浅間日記

2006年06月30日(金) 果肉か仁か

ようやく週末。県庁付近で仕事。
帰りに更埴へ寄って、杏を仕入れる。

大型バスが大挙して訪れるこの集落も、
平日の今日は、閑散としている。

また馬鹿のように大量に杏を仕入れ、帰路につく。

杏でジャムを作るのなら、今年は焦がさないように、
干すのならば、饂飩屋のおばさんのをお手本として、カビさせないように仕上げるべしと、今からAに念を押されている。

しかし、私の本当のお目当ては、種−杏仁−なんである。
かつては漢方薬として果肉より価値があり、
銀杏のように果肉を腐らせて取り出していたのらしい。

そこまで有用なものなら、使ってみたくなるのが人情である。

2004年06月30日(水) 流通の話



2006年06月27日(火)

本日も引き続き東京。

手と足と口が痛くなるウィルス性の奇病も健在である。
立派な宿主様なんであるが、別にうれしくない。

東京の湿気は嫌いではなかったけど、今日は降参。
一分一秒でも早く立ち去りたい気分のまま、一日を過ごす。


2005年06月27日(月) 睡眠の話
2004年06月27日(日) berry berry and berry



2006年06月26日(月)

不思議な症状の夏風邪を引いたまま、上京。
むわんとした湿気のこもるビルで、先々の仕事の話を長々とする。



幼馴染のKちゃんと年次報告会。

もう何年も前の出来事をほりかえす馬鹿話の合間に、ふと、
なぜおたくのお母様は、あの当時、あなたをそんなに放任していたのだろうか、という話題。

多分、人間として絶対にしてはいけないことやしなくてはいけないことは、
もう子どもに教えたっていう自信だろうね、とKちゃんが即答。

子どもがちゃんと習得したかは子どもにしかわからないから、
多分それは、全身全霊で教えきったというお母さんの自分の気持ちだ、とも。

ふーん、と何気を装いながら、
なんだかうらやましいじゃん、と思うのであった。

2005年06月26日(日) 梅雨
2004年06月26日(土) 美しい親子



2006年06月25日(日) 未遂事件

「教育に国家介入許すな」と題した、高村薫氏の記事。
書きとどめておきたいことは、二点。

もともと教育基本法というのは、国民の権利を保障する中身ではないのか?
と腑に落ちなかったことを、氏も、次のように指摘している。これが一点。

「現行法では公正公平な教育を実現するための制度の確立が目指されているのに対して、改正案はまさに教育の中身が明示されているのである。」


二つ目は、教育基本法改正案をめぐる政治家の悲願というものについて。

高村氏は、教育基本法改正案は、自民党結党から続いていた憲法改正論議と一つになった悲願である、という。

その「積年の悲願を達成したい政治家たちの、もはや怨念に近い深謀遠慮のなせる業」と高村氏が指摘するからくりが、義務教育費との関係性である。

これはつまり、教育振興基本計画という財源確保のしくみと、
教育基本法改正案が抱き合わせになっているということである。

高村氏は、このことから「義務教育の空洞化を阻止したければ、愛国心の法制化を受け入れよ」という政治家のメッセージが読み取れる、という。



世の中、法律と金である。そしてそれをどうするかは、人の意思である。

長々と書かれる条文の背後には、良くも悪くも、
あの政治家やこの政治家の−つまり特定される誰かの−
極めて人間的な心の動きや、自己実現への欲望が潜んでいる。必ず。

だから、今回の国会で教育基本法改正案が継続審議となったことは、
これは、私にとって「未遂事件」に該当するのだ。
政治家の悲願の成就のために、自分の子どもを差し出せるわけがない。

