| 2022年06月01日(水) |
今日はH君との撮影だったのだが。私は神奈川の鎌倉に向かい、彼は千葉の鎌倉に向かい、結果巡り会えず、撮影は改めて別日にということになった。千葉に鎌倉があるなど初めて知った。地図で確かめると確かにある、が、何もなさそうな、バス停だった。「高校生のようなミスしてすみません」としきりに恐縮するH君に、いやいやと笑った。そんな、拍子抜けから始まった今日。とてもいい天気で、すこんと抜けるような青空。雲はまだ夏という感じではないのだが、でも、暑さはもうすでに夏な気がする。じんわり汗ばむ陽気。 鎌倉の駅に降り立って、思い出した。鎌倉は、加害者が一時期住んでいた場所だった。加害者に仕事の引継ぎを強いられていた頃、加害者に引っ張られるように連れて来られていた場所だった。ホームに立って、いきなりフラッシュバックする。もう町並みはずいぶん変わったはずなのに、当時在った店など残っているかどうかなんて分からないのに、まるで当時に戻ったが如く、何もかもが当時のままのように思えて、頭がぐわんぐわんした。これはまずいと思い深呼吸しようと思うのに息が吸えず、気づけば過呼吸気味になっており。何とかホーム中央のベンチに辿り着き、座ってみる。さっきまであった空の青色がすっかりくすんで見える。いや、光が眩しいのだが、眩しいことは眩しいのだが、ありとあらゆる色がくすんでしまって、何処か別世界のように見える。 たてつづけに、父の声が蘇る。父が激しく私をなじる。同意の上だったのではないのか、被害なんかじゃなかったんじゃないのか、こんな恥じなことがあるか、等々。次から次に父の、そしてその父の声にかぶさるように大勢の当時周りにいたひとたちの声が重なってくる。セカンドレイプの渦。 呼吸がしづらくてしづらくて、喉がひゅうひゅう鳴り始める。頭では分かっている。これは現実ではない、今ではない。なのに私は過去に引きずり込まれてゆく。どうにもこうにも世界があの、あの頃に、重なってゆこうとしている。
一人目の友は、夜勤明けでとてもじゃないが話せる状態じゃなく。だから私もSOSを出し損ねてしまう。二人目の友にはもう、SOSを出す気持ちが消えてしまって、ただ、「今何してるー?」とだけ聞いてしまう。三人目の友にようやく「撮影が延期になって」というようなことを話し出すことができたものの、それが精一杯。まさか今、自分が、昔の、被害に関連する場所に立っているなんて、説明できずに終わる。
私は。この街が好きだった。大好きだった。小さい頃七五三で訪れたのもこの街の八幡宮だった。その頃生きていた祖母が、母よりも目立つ色の着物を着て私と連れ立って歩いてくれた。まだ実家で暮らしていた頃、家からここまで自転車で延々と走って来たりもした。江ノ電に乗ってここから江の島までよく行きもした。ちょっと閉鎖的な、でも明るい街並みが、私は好きだった。 被害に遭ってからというもの、私はこの街を訪れたことがあったんだろうか。記憶がない。ああ、確か、娘の七五三の折、父母と娘と、そして撮影役として私も来たはずだ。だが、まるっきり記憶が抜けている。どうやってその時私はこの街に降り立ったのだろう。分からない。
私は。この街をまた、好きになれるんだろうか。この街と仲良くなれるんだろうか。とてもじゃないが今、恐ろしくて、そんなこと考える余裕はない。けれど。 どうしてあんなに好きだった街が今恐怖の対象になってしまっているのか、それが納得いかなくて、苦しい。私のせい? 私のせいなのか? 被害も何も、私のせいなのか? 引継ぎを強いられたのも、それを受けたのは私で、だから私のせいなのか? 怒涛のように押し寄せる自責の念。違う、違う、違う、と、いくら言おうとしてみても、口の中や喉が渇いて貼りついて、声も何も出ない。
気づいたら。ホームに電車が滑り込んで来ていた。這いずるようにしてとにかく乗った。あとは覚えていない。気づいたら、横浜に居た。そして次気づいた時には、家に居た。 もう、SOSを出す気持ちにはなれなかったけれど。誰かの声が聴きたい顔が見たいと思った。そうだ、と思い立ってTに電話をした。ちょうど病院が終わったところだと言う。時間ある?と訊くといいよーとのんびり返事が返って来た。いつもの喫茶店で待ち合わせる。じゃあまた後で。
ふと思いついて、「流浪の月」サントラの、15曲目、「Strata地層」をかけてみる。最初うまく耳が音を辿れなかったけれど、気づくと、じんわりじんわり、沁みて来るのが分かった。じんわりじんわり。音が、私に沁みて来た。ちょっと泣きそうになってしまった。涙は、出なかったけれど。 もう二十年以上、三十年近く前の出来事なのに。遥か彼方昔の、出来事なのに。 津波だ。大津波だ。一度フラッシュバックが起こると、もう怒涛のように、ありとあらゆる感覚が根こそぎ薙ぎ倒される。奪われる。津波が引くには、時間がかかるし、引いた後は、破壊されたものたちの残骸があらゆる場所に散乱しているのだ。 被害は一瞬の出来事。そのほんの一瞬の出来事が、人生そのものを変貌させる。それが、性暴力被害。性暴力被害者になる、ということ。 |
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