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2011年10月15日(土)
『トータル・リビング 1986-2011』

遊園地再生事業団『トータル・リビング 1986-2011』@にしすがも創造舎

フェスティバル/トーキョー(F/T11)四本目、ようやく屋内での上演です(笑)。いやあー…よかった……。ラストシーン、1986年の“気分”を実際には知らないであろうあの女優さんの笑顔には胸がギューッとなった。不機嫌な感じ、ゴキゲンな感じ、イライラしていて優しい感じ。その記憶を持ったまま2011年にいる自分たち。以下ネタバレあります。

一幕45〜50分ずつの三幕、150分。休憩二回。休憩時のBGMはPSBやスクポリ等80年代の音楽。2011年3月11日前後と現在、そして1986年を行き来する(2011年に生きるひとが1986年のとある日を映画に撮影する)シチュエーション。場所はビルの屋上。欠落の女が忘却の灯台守を訪ねてくる。自分の欠落を埋めてくれることを期待してきた女を、灯台守は忘れてしまう。何度来ても、何度同じことを訊ねても。2011年を記録し続ける「記述者」たちは、メモを拾い、起こったことを読み上げ続ける。

バブル前夜に浮かれる1986年と、震災後の不穏が続く2011年が対比的に描かれる。1986年の4月、四谷四丁目のビルの屋上には大きな広告看板があった(今もある)。「クリナップ」の「ッ」と「プ」の間から、当時人気絶頂だったアイドルが飛び降りた(今の看板も「クリナップ」だ)。その数週間後、チェルノブイリ原発事故が起きた。2011年3月、東日本大震災と福島原発事故が起こり、5月に南の島出身のアイドルが首を吊った。80年代にも2000年代にも、不穏は常にある。彼らは(自分たちは)それを忘却して生きていく。どんなことがあっても、何度も、何度でも忘れてしまう。そして、また不穏なことが起きると過去の不穏を思い出す。

その時代に憧憬をも含めて育った世代である自分(1971年生まれ)と1956年生まれである宮沢さんが抱いている80年代の“気分”には差異があるだろうし、ましてや舞台上でそれを演じているひとたちの殆どは1986年のときいくつだったか…生まれてさえいないかも知れない。『3人いる!』にも出演していた上村梓さん(忘却の灯台守役)は1986年生まれだ。

観たひとの世代によって印象は違うと思う。しかし、当時はよかった〜ってハナシではない。1986年に限らず“過去”を体験し生きてきたひとたちが2011年を体験したとき、何を思って過去に思いを馳せるか、現在と未来に思いを馳せるかを問われる作品だ。忘れはするもののその記憶を持ち(=思い出すことが出来)、どうやって灯台に灯をともし続けるか(=忘れないでいることが出来るか)、現在をどう生きるか。忘れた自分への悔しさと戒めは示されるが、忘れてしまうことを否定はしていない。

そして、2011年を知らずにこれから生まれてくるひとたちもいる。

個人的にはふたりの監督…1986年の映画を撮ろうとしている人物と、2011年に自殺したアイドルについて取材するため南の島へ旅立った人物の対比がとても興味深かった。瞬間を逃すまいと反射的と言ってもいい撮り方をする前者、対象の懐に飛び込むべく撮影前に念入りな取材をする後者。後者は前者の教師でもある。前者は携帯やスマフォで何でもインスタントに撮れる世代、「間は編集して繋げてしまえばよい」。後者は上書き出来ないフィルムで撮ってきた世代。そして後者は自分が3月に死んでいることに気付いていない(≒忘れている)。永井秀樹さん、よかったなあ。

そして随所にコントとして見せるパートがちりばめられている。重いテーマを扱っているものなのに、かなり笑いました。個人的には「かねもち!」がツボに入り、そこから躊躇なく笑うようになった。序盤はこちらも堅かった。独特の軽さと独特な重さ。深刻さと不謹慎。エモさからは程遠く、淡々と飄々と的確にポイントを突く。パースが歪んで見える狂った静謐な美術(林巻子さん)、ポップなノイズとメロディの音楽(杉本佳一さん)、POTTO山本哲也さんの衣裳もよかった。軽さのなかに辛抱強さ(後述アフタートークでも話題になった「兆しで留まる」と言うこと)と誠実さが感じられました。

宮沢さんといとうせいこうさん、今作品のドラマトゥルク桜井圭介さんのアフタートークも面白かった。開演が遅い+上演時間が長かったため尻切れトンボな感はありましたが、非常に興味深い話が聞けました。不穏さは物語の萌芽を生み、その物語の兆しは萌えになる。そこに「不穏の快」がある。兆したまま萌芽に留まることが大事であって、耐えきれず語りだしてしまうとバランスが崩れ、今の日本の「がんばろう日本」みたいな気分になる、と言ういとうさんの指摘に納得。平常心であることを制限しない、と言うことだ。

そこに身体があると言う事実があり、ときには不都合となるその身体を消すことが出来ないのが演劇、バーチャルが自在な文学。例えば分裂した「わたし」と言うキャラクターを扱うとき、文学では全てのわたしを「わたし」で書くしかないが、演劇では5人の役者が皆「わたし」と語ればよい。僕(宮沢さん)は作家だから記述する(いとうさんも同意)。その違いを考えて、演劇にしか出来ないものをつくる。と言う話にも感銘を受けました。

発売中の悲劇喜劇に今作の戯曲は掲載されている。この作品が戯曲としてどう記述されているか、読んでみようと思います。

ちなみに今回の舞台は八百屋。そこに椅子とテーブルを置いてのトークだったので、お三方とも「座ってるのがキツい」と言ってました。お誕生日席のいとうさんは「テーブルによりかかってちょっと楽してる」(笑)。おつかれさまでした。