| 2022年05月18日(水) |
うっすらした雲が拡がってはいるけれど、雲を透かして朝陽が届く。久しぶりだ。朝陽を浴びるとそれだけで元気になれる。目には見えないけれどエネルギーが陽光と共に注入される、そんな感じ。太陽ってすごい。 ブルーデイジーがぽっと灯っている。その隣でビオラが微風に揺れている。クリサンセマムはそろそろ終わりにさしかかってはいるけれど、それでもまだ、天を向いて揺れている。お日様の花だな、と思う。 洗濯機を2回廻し、布団も干す。風も強すぎず弱すぎず、ちょうどいい。ああ、いい天気だ。
いろいろあった昨夜、家人がふとした場面で「これは差別だ」と言った。その言葉を耳にした時、私ははっとした。そうだ、これは差別だと主張するには、差別がどんなものだかを自覚していることが必要なんだな、と。今更だけれどはっとした。差別されている状態が当たり前と思えてしまっていれば、それが差別だ虐待だなんて主張することさえできないままなんだ。ああ、そうか、そういうことだったんだ、と妙な納得。 虐待されていることも差別されていることも、自分がこんな人間だからそうなるんだ、と思えてしまっているうちは、差別だ虐待だと