| 2022年06月02日(木) |
重い腰をあげて、ようやっと手紙のひとつに返事を書き始めた。加害者プログラムのひとつ宛。書きながら、強さって何だろうな、と改めて考えていた。
私自身よく、強いひと、と言われてきたし今も言われる。でも、言われるたび、何か違うよな、何処か違うよな、という気持ちがあった。 私は確かに、一見強そうに見える。それは自分でも思う。そう振る舞っているから、見えるのは当然だろう。 でも、本当に強いひとというのは、弱さや己の醜さを曝け出せるひとなんじゃないか、と。私にはそう思えるのだ。 私はまだまだ、自分の弱さも醜さも、曝け出せるところまでなんていっていない。むしろ、曝け出せないから、大丈夫そうに振る舞っているだけの話だ。そんなもの、本当の意味で強いなんて言わない。
たとえば性暴力被害に遭った時。私はすぐにSOSを出すことができなかった。自分に起きたことが何なのかをまず自覚できなかった、受け容れられなかった、というのももちろんある。でも、それ以上に、このことを誰になら打ち明けられるのか、が、分からなかった。 こんなこと、という意識がまずあったし、私にそれが起きてしまったという現実を私自身が受け容れられずにいた。誰か助けて!と思いながら、一体誰にこんなことでSOSを出せるというのだろう、という思いもあったのだ。 もしあの時、もっとスムーズに、もっと早く、自らSOSを出すことができていたら、私はこれほど傷を長引かせずに済んだかもしれない。これほど傷を膿まさずに済んだかもしれない。 問題解決能力、というのはそもそも、自分一人で抱え込んで越えられる力、ではなく、「周囲を巻き込んで周囲の手をいかようにも借りながら」物事を解決してゆくことの力なのではないのか。
それから。「ヒトをヒトとして扱う」ということについて。彼らの多くは、他人を受け容れること、を目標のように掲げていた。 でも何か違う、何処か違う。そんな気がして、考え続けている。 じゃあ何が違うのか。 ヒトをヒトとして扱うとは。つまり、自分とヒトとの違いに気づき、その「違い」こそを受け容れることなのではないか、と。ただ「他人を受け容れる」のでは、自分を大切にはできない。自分も他人も等しく大事なのだ。自分を犠牲にしてまで他人を受け容れる必要などどこにもない。 あなたはこうだね、私はこうだよ。あなたと私は違うけれど、でもあなたと私、どちらもOK。そういうふうであれたら、きっと、ずっとずっとずっと、誰もが生き易くなるんじゃないか、と。 |
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