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| 2003年01月17日(金) ■ |
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| 8度目の1,17 |
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兵庫県内の高校のグランドに足を運ぶと、すこぶるきれいな校舎を目にする。駅前のちょっとした専門店街みたいに近未来的なのだ。実はこれも震災を彷彿させる物だと思う。震災の爪痕といえば、何かが壊れたり、崩れたりしているというイメージがあるが、新品の校舎、その不自然な新しさは、まだ壊れる時期ではないのに壊れてしまったが故に作られたものだから。もし、震災は起こらなかったら、私が目にした校舎も違うものだったかもしれない。そう思うとやっぱり8年経った今でも、忘れてはいけないことなんだ。
1995年1月17日は、大学の後期試験の初日だったが、事態を重く見た学校側は試験日を延期を決定した(当時、兵庫県内で高校3年生をしていた相方は、「3学期がなくなった」と言っていた)。学校まで来てしまった私は、人影まばらな校舎の地下で、コピーを取っていた。とそのとき、ガガガガガっと余震に襲われた。危うい地盤にただおろおろするだけだった。幸い揺れはすぐ止まったが、「もしも今すごい地震が来たら、私、この場所で生き埋めにされるんや」。そう思うと、足がガクガク震えた。
4月ごろだったか、クラスの男の子が、「死亡者の数が5000に届くっていうときはさすがに興奮した」などと不届きなことを口走っていた。彼は震源から遠い大阪の町に住んでいた。「そんな不謹慎なこと言うなんて、被災者の人の気持ちも考えたら?」、そう言うべきだったのに、言えなかった。確かに私も、言いようのないショックに襲われたし、怖いし、亡くなられた人のことを思うといたたまれない。でも、彼が口走った興奮が、私の心のどこか奥の方にもあったのかもしれない。自分が自分で怖いのだけど、現場に居合わせていない私は、本当の震災の恐ろしさがわからない。実際、兵庫に住む友人から「部屋に閉じこめられた」とか「水の配給で、タンクを運んだ」とかいう話も聞いたし、「今、いとこの家にお世話になっている」という電話ももらった。でも、数字だけが一人歩きする死亡者数にリアルさを感じられずにいた。一つの事故災害で4桁に及ぶ人が亡くなる。それは、戦争を知らない私が初めて遭遇する事態。それだけ、平和な世の中で生きさせてもらっているということにもなる。
他の日記作家さんが書かれている今日付けの日記を読ませてもらたったが、多くの方がこのことに触れている。中でも、関西の方(あるいは関西に住んでいたことのある方)多かった。あれから8年、まだ私たちの中で色褪せていない出来事なんだ。そう信じたい。
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