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| 2002年07月23日(火) ■ |
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| わきまえる |
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いくら熱心に応援しようとも、どんな犠牲を払って観戦しようとも、選手や首脳陣、父兄のみなさんと“同じ”というわけではない。スタンドと観客が一体になるということはあっても、“同じ”ではない。そこをわきまえようと思っている。
私が一番関わるのは父兄さん。仕事の合間をぬって、試合観戦やお茶の準備、ゴミ収集などの後かたづけ、また私学なので授業料だけではなく野球部費も決して安くはないだろう。不景気と言われて久しいが、共働きの方も年々増えてきている。社会で曲がりなりにも仕事をしてみたら、改めてそう痛感のだ。
応援を始めると、正直、ただのファンから脱皮したくなるし、誰かに応援してもらっていることの熱心さを認めてもらいたいし、情報を知りたいし、話も聞きたい。でも、私はそこから抜け出そうと思っている。そこから生まれるマイナス感情が怖いからだ。
昨今、高校野球のHPを見ていると多くのファンの人が、応援校の父兄さんや関係者によくしてもらっていることを書かれている。もちろん、私もその一人なのだが、私が10年かけても辿り着けない境地にいとも簡単にありついている人もいる。うらやましくないと言えば嘘になる。だから、私は逆を行こうと思った。年月とともにいろんな関わりを断っていこう、と。
何年か前、こんなことがあった。
その年は夏の大会で上位に勝ち進んでいた。私とともきちは、ほぼ毎日同じ席を陣取っていた。そこはグランドが見やすいし、父兄さんや応援団も見える絶好のポジション。そうしているうちに、そこに座っているとチームが勝つというジンクスが出来てしまい、暑くても席を変えることが心許なくなってしまったのだ。
決勝戦当日、いつものようにその席に座っていたら、父兄さんに「そこ、校長先生座らはるからどいてんか」と言われた。私たちがまるで悪いことでもしているかの勢い。私たちは顔を見合わせたが、「すみません」などと言って席を立った(今思ったら、「なんで謝らなあかんねん」となるのだけど)。そのとき、私は強烈な虚しさに襲われた。ああ、どんなに一生懸命応援しても、所詮関係者にはかなわないんだな、と。いっそ、「迷惑やから、応援を辞めてくれ」と言ってくれないかな。楽になれるのにと思った。
甲子園をかけた試合前、チームもスタンドも大いに盛り上がっている中、私は心の温度が下がっていくのを感じていた。誰が悪いわけでもない。「どいてんか」と言った父兄さんにも日頃からよくしてもらっていた。それだけに、今まで聞いたことないような冷たい口調がショックだった。また学校自体が存在していない以上、私の応援も成り立たないため、校長先生によりよい環境で試合を見ていただくことも悪いことではない。もう少し若かったら、「なんやねん、校長やからって、決勝戦だけ来て。私らは緒戦から見てんねんで」とプンプン出来たのだけれど。
過剰な行動に出てしまいそうになるときは、いつもこのときのことを思い出している。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。もう一度、チームやスタンドがオーバーヒートするようなときが訪れたら、そのときはなるだけ冷静にいたいと思う。
今、私はわきまえなければならないと思っているのは、試合後父兄さんの応援席に行って、「おめでとうございます!」の挨拶へ行くのを辞めること。分かっていてもついやってしまう。あそこはあくまでみなさんの世界なのだから、私が入ってはいけない。嬉しい反面、いつも小さな後悔に苛まされる。(ま、眺めるだけは眺めたいとは思いますが。文章書くにおいていい素材が転がってるので、それだけは許してくださいね)
最後に。こういう追っかけ的応援をしている人にはそれなりのこだわりがあると思いますが、私のこだわりはちょっと変わっているかもしれません。それは、いつかチームが夏の甲子園に出場することが出来たとき、敢えて試合を見に行かないことです。ああ、一度は口にしてみたいなあ、「甲子園行くんやろ、(応援校の)試合見に」と聞かれたときに、「いえ、仕事があるんで」と。
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