
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME
|
 |
| 2009年05月09日(土) ■ |
 |
| 『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』 |
 |
『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』@シアターコクーン
ネタバレあります。
21世紀に入ってから、蜷川さんが過去手掛けた清水邦夫作品を再演出する試みが続いています。『Note 1969〜1988』を何度も読んで、実際に観られなかった舞台を想像していた者としては、とても嬉しいことです。当時とは違う解釈で演出が施されていることは、演劇は現在を映す鏡であると言う蜷川さんからすると当然のことで、「同じものが観られる」訳では決してないのですが、戯曲の持つ普遍性を見せて貰えることは非常にワクワクするものです。
ほんで、この『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』も、『Note』に掲載されている蜷川さん自筆の演出メモ(字がすげー小さい)をなめるようにして何度も読み返していて、どんな舞台だったのかを想像してニヤニヤしていたのですが、このメモ、キング・クリムゾンのは「Epitaph」って曲名書いてあるのに、ニナ・ハーゲンの方はどんなに目を皿のようにして探しても曲名が書いてなかったんだよ!もう何使ったのか気になって気になって仕方がなかったんだよ!しかも今回新演出でしょう、選曲変わってるかも!ともーやきもきしてたんだよ(笑)
んが、この導入曲は変わってはいなかった。聴けたー!これかーい!
てかこれドイツ語だったから蜷川さん曲名思い出せなくてメモってなかったんじゃねーの(笑)私も読めません!
まあそれはいいんだ。これは普遍属性ですなあ、こんなインパクトのある導入変えられるか!『タンゴ・冬の終わりに』の導入曲「パンク蛹化の女」と同じチームですよ…と言えばニナ・ハーゲンと純ちゃんはよく並べて語られたりしていたな。あーもうこのオープニングを観た時点で腹いっぱい、満足です!と言う感じだったのですが、続いて舞台の上で展開するストーリー、破滅へと突き進む(タイトルにもあるように、劇中劇として『ロミオとジュリエット』が出て来ますしね)戯曲の残酷性とそれを引き受ける女優たち、ただただそれを見守るしかない(役回りの)男優たち、それを視覚的聴覚的に攻める演出と、もうあれですよ、『セブン』で腹いっぱいなのにごはん食べさせられ続けて胃袋破裂して死んじゃったおでぶちゃんいたでしょう、あれの気分です。濃いーかったー。素晴らしかった。
それにはのめりこむぞ、と言うこちらの気概も必要ではあるとは思います。戦渦で解散した少女歌劇団、数十年後の今もその夢の中に生きる女優、その世界を作り上げ守ろうとする周囲の男たちと、彼らに集められたかつての女優たち。そのグロテスクさを暴こうとするジャーナリストとその弟、“伝説の男役”の妹(自称)。誰に心を寄せるかにものめりこみは左右される。戯曲の構造的には、妹以外の全員が「100歳のおばあちゃん」の姿に「13歳のジュリエット」を見る。それを「瞬間的に信じさせる」力を発揮する舞台の真骨頂には、観客の心眼も必要です。どれだけ目の前で起こることを信じさせられるか、信じることが出来るか。宝塚出身者と現代劇出身者の混成チーム。フォーマット上、宝塚的な立ち居振る舞いや台詞回しが多いので、そこで拒否反応を起こすひともいるかも知れません。
残された者たちには残酷過ぎる結末。女優たちはギリシャ悲劇に於けるコロスになり、嘆き叫ぶ。カオスの中落ちる照明。ストーリーとしては、空中分解したようにすら思える幕切れです。しかし、清水戯曲の蜷川演出とはこういうものだ、と言う、鳥肌が立つような混沌とした恐ろしさと刹那は、他の何ものにも代え難い。
一月の『リチャード三世』でもすごかったけど、三田和代さんはやっぱりすごい。100歳(実際何歳かは判らない)で13歳で、かわいさ、美しさと同時に老いとグロテスクさを体現しなければならず、それは残酷さをも伴う。『欲望と言う名の電車』のブランチのように狂気の中に逃げ込みつつも、若者が若者のままここにいては、自分はそれに嫉妬する、と言うことも受け入れている。その痛みと諦観を自然と納得させてくれました。いやーもう観られたことに本当に感謝する。
そして毬谷友子さん!あのニナ・ハーゲンの歌を劇中日本語で唄うと言うハードルの高い役どころがドンピシャでした。そうだよこのひとは妖怪女優だったよ…夜長姫@贋作・桜の森の満開の下だったひとだもの。お冬(オフィーリア)@天保十二年のシェイクスピアだったひとだもの。あの歌唄える女優さんってなかなかいない(つうか歌手にもいないか…)でしょう…誰がいるよ。純ちゃんはおいといて。やっぱこえー!すげー!毬谷さんは「Epitaph」も唄うのですが、そちらも素晴らしかったです。
鳳蘭さんもスターの貫禄、格好よかった…。男優陣は静かにしかし必死に「砕けたガラスの城の破片をかき集め」、スターから「こどもの父親の名前は忘れてしまったわ」と言い放たれる(実際そこに父親がいたかは明かされない)寂しい役回りを優しさを込めて表現しておりそれも素晴らしかった。ウエンツくんは初舞台だそうですが、青年姿も女装姿も堂々としたものでした。
カーテンコールでザ・タイマーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」が流れた。客席がどよめいた。初日からそうだったと聞いていたんだけど、芝居に入り込んで観ていたのですっかり忘れていて、あのイントロが流れてきた時にハッとした。今日は告別式だった。追悼の意味で使うことにしたのか、その前から決まっていたのかは判らないが、これが芝居の内容にぴったりの歌詞だったのだ。これも現在を映すことなのかも知れない。あざといと言われることもあるだろうが、こういった蜷川さんの敏感さと言うか、即実行に移す反射力の早さは、他の現場ではなかなか見られない。本人も自覚的なのだと思う。それが出来るのが演劇だ、やらないでどうする。なんで皆やらないんだ?そういうことだ。青山葬儀所ではまだ告別式が続いているだろう。心の中で送ることにした。ゆっくり劇場を出た。
PARCOでやってる『R2C2』でもキヨシローさんのことは思い出すだろう。来週観ます。
|
|