2006年06月05日(月)
ねぇ、甘いの?


 朝起きたら体中の筋肉という筋肉に乳酸菌がたまっているのをひしひしと感じました(いや乳酸菌じゃなくて乳酸=疲労物質だから!)(ヨーグルトかよ)。
 で、↑の正誤を調べていたら「身体の疲労は血行をよくすることによって血流で乳酸を流すことで解消される」みたいな記述を読みました。えーっとアルコールは効果的って事ですかね?(聞くな)



 しばらくマシンガンにネタバレ警報を出しておきます。



[コパコパメモ:だらだらっとざらざらっと]

・朝から「エルブラボー」の曲が頭の中でどいちゃんと一緒に回っていました(笑)。このショー、普通にタカラヅカでショーの一場面でやればいいのにと思いました。あすかたんの白いマーメイドな衣装がスゴクかわいい。大真くんがとなみのスカートひっぺがすのがもうちょっと鬼畜に手馴れてくれればいいなぁと思いました(笑)。
・で、今朝スカステで初日模様を見たのですが……うわー!そう言っていたのか!っていうのが半分ぐらいありました……そうか、3階席で観た私が悪かったのか(うなだれ)(でもあれはないよなぁ……)
・おかまみらんさんのレッツダンシング!(0番場面)はどうやら毎回アドリブのようですな。初日は「何やってんの!プロでしょ!」、二日目昼が「アンタ女なんだからもっと色気出しなさいよ!」で、二日目夜が「ちょっと!どこ観てんのよ!」って胸と股間を押さえてたように見えたんですが(笑)どういう設定なんだか(笑)。面白いの見かけたら教えてください(サイト管理人の特権)。
・トウコさんにコメントしずらくなっているのは「あの(涙目プリンス)トウコさんがどSの役」という所で思考回路が止まっているからじゃないかと気づきました(素)。いや、だってあれ半端じゃなく非道い役だよね(悪役ではない)。半端なく怖かったのですが、それを愛しているコンチータ、そのコンチータの手にかかるリコ、その胸に抱かれて息絶える、というのはひとつのドラマとして素敵でした。でもその後の割と能天気な展開にとんでしまうのですが(笑)。


 正直、コパよりバウかなぁと思って週末遠征のチケ配分を考え直しているんですが、でも思い返すとやっぱりコパも観たいなぁ。やっぱり楽しい、星組楽しーい。で、ここでバウは今週末で終わりだけれど、コパは来週までやっているよなっていうのには気づかなかったことにします。ついでに今週末がボーナスだってことも知らないことにします。



[帝国メモ:座付き作家とはこういうことさ]

 フェット・アンペリアルメモ。まずは大野先生を崇め奉ります。

 フェットの感想を一言で言えば「も、萌え死ぬ!」
 一幕終わった時点でほんと死ぬかと思いました。
 とはいえ「萌え」という言葉は的確ではないかもしれません、というか「萌え」すら越えているというか。しかしここでは表現しやすさと比較しやすさを考慮して敢えて「萌え」といわせていただきます。
 そんな感じに「萌え」満載のフェットアンペリアル。で、萌え満載の舞台ということでケーコたんの「そこがだいじなのぉ!」舞台を思い出したのですが、植田(景)作品に容赦なくちりばめられる萌えが、マントがはらりとか落ち葉がはらりとか朝チュンとか「おはようおねぼうさん」とか、そういう言わば少女マンガ的シチュエーションというテンプレート(定型)であるのに対して、大野作品はその生徒さんからあますところなく引き出された生物由来成分「萌え」とでも言えばいいでしょうか?
 さらに例えるならば、生徒さんのキャラクターにべたべたに当てるのが上手い谷作品、生徒さんのキャラクターを見抜いて自分のドリームを融合させるのが上手い荻田作品、けれども大野作品は本当に素直にいとも簡単に生徒さんのなかから「萌え」をするするっと引き出してくるんだなぁ……まいった。
 で、我々は宝塚歌劇団の生徒さんにいろんなキャラ立てをして(本当にいろんなキャラ立てをして)(笑)楽しんでいるんですが、それはやっぱり2次的なものでしかないというか、まがい物というか、やっぱり妄想で創作に過ぎないわけで。でも大野先生は1.5次というかいっそ1次に近い形でキャラ立てしてきた、いやそれもうキャラ立てじゃないのかもしれない。それじゃあ素のままの生徒さんを出しているかいうとそういう訳じゃなくて、それがちゃんと舞台の登場人物(架空)として成り立っている。
 全然伝わらないと思うのですが、とにかくそんな感じに生徒さんから引き出しているものが上手いというかもう卑怯なぐらいに引き込まれるというか……負けました(うなだれる某和装萌え管理人と某かけざんだいすき管理人)(争わなくていいから)。

 もうひとつ。今回も大野作品は例のパターンです。刺客キャラにヒロインが殺されて嘆き悲しむ主人公。物語の冒頭は回想シーンの導入であり、物語の最後はぐるっと冒頭に時間軸がもどる。二度目を観たときに、物語の冒頭に込められた伏線にぐわんとくる……でもパターンなのにどうしてマンネリじゃないんだろう、どうして「またか」って思わないんだろう、どうしてある意味「悲劇」であるはずなのに観終わった後はすがすがしいんだろう……この疑問に「睡れる月」の時に「大野作品のパターンはマンネリズムの繰り返しではなく、ひとのいのちのいとなみの繰り返しだから」という結論を出したのですが(自己引用)、今回はそれにもうひとつ、そういう「生物由来萌え」に裏づけされた物語だからだろうなぁと思ったのです。そしてある意味悲劇であるのにすがすがしいのは、大野先生が登場人物の想いをちゃんと救ってくれているからだろうなぁと思ったのです。誰一人、救われない人がいない。退任前のウィリアムの言う「決して見捨てはしないよ」、それはそのまんま大野先生の作風だと思ったのです。

 余談ながら、大野作品ではこれまで「刺客キャラ」は救われていなかったと思うんです(物語の中に人物として生きる前後のつながりが刺客イベントでぶった切られる)(平たく言うと進行上唐突に刺客になってしまう)(そこが唯一「ああー」と思うところ)。今回はそれが救われていた。私的にはそれもすごく大きいです。

 本当にいい作品でした。本当に『座付き作家とはこういうことさ(カッコいいとはこういうことさと同じ文脈で)。』





 というわけで、SS第一弾は「うちのおとうさんとおかあさん(byトーマス)」でお送りしたいと思います(予定は未定)(つうかやっぱり金平糖製造はしていたのか!)


BACK  INDEX   NEXT