ささやかな日々

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2022年05月25日(水) 
眠ろう、今夜こそ早く横になろう、と思う程、身体が寝床に辿り着けない。横になることを拒絶してしまう。股関節が酷く痛むから、テニスボールやいぼいぼボールで一生懸命ケアしているのだけれど、痛みが消える気配はなく。効き目足りないなぁと思いはするのだが、それを止めてしまうととたんに痛みが倍増するので、やめるわけにもいかず。延々そうやって、どのくらい時間が経っているんだろう。

答えがすぐ出る事柄と、そうではない事柄がある。どんなに答えを欲しても得られないこともある。どんな答えが出ても納得がいかないこともある。そういう時はもう、心の保留棚スペースにぽいっと棚上げすることに決めている。いくら悩み苦しんでも、どうしようもないこと、って、ある。
辛うじて答えを出されてもその答えに納得がいかない。それが分かってしまっているならなおさら、いくら追求しても自分を追いつめても、何もいいことはない。自分がすり減るばかりで得るものも何もない。そういう時こそ、手放す作業が必要になったりする。保留棚行き或いは手放す作業。大事なこと。
それに、執着するほどに自分がすり減ってしまう、そういう事柄ってどうしようもなくあったりする。悩むだけ悩んで泣くだけ泣いてできることはやった、なら、あとはもう、手放す。今ここで手放す。深呼吸して、明日に続く今を丁寧に生きる。その繰り返し。丁寧に生きた今の連なりが、明日の私を間違いなく形作る。私は、そう思っている。

生きていることは、それだけで疲れる。ここに存在していることが、エネルギーを要することだから。昔は、そういうことが分からなくて、なんでこんなに生き辛いのだろう、なんでこんなにしんどいのだろう、とひたすらそのことにかまけてた。
でもなんだろう、生きているそのこと自体が大変なんだと思えるようになって、だいぶ楽になった。生き辛さも半減した気がする。
ああ、私だけじゃないんだ、と気づくことができてようやっと、自分を嫌うばかりの自分にストップがかかった。好きになれないのは仕方ないとしてもせめて、嫌わなくてもいいじゃないか、と、そう思えるようになった。自分にとって自分というものが一番、ややこしかったりするものなんだ、と、それは別に私にとってだけじゃなく、結構多くのひとがそこで躓いてたりするということも知って、ああ、別に、特別でも何でもないのだな、生き辛くても別に、いいのだな、と思えるようになった。

ひとと関わるのがそんなうまくないから。むしろ下手だから、転ぶことも怪我することも多くある。でも、ひとと関わってなんぼ、とも思うのだ。人間という字は、ヒトのアイダ、と書く。ひとのあいだにいてこそ人間たりえるのだ、と、そう思うのだ。

あんな経験もこんな経験もしたのに、よく人間嫌いにならないね、と言われたことも多々ある。なんでだろう? 私にも分からない。自分のことを嫌いになることはたやすいのに、誰かを嫌うのは難しい。ひととひととを結ぶ縁を、緒を、たとえ向こうから切られても、私からは切りたくない、と、いつも思う。それもまた、何故だろう。
人間は、命あるものの中で最も残酷になり得てしまう存在。どこまでも狡賢く、残酷な、そいうう存在。一方で、誰より何よりも、やさしくもなれる、そういう存在。両面をいつだって、持っている。いつだって天秤にかかってる。どちらを選ぶかはそのひと次第。
どちらだってあり得る。

それにしても、昼間は容赦のない陽射しが降り注いでいたけれど、夜気はまだまだ涼しい。ワンコが気持ちよさそうに腹を出して寝ている。こんなにも無防備に眠れるものなのだな、と、ワンコや息子を見ているといつも思う。
ちょっと、羨ましい。


浅岡忍 HOMEMAIL

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