役の影響等は感じず。代わりに?松角さん、声で出演されていた。

音楽は原作指定とのことだが、その指定されている曲のどこを使うか、どう使うかと言うのは音楽監修の菊地成孔、音響の渡邉邦男の腕に由る。爆音のフリージャズ、最高。マイルスは使わず、コルトレーンやアイラーらサックスの音に絞っていた。パンフに掲載されていた菊地さんと中上さんのエピソード、いい話だった。

帰宅後佐々木敦さんのツイートを見てえっと思う。多分同じような箇所を松井カラーだと思っている気がする。パンフの松井×松本対談で指摘されていた「引いた?」は間違いなく松井さんの書いたものだろうと思ったが……原作を読んでみようと思う。