「もはや怨念に近い深謀遠慮」は、立法府に存在する。
高村薫という優れた推理作家から、つくづく教えられた。

2004年06月25日(金) メニューに食べたいものがない食堂



2006年06月23日(金) ラッキーのめぐらせ方

楽しかった上半期も終わりである。
程よい仕事量だった見通しが、やや大盛りになりそうな気配。

ありがたいことではあるけれど、なぜか同じ日に襲来したので、
こなせるだろうか、また生活が破綻しないだろうかと、少し及び腰である。

こういうタイミングは、おそらく、統計学的に分析すれば必ず根拠がある変動だ。
今日のラッキーテーマは仕事だったか、などとは思わない。



占いに未来を委ねるという習慣がない。
不思議なめぐりあわせは、もう少し別のかたちで自分の中にある。

易学というのは、統計学的知見を応用したものと思っている。風水は自然科学である。

だから、易「学」とか占星「術」という以上は、
誰が判断しても同じ知見にならなければならないと思うのだけれど、
最近のそれは著しく変質している。
「私があなたを占います、私が」という、意味不明の主張がある。



私が備えている血やリンパ液の組成について統計学的に示したとしても、
それをどんなふうに身体中にめぐらせていくかは、−未来への向い方というのは−、
結局のところ、自分が心拍数をあげて血液を循環させなければ、どうしようもない。

だから、怖いおばさんの占いに戦々恐々とするよりも、
腹をすえて、手も足もバタバタさせるほうが−あるいはじっとしているほうが−よいと思う。

そして、そうしてみた後に、身体に血がどうめぐったのか、
自分でよく考えれば、ともかくは、それでよいのだとおもう。

2005年06月23日(木) 分水嶺
2004年06月23日(水) 疲弊



2006年06月22日(木)

