ささやかな日々

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2022年05月26日(木) 
一か月近く前から約束していた。今日は遠方からYさんが来てくれる日。

早朝の空は久しぶりに霞んだ空で。そのぼんやり霞んだ東空に静かに燃えるような太陽がひょこっと現れる。とろんとした橙色の黄身のような姿で。私は心の中、おはよう、と声をかける。
挿し木した紫陽花は今のところ順調のようで。でも実はこれとは違う、この間息子とワンコと散歩中に見かけたあの変わった紫陽花の枝が欲しくて欲しくて、仕方がなくなっている今。息子とも「なんかこれ違うね、お星さまが咲いているみたいだもんね、かわいいね」と立ち止まって見つめた。どんな名前を持った種類なのか、どうやったら調べられるのか分からなくてだから名前も何も知らないのだけれど。今度お宅をノックしてみようか。一枝くださいと言ってみようか。そのくらい、今、欲しい。

早めに家を出ようと思っていたその時、Yさんから連絡が入る。時計が15分狂っていて、そのせいで乗るつもりだった電車に間に合いそうにない、と。もちろんそんなことはちっとも構わないのだが、そのせいで慌ててヘルプマークも何も忘れて出てきてしまったと、そのことが私は気にかかる。私と違って繊細なひとだから、たとえば電車に乗っても自分が具合悪くても誰かを見つけて席を譲りかねないひとだから。大丈夫かしらんと気が気じゃない。
Yさんは。難病を患っている。私には計り知れないほどの痛みやだるさと闘ってきたひとだ。ついこの間も検査を受けたばかりだったはず。

彼女とよく話す。私達、十分、もう十分生きたよね、と。よくここまで生き延びて来たよね、と、笑い合う。私のことはさておき、彼女は本当に、そうなのだ。一体何度の手術を超えてきたか知れない。身体のあちこちに手術の痕があるという。想像するともう、それだけで私は身体が痛くなる。
いつだったか、身体の傷を撮ってほしいと言われたことがあった。撮ることは、できないわけじゃなかった。でも。撮ることはできても、発表はできないな、と、私はそう思ったから、実際は撮らないまま今に至る。何だろう、うまく言えないけれども、彼女の生き様は、その傷だけでは語り切れないという思いが私の中にあって。傷を撮るくらいなら彼女のポートレートを撮る方がいい気がしていて。そんなこんなで撮らないまま今日に至る。
たとえば傷を、あからさまに撮ることは不可能じゃない。いやむしろ、可能だ。でも。それで本当にいいんだろうか、と。そう思ってしまうのだ、私が。
夫の自死やその死後残された借金の返済や、そして彼女自身の病気や。そういった一切合切を思うと、とても手術の傷痕だけに還元されるものじゃない、と、そう思えてしまう。
昔々、彼女がその、夫の自死について記していたテキストを読んだことがある。よく、残された家族特に妻は、悲しむべき、いとおしむべき、というような周りの勝手な思い込みがあったり、実際その遺族たちは自分を責め苛む。そうあるべき、というような空気も実際ある。
そんな中、彼女が、そう思えない自分を綴っていた。私はその潔さにまず、感服したし、その、そうなれない自分と対峙し苦しむ彼女を、そのテキストを通して知っている。私は、それでいいと思えた。
夫の自死に対し悲しむことができない自分、空洞を抱えた自分、そういう自分を冷徹に見通す自分、そういったものがまっすぐに綴られた彼女のテキストは、十分に私に届いた。
と、そんな昔々のことよりも。要するに、今ここまで、生き延びて在る彼女を私は、尊敬しているのだ。よくここまで子供を育てながら夫の残した借金を返済しながら、自分の病と闘いながらそれでも、生き延びて来た彼女。

あっという間に時間は過ぎ、彼女の帰る時間になってしまう。時が経つのはこういう時なんてあっという間なんだろう。
帰りのバスに乗った彼女をガラス窓越しに見送る。今度またいつ会えるか分からない。彼女の病気が急変すれば会うことなんて叶わないかもしれない。いつだって死は隣り合わせに在る。
だからこそ、信じたい。再会を。それでも会える、と。会うのだ、と。

いつの間にか雨が降り出した真夜中。私はせっせとテニスボールで身体痛の身体をケアしている。この白湯を飲み終えたら、彼女がお土産にくれたはとむぎ茶を淹れよう。ほくほくしながら飲もう。

会えて、よかった。


浅岡忍 HOMEMAIL

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