| 2022年05月19日(木) |
身体痛が酷すぎて閉口している。この痛み、もう何度襲われているか知れないから或る意味慣れた、とはいえ、それでもその度痛いことに変わりはない。こんな夜は薬も効かないからなおさら、苛々もする。悪循環。 家人からお風呂にお湯入れたばかりだから入ったら?と言われていたのを思い出し、熱めに追い炊きして入ってみる。入っている間は何とか緩和された痛みも、湯船から出てしまえば再び襲って来るという始末。一体何をそんなに私に訴えたいんだこの痛みは、としまいには頭を抱えるほかない。いや、実際には頭じゃなく心を抱えるという具合なのだけれど。
朝、まだ日が昇る前、植木に水を遣る。ひとりひとりに挨拶しながら、たっぷりめに水を遣る。ただそれだけなのだけれど、彼らと会話しながら、私は小さなエネルギーを彼らから与えてもらう。大げさに聞こえるかもしれないが、彼らと会話していると、私もここにいていいんだよな、という気持ちにいつもさせられる。ひとつの安心の灯がぽっと、心に点る。 息子は最近、漢字練習を熱心に為している。せっせとやっていたおかげなのか、クラスで一番進んでいるらしく、それが励みになってなおさら一生懸命やる、という具合に。漢字ひとつに対して四種類の、その漢字を使った言葉を書かなければならないというおまけつきなので言葉をよく訊ねられるのだが、昨日の「栃」という字や「岐」「阜」という字に対しての言葉がほぼ思いつかない自分に気づいた。あれま、と漢和辞典を探したのだが何故かあらゆる辞書があるにも関わらず漢和辞典だけが抜け落ちている我が家。慌てて家人に漢和辞典を買ってほしいと頼んだら、「スマホにアプリを入れればいい」と返される。アプリ?ときょとんとしていると、漢和辞典のアプリがあるんだと。結局その場はそれで済まされてしまったのだけれど。 辞典というのは。その文字だけを調べるわけじゃなく。紙ゆえに横のつながりがあったりして、アプリでは味わえない面白さがあるはずなのだ。こんな字もあるんだ、こんな言葉もあるんだ、そういう発見が、紙の辞書にはある。スマホのアプリでは、目的の文字に対しての答えは返してくれるだろうけれども、そこからの拡がりはあるんだろうか? 私にはちっともアプリの良さが分からない。改めて家人に訴えてみよう。日を改めて。
娘が母の日のプレゼント買ってあげるということでふたりでウィンドウショッピングなるものに出掛けてみたのだけれども。ふたりともこういうものが大の苦手だということを改めて思い知る羽目に。「ねぇ、私たち女子度低すぎじゃない?」「ママ、もう低くていい」「女捨てないでよ、まだだよ」なんてやりとりを延々しながら、一生懸命ふたりして店を廻ってみる。試着もしてみた。でももう疲れ果てて最後はいい加減になっていた。苦笑し合いながら、もうこれでいいよね?!と。 でも。娘のそういう気持ちがありがくて、こそばゆかった。五、六年前、荒れに荒れていたあの頃の娘の横顔を思い出す。今の娘に重ねようと思ってもあまりにその表情が違い過ぎていて重ならない。彼女の十代から二十代へのこの道程は、それほど険しかったのだな、と、改めて思う。
薬を倍量飲めば痛みが止むのであれば、倍量だろうと何だろうと飲んでしまいたい気持ちにかられるのだけれども。こういう夜は倍量飲んだからって倍の効き目があるわけでもなく。痛いなぁ痛いなあと思いながら、テニスボールやいぼいぼの硬いボールで身体のあちこちをごりごり押すばかり。窓の外、静かに夜が深くなっていく。でもあと数時間すれば朝が来る。明日は通院日。そうだ、きっと新しい朝には何かいいことがあるに違いない。朝よ、来い。 |
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