夕方から激しい降りの雨。仕事の手を休めて窓を閉める。

梅漬けをしながら、Aに絵本を読んでやりながら、
仕事で手を動かしながら、この一週間あまり、
常にあのことに関する緊張が傍らにある。

もちろん、北朝鮮の、テポドン2号のことである。
片手間に情報をチラチラ眺めるだけでも、
気持ちの悪い状態が続いている。

発射された場合の、最悪のケースに対する備えが、
今この時もすすめられているのらしい。

最大の問題は核弾頭を積んでいるのかどうかであるが、
ひょっとして、という気持ちが残る。

明日はないかもしれないと思いながら暮らす、この気持ち悪さ。

2005年06月22日(水) 表敬訪問



2006年06月21日(水) midsummer day

ウィリアム・シェークスピアが描いた「真夏の夜の夢」の真夏とは、夏至の日のことです、
との説明付きで、ラジオからメンデルスゾーンの「夏の夜の夢序曲」。

夏至の日は、−古くからの言い伝えによると−森の妖精達が特別な力をもつ祝祭日なのらしい。



異形のものが活気づこうというのなら、暗い夜が長いほうが好都合じゃないか、と思うけど、
そこはそれ、寒い冬至の日には、騒ぐ気にならないのらしい。

不思議な力をつけた妖精になって、1日が一番長い日を夜遊びに解放されたいという、人間の創意工夫か。

2005年06月21日(火) 大人はわかっちゃいけない



2006年06月19日(月) 3浪生の受験日前

二週続けて週末を拘束されて、クライミングに行けないHは、
怨恨の塊みたいになっている。

もう遠征まであとちょっとなんだから、と、めずらしく心中を暴露。
調子を整えておかないと、向こうへいったら条件が悪くなるだけなんだ、とも。

焦っている、と、遅まきながら気づく。



Hがインドへ行く用事というのは、頂上に立つこと、
つまり、成功か失敗のどちらかで終わる用事だということを、
もう本当に、すっかり忘れていた。

考えてみれば、4度目の挑戦だから、3浪生の受験日前みたいなものだ。
しかも、色々な面で、今までよりも条件が悪い。

私は多分、彼らに同調すまいと、無意識に思考を遮断している。
それに、例によってあの人達は、馬鹿みたいに冷静を装う。

家族にとっては、ショーでもゲームでもない。
多分、チャレンジですらない。家族にとっては。

だから、サッカーワールドカップの応援みたいな気分で
興奮気味に寄り添うことなんか、ちょっとできないんである。

そしてこれから先も多分、出発までそうすると思う。

ただまあ、色々な雑事からはもう開放してあげよう、とは思う。

2005年06月19日(日) 高密度な労働投下
2004年06月19日(土) 草刈り多国籍軍



2006年06月18日(日) 沈黙・試合中断

ようやく南高梅のいいのが出たので仕入れる。
青い中梅とあわせて、今年は4kg。大鍋に山盛りの量を、一本勝負である。

夕立ちで雷が鳴る中、Aと一緒に着手する。

軸を取り除き水気を拭く作業をするAの手つきが、
昨年よりずっと上達している。

大したもんだと感心しながら、二人して黙々と手を動かす。

いつのまにか梅のことは自分の手にまかせることにして、
新しい仕事のオファーをどうするか来週中には決めなくちゃなどと、頭では別の作業をしている。

そしてAも無言のまま手を動かす。
何か考えながら手を動かしているのか、それとも無心か。



ところが、塩の良いのを準備していなかったのはいかにもポカであった。
という訳で、本日はジュース用だけ仕込み、梅漬けは明日に繰越。

2004年06月18日(金) 東大の壁



2006年06月17日(土) 人生最後のワーク

昨日に引き続き、晴れ間。

老後の楽しみは、泉鏡花研究と決めている。
私は、絶対にそこへ戻ろうと思っている。

ただ、今はそれに着手する時期ではない。今は封印している。

家族がいて仕事をしてという、実務満載の日々を楽しんでいるのだし、
何よりも、前掛けやビジネススーツのまま、その作業に入りたくないんである。

そんな悠長なことを言っていては、実現できないかもしれない。
でも、人生最後の作業が遠くにあって、
北極星みたいに自分の航路を照らしてくれるのは、悪いことではない。
そして泉鏡花は、私にとって、そういう存在に値する作家なんである。


ところが、悪いことに、
三島由紀夫が泉鏡花を高く評価した文章を目にしてしまう。

明治以来の小説家ので天才と言えるのはこの人かもしれない、
とまで褒めちぎっている。

これは読まなかったことにしよう、と思いながらも、
行ってはいけない世界からの誘惑が抑えきれず、
つい「高野聖」を読み返してしまう。

2004年06月17日(木) 珍プレー好プレー



2006年06月16日(金)

梅雨の晴れ間をぬって、山へ。


運動はどうも嫌だけれど、自然の中で労働するのは楽しい。
春ゼミがうなりをあげる森の中、額に汗をして標高をかせぐ。

尾根に出れば、気持ちのよい風が拭きぬけるから、
立ち止まって、息があがった身体をクールダウンする。





2006年06月13日(火) 人生最後のアジテーション

地域のイベント。
先々週末のことである。

団塊の世代、とおぼしき方々の無防備な元気のよさ。
アロハを着て、サングラスをして、エレキギターを弾いている。

彼らがリタイアするまで、もうあと数年である。
これを、何かやかましいことが始まるような、
あまり良い出来事と思っていなかったのだけれど、少し考えを改めた。

人生最後のアジテーションとして、世の中をよくする理屈を、
その底抜けの元気でもって、やっていただきたい。そう思う。



これは推測というか、体感であるけれど、
日本国民全体の平均的な教育・教養レベルが最も高いのが、現在である。
否、ピークは既に、もう少し前かもしれない。

いずれにせよ、
識字率は相当高い。投票所では誰でも候補者の名前をかける。
計算は、暗算でできる。ややこしいのは、書けばできる。
情報や教養を、現在や過去の書物から得ることができる。

小学生から主婦から老人まで、こうした教育・教養レベルが保たれている。
字が読めないおばあさんへ、学校へ行っている子どもが新聞を読んで聞かせる、ということはあまりない。
女性は学がない、という社会通念も、とうの昔にない。

