
おとなの隠れ家/日記
marko
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| 2004年04月03日(土) ■ |
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| 嘘 |
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一昨日はエプリルフールだったため やっちゃった方や引っかかった方がいるようだ。
わたしも例にもれず やっちゃった方なんだけれど。(笑)
エプリルフールの「嘘」は わたしの中では「いたずら心」のようなもので 通常に言う「嘘」とは別枠のものだという認識している。 自己弁護じゃーないよ。
今回は通常の「嘘」について書いてみる。
嘘は自分のためにつく以外には無いとわたしは思っている。 自分を守るため もしくは自分の損得勘定だろうと。
世の中には わたしから見れば つかなくてもいい嘘をつく人がいる。 内容は様々だけれど きっと事実を言うのが困るんだろう。
何が真実か どれが本当のことかなんて それは当事者しか知り得るものではないので ついた人でなければ嘘だとは最後まで わからないものだ。 ただ たまに(しょっちゅうの方もいるかもだけれど)バレてしまう嘘もある。
本来はバレないようにしなきゃ意味がないのだけれど。
嘘がバレる時は そのほとんどが 話のつじつまが合わないところから始まり 白か黒かという話になると グレーに持ち込まれる。
グレーの場合は 黒に限りなく近い。 黒に変わることはあっても白に変わることは ほどんどないと言っていい。 あとは嘘をついた人の腕次第でグレーのまま闇に葬ることもできるし 権力やお金で白のフリならできるかもしれないけれど。
ここで嘘をつく場合に頭に入れておいた方がいいと思われるのは 嘘を上手くつけたと思っていても 相手がその嘘を見抜き 嘘につきあうための嘘を仕掛けられていることもあるということ。
男と女の関係では(夫婦間も含む)このお互い嘘をつくということで 保たれている状況があるようだ。
本当か嘘かというもめ事の際 言葉によって嘘をつく側と 言葉によってその嘘を暴こうとする側は 平行線を辿ることになりやすい。
嘘をつかれていると仮定すれば 相手は 「嘘かもしれないけど本当かもしれない」という信じたい気持ちと 「嘘をついているのに隠している」という不信感を持つ気持ちが葛藤する。
嘘をついていないと仮定すれば 本人は 「嘘をついていないから疑われたままじゃ嫌だ」という気持ちと 「嘘なんてついてないけれど説明するのが面倒だ」という気持ちが混在する。
これに 「絶対嘘をつきとおしてやる」と「絶対嘘を暴いてやる」をミックスしてシェイクすると 丸く収まる道を見つけるのは 至難の業だろう。
だからおとなは事態を悪化させないようにするための嘘を「嘘も方便」といい ある程度 話していてもラチがあかない場合は「信じる」という言葉を使う。
わたしは おとなだから 明らかに嘘をつかれていると思っていても それが おおごとでない限り(自分にとってという意味ではなく) チクリと刺激はするが なるべく受け止めようとすることにしている。
その裏で深く傷付いているのも確かだけどね。 でも わたしだって一度も嘘をついていないとはいえないから 受け止めるしかないなと。
これは我慢じゃない。 思っているよ。「ああ わたしも みくびられたもんだな」って。
でも仕方ない。 嘘をつくのは その本人の意思でもあり希望でもあるんだろうから。
嘘が平気だというんじゃなくて あとは自分の心が答えを出すんだろうと。
嘘は言葉によって つかれる。 でも言葉を巧みに使ったとしても 感じる心まではコントロールできない。
「あー すっかり引っかかっちゃったよ」と くちにはしても 心の底で不信感ゼロパーセントなんて わたしには無い。
どこからどこまでが嘘で何が本当なのか わからないなら 全てを信じなければイヤな思いをしなくてもすむむのだろうと。
「嘘」について こんなことを考えてみた。
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