
おとなの隠れ家/日記
marko
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| 2004年06月10日(木) ■ |
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| 話半分 その4 |
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では、わたし的「真実」を言葉にしてみようと思う。
考えながら書いているので、似たようなことを繰り返し書いてしまうかもだが そのあたりは大目にみていただきたい。
わたし的真実とは、自分が本当のことだと思っていることを指す。 本当のことだという判断基準は自分にある。 きく話は、とりあえず真実だと思ってきく。(おそらく無意識の領域) 話し手が真実じゃないよと言わない限りは本当のことだと思ってきく。(これも無意識) なので、真実じゃないとしても、その時はわからないかもしれない。
わたしにウソをつこうとして、ウソを本当のことのように言う人がいるかもしれない。 ウソをつくつもりはなくて、考えが変わったとか状況がかわったとか 本当のことが本当でなくなることがあるかもしれない。
でもウソをつかれて、わたしがウソに気付かないままだったら、 わたしはウソをつかれていると思わないだろうから ウソなのに本当、つまり真実だと思う。
時々、きいた話に疑問をもつ。 自分なりに考えてみて答えを探そうとする。 それでもわからない場合は、話したヒトにきくか、そのまま放置するか。 きいて答えが返ってくるとは限らない。 言葉を求めても、納得のいくまで言葉を交わせないこともある。 だから、放置だったりするわけだ。 これはいただけない。 すっきりしない。 とはいえ、探し続けるとそこには落とし穴が待っている。 真実かどうか、ウソか本当かがわからなくなるのだ。 わからなくなったら、どうでもよくなる。
そう、最後はどうでもよくなるんだ。 対人関係の場合、ここいらで取捨選択をするようだ。
真実を疑い、真実を探して、真実に戻れればいいけれど 真実を疑い、真実を探して、真実を見失うことにもなる。 だって最初から真実なのに、別のものを探そうというのだから。
逆に真実でないことを真実だと思った場合は丸くおさまるだろうが。
所詮 自分が思う真実ではないから、疑うことになる。 真実かどうかじゃなく、自分次第ということになる。
それでも真実はあると思っている。 でも、どれが真実かは、自分の中にある真実しかわからない。 自分以外の人の真実は、本当のところはわからない。
わからないから、 わたしは真実であるという方にウエイトをおいて話をきくことにしている。 話半分ではきかない。 丸ごと受け取ってみる。 あとは自分で判断する。 自分が感じる心にまかせる。 そうすることに決めているという感じ。
真実であってほしいからだろう。 いいことでも、そうでないことでも本当のことが知りたいと思うから。 だから真実であることからスタートする。
まぁ、こういう風にうだうだ考えなくてもいい方法もある。 「信じる」という言葉を使うことだ。
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