それどころか、昨今のおじいさんおばあさんは、
語学も堪能、政治経済にも明るい、口は達者、ときている。

現代日本は、極めて特殊な、人材に恵まれた時代なのだ。
そして、にもかかわらす世の中は良くならない。希望がない。

教育水準の高さは、必ずしもよい社会をつくらない、ということだろうか。
そうだとすれば、ではあと何が必要なのか、何が不要なのか。
それを私は、しっかり考えなければと思う。

2004年06月13日(日) テレビ市場開放



2006年06月12日(月) 産地直送・源泉掛け流し

不摂生がたたって動きの悪い身体で、早朝から山で仕事。
体内に何かどろっとしたものを蓄えたまま家を出る。

到着して深呼吸。
若葉の清々とした空気を吸い込んで、
粘性の高い、何か気持ちの悪いものを、
すっかり身体の外へ追い出してしまう。



森の空気は、循環式のではないから、気持ちが良い。
それは一回も誰かの呼気になっていないし、
何かの装置から排気された空気でもない。

すべての葉の気孔という気孔から放出された、
産地直送・源泉掛け流しの酸素なんである。

これは、なんだかすごいことのように思う。

2005年06月12日(日) 



2006年06月06日(火) 観光地ビフォアフター

中語のいた山、立山へ。

昨年に引き続き、この山の神秘性に魅了される。
それだけに、この「立山黒部アルペンルート」という無粋な名称が、
残念でならない。

ケーブルカーやトロリーバスやロープウェーに乗って山を越えるという、
アクロバティックな面ばかりが強調されてしまっている。

弥陀ヶ原までのバス中でかかるあの妙なムード音楽も、やめたほうがいい。
どこにでも売っているみやげ物も、ハッピを着た呼び子も、極力減らしたほうがいい。

なにしろ気の毒なぐらい時代遅れなスタイルが、いちいち目に付いてしまう。
特別な歴史や文化や自然をもっているポテンシャルの高い地域だけに、
この時代遅れの様が、痛々しいのを通り過ぎて、努力不足に見えてくる。

どうして、どこでもやれるような観光事業をいつまでもやっているのか。
ちょっと私にプロデュースさせなさい、とまで図々しく思う。

観光ノイズを消せるだけ消し去って、この山域を再び
スピリチュアルな曼荼羅の世界としてとらえなおしたら、

今までよりも多くの人が関心を向けるだろうし、
今までとは違った種類の人が、ここへ足を運ぶだろう。
今までよりも格段に深い気持ちで、ここを訪れてよかったと思うだろう。

スピリチュアルなものを受け取ることができる森や自然というのは、
別に沖縄や屋久島だけじゃないんである。



ここまで言う以上は、いつかきっと、時間がかかってもよいから、
バスやケーブルカーを一切使わないで、山頂へ至ってみなければなるまい。
もっとも、高野山なんかと同じで、元々は女人禁制の山なのだけれど。

2005年06月06日(月) 旅に民謡
2004年06月06日(日) 



2006年06月05日(月) 蟻の罪

初夏の山へ。

春蝉が鳴いている。シカが山をかけのぼる。


蟻の兵隊」という映画作品。
第二次世界大戦後も中国山西省に残留し、
中国の内戦を戦った日本兵がいる、というドキュメンタリーである。
7月から上映されるのらしい。

「私たちは士官の命令に従い、蟻のようにただただ黙々と戦った」
というコピー。

残留日本兵の一人であった奥村和一さんは、
真相解明と、被害者として、加害者としての自分を検証する。

奥村さんは、なぜ自分たちが残留させられたのかの真実を追い求める。
知らずには死んでも死にきれないという深い思いがあるようだ。


知らない事実があるものである。
奥村さんのような経験は、決してしたくないと思う。

どこの国に生まれた誰であっても、
蟻のようにただただ黙々と戦ったりしてはいけない。

知らされていない事実があるはずである。
蟻のように思考を放棄させられている部分があるとすれば、
その理由の多くは、事実を知らないからである。

社会的地位や経済力や自分が属するコミュニティの利害関係に関係なく、
人は絶対に、自分の考えをもつことを放棄してはいけない。
そして、知る努力をしなければいけない。無知は罪である。

