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2009年04月25日(土)
『神様とその他の変種』とか

■金曜日
SPARKS@O-EASTに行きましたーよかった!後で書き足しますアップしましたー

■誰だ!
ユニクロで買い物してたらBrian Eno & Harold Buddの「Against The Sky」が聴こえてきたのでビックリ。店内BGMでかかるような曲じゃないから…その後それがループになりラップが入ってきてまたビックリ。サンプリングかー。しかし誰の曲だこれ?全然見当がつかない、すげー気になるー!

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NYLON100℃ 33rd SESSION『神様とその他の変種』@本多劇場

ネタバレあります。

ケラさんが献身、贖罪、信仰を描くとこうなるんだな。至極納得が行く部分もあり、そして変化も感じる。

納得が行った部分。ひとは皆ちょっと変わっている。と言うことは、ちょっと変わっていることは普通のことである。だからちょっと変わっていることは普通である。そこには排斥や同質指向が介入してはならない筈だが、ひとは変わったものを排除しようとし、画一化を求めがちだ。何が正しいかを決められるのは自分だけだが、その思いはなかなか他人には伝わらない。

変化と感じた部分。これ迄ケラさんは「記憶」を失うものとして描き(『ナイス・エイジ』や『消失』が顕著)、そこに救いようのない救いを見出す傾向があったように思う。しかし今回描かれた「記憶」は失われるものではない。決して忘れることが出来ず、そして失ったもの迄が取り戻される。その上で終末を描く。

誰も出口を見付けられない。退路は次々断たれる。話し相手だった動物たちは死に、謝っても取り返しがつかず、つらくて忘れてしまったことを思い出す。殺人は本人の知らぬ間に妄想にすり替えられ、背負ってもいいと思っていた罪は実在しない。憎しみは宙に浮き、復讐は全て霧散する。誰も報いを受けない。

記憶を持ったまま、ひとは生きる。神様は何もしない。見ているだけ。そして時々奪うだけ(下着も奪ってたな(笑))。だからひとはひとに祈る。野菜炒めに祈る。それでひとは生きていける。

ちょっと変わっているひとたちは、生きていてもいいんだと祈る。誰に?何もしない神様に。でもそれは神様ではないかも知れない。贖罪には生け贄が必要で、ふたりの命が持っていかれる。神様はただでは許さない。

と言ったようなことがてんこもりに詰め込まれており、ちょっとした台詞のニュアンスで印象がガラリと変わりかねない。難易度が高い脚本に思える。笑いを誘うか誘わないかも同様で、精度に大きく左右される。勿論解釈はひとそれぞれだが、作者の本意を伝えられる精度の高い演技が出来るキャストは、今回のメンバー以外ではちょっと思いつかない。それ程の阿吽の呼吸。

「ケンタロウは死なない、あれはケンタロウを守るための飲み物だから」。出典がある台詞かも知れない。しかし、山内さんが放ったこの言葉にははっとさせられ、考えが反転させられ、胸に突き刺さった。具体的には「毒は僕がビタミン剤とすり替えていたので、あれを飲んでもケンタロウは死なない」と伝えられればいいシーンだ。しかし台詞をああすることで、夫の妻と息子への愛情と、ふたりの思いを無駄にしない為の精一杯の思いやりが痛々しい程に感じられ、切なさの重みがずしんと増した。

ケラさん本人が言うとおり、異色作かも知れない。「安定はしたくない」「『ナイロン100℃というのはこうした芝居をやる集団である』みたいな規定からは常に逃れ続けたい」と言っていたけれど、ナイロンだからこそ、ナイロンでなければ成立しない作品にも思える。もう円熟(ってケラさんの嫌いそうな言葉ですけどね)の域ではないかと思わせられる脚本、演出の手腕。それは劇団のそれであり、役者、スタッフワークのそれでもある。とにかく巧い、巧さを巧いと感じさせない程に巧い。皆がよかった…すごかったな。いつも思うことだけど。近年のナイロンには本当にハズレがない。

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以下参考および引用文献としてクレジットされている作品。
・別役実『木に花咲く』『そして誰もいなくなった ―ゴドーを待つ10人の小さなインディアン』
・山崎哲『ホタルの栖』(育ケ丘団地一家心中事件)、『子供の領分』(金属バット殺人事件)
・ヤスミナ・レザ『GOD OF CARNAGE』
・いしいしんじ『ぶらんこ乗り』
・ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』