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| 2002年06月19日(水) ■ |
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| さようなら。 |
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オルゴールが苦手です。
あの音色がたまらなく切なくて、いらんこと思い出しそうで、いつからか苦手になっていました。
いや、携帯の着信音のオルゴールバージョンやCDのオルゴールサウンドはそれほど抵抗ないのですが、ネジを回したら音色が流れてくるあれがダメなんです。
最初は快調な音も、ネジのため(というのでしょうか?)がなくなってきたら、だんだんペースが遅くなり、最後には力尽きてしまう…。
これを哀しみを言わずに何と言う、などと思ったりするんです。おかしいですかね?
部屋の整理をする際、一番心悩ませるのが、人形と呼ばれるものの存在なんです。
子供のころ、両親や叔母がプレゼントにぬいぐるみや人形をくれることが多かったのですが、それらは今も私の部屋の片隅に置いてあります。
埃もかぶっているし、かわいそうなくらい変色しているし、いっそ神社かどこかに預けて処分してあげた方がこの子たちも幸せなんじゃないかなと思ったりするのですが、やはりダメなんです。
やはり、1体1体に想い出があり、当時の自分が抱いていた気持ちが鮮やかによみがえってきます。
あれから20年近く、当時の私は自分が仕事もろくに出来ないしょーもない大人になるなんて夢にも思ってなかったことでしょう。それなりに生きてきたつもりだけど、ふと“一体、どこで人生を間違えたんだろう”と思ってしまう。
捨てるもの辛い、見ているのも辛い。大好きなぬいぐるみや人形は、そんな存在でもあります。
やっかいなことに、その2つが合体したオルゴール人形が1体あります。小学2年生のとき、叔母が買ってくれました。
ブルーのチェックの洋服を着、おそろいの帽子をかぶっている女の子。ネジを回すと、マイウェイという曲が流れ、女の子の首が切なそうに回る。
先日、部屋の整理をしていたときにどうしていいかわからないでいたら、母が「預かるわ」と言って、下の居間に置いてありました。
今日、昼ご飯を食べて、ボケーッとテレビを見ていると、マイウェイが流れてきました。ハッとして振り向くと、母がそのオルゴール人形を持っていました。
母はしばらくそのオルゴール人形をもてあましていましたが、おもむろにはさみを手にして、帽子に切り込みを入れました。
「何してんの」
私は、一種の危機感を持った。
「捨てようと思って。もう古いやろ」
予感が当った。「やめて」という言葉が、のどの先まで出かかった。でも、声になることはなかった。生まれ来たものは、いつか滅びる…。
母は、はさみを動かしながら言う。「いや、人形の状態もままで捨てるのはなんかなあ。だから、せめてこうやって…」。母もやっぱり辛いんだ。
顔にはさみが入る。ふと、自分の顔にナイフが入ったらどうなるんだろうと思った。テレビ番組をそっちのけで、母の動かすはさみの刃に釘付けだった。
顔部分が切れ、皮をめくるようにはがすと、中から土台になっていた発泡スチロールが顔を出した。母は、間髪入れずに、下半身にはさみを入れる。すると、下も同じように発砲スチロール。
目の前には、丸い発砲スチロールの塊が二つに、青や肌色や白い布、黒や赤のフェルトに3,4cm四方のオルゴールの音源。
そうか、あのオルゴール人形は、これらを人形の形にしたものに過ぎなかったんだ…。人の形をしているから捨てるのが辛かったし、今も人形の形を意識しているから、こういう状態がちょっと哀しい。
でも、もし、何も知らない状態で、これらを見たら、何も思わず、ゴミ箱に押し込めただろう。
形あるものには感情を抱き、形ないものには無感情になれる。ふと、自分が恐ろしく思えた。何かを見誤りそうで怖い。
私の大好きな人形は、命と引き替えにそんなことを教えてくれた。
実は、先日、神宮大会を観戦したとき、もっと野球を知らなきゃいけないし、知りたいなと思った。もちろん、それは充分必要だとは思うけど、私は極端な行動に走りがちなので、ルールやスコアなど形あるものだけを追いかけてしまうことになりかねない。今日のこの出来事は、そんな私にかけられたブレーキなのかもしれない。
なんかかなりこじつけの日記になってしまいましたが、“人形には命が宿る”と信じる私は、どうしても今日のことを書いておきたかったのです。
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