つくづくそう思う。

2005年06月05日(日) 噺家の話し方教室



2006年06月03日(土) 眼つぶし信号

暑い日。
布団を干して家の中の掃除をすませた後、
日傘を差してAと広場へお出かけ。
音楽を聴いたり、屋台の食べ物を食べたりする。

夕方に車で外出。



発光ダイオードになった信号機を直視するのが苦痛で困っている。
信号機だけではない。よく見ると街のあかりのほとんどが、アレになっている。

アレは、水銀などの有害物質を含まず発熱量も少ないし、半永久的に使えるから、
確かに環境には良いのかもしれない。でも私の健康には絶対に悪いと思う。

何しろ光の直進性が強すぎる。
信号の、複眼みたいな光源の一つ一つが、目を刺してくるのである。

直視はタブーとされているものを、信号みたいな、
絶対にそれを見なければならない装置になぜ使用するのか。

本当は信号だけでなく、液晶画面や携帯電話にも使われている。
やけに目が疲れるのはそのせいだと、最近思っている。

どうもアレには良い印象がない。

どんなに画期的な技術開発でも、
何十年も人間が使ってどうなのかまで検証しなければ、
本来完結しないものだと思う。

2004年06月03日(木) 誰かのせいにしたい



2006年06月02日(金) 棄権せよ その2

Hは昨日から山の学校へ。台所で一人朝刊を読む。


共謀罪の成立が強まる見通し。

2005年の出生率が5年連続で過去最低を更新し1.25となり、
日本国の人口は、1899年以来初の減少。

2005年の日本国内の自殺者は前年比0.7%増の32552人となり、
8年連続で3万人を越えた。



土俵際の出来事が続く。

継続的なウォッチングと、それに対して意見してゆく作業に、
未来と現実に真摯であればあるほど、疲弊してゆく。

しかし、こうも思う。
報道は、どんな情報をいつ公表するか周到に考えることで、
国民をオーバーフローさせたり、他の事実から目をそらせることができる。



という訳で、あの肉が市場に出ようとしているというニュースは、
私には、この土俵際の出来事のすきまをぬって、としか思えないタイミングである。

BSE危険部位が一部で見つかったことで、誰もがもう残りは処分するものと思っていたあの肉−いまだ処分されず港に保管されていた−を、
全箱を検査して問題がない場合、輸入を認めるんだそうである。

「おたくの店のパンにカビが生えている」というクレームをよこした客に、
そのカビをむしりとって残りのパンを平然と売るような行為である。

ただしこれは、アメリカとの問題ではない。
国内の、日本食肉輸出入協会の問題、日本人のモラルの問題である。



全箱検査の方法と実施記録、その結果、流通先の公表、商品への適性表示、
つまり「その肉を100%喰らわないですむ方法」が説明されていない。
どさくさに紛れて流通させてしまえというのが見え見えである。

アメリカもおかしいが、日本だってかなり狂っている。

2005年06月02日(木) 
2004年06月02日(水) 罪



2006年06月01日(木) 人を更生する資格

水無月。



長崎県佐世保市での小学校6年生の同級生殺害事件から、2年目になる。
「時を経ても苦しさが増すとは思い及ばず、戸惑っています」という、
御手洗恭二さんの手記。

「子どもを被害者にも、加害者にもしないために、有用な情報は社会に還元し、少しでも社会の疑問や不安に応えてほしいと切に願います。」ともある。



理不尽な事件で子を失った親御さんに、もう二度と、
こんな悲しい提言を書かせてしまってはいけない。

なぜ厚生労働省の担当者は、御手洗氏による情報開示の申し入れを、
全く音沙汰がないと氏が思い直接出向くに至るまで放っておいたのか。

情報開示の可否を問題にするのではない。
それ以前の、想像力と思いやりの欠如が問題だ。

想像力と思いやりが欠如した資質でもって、他人の更生を実現するなど、
おこがましいことであるし、それは絶対に不可能と思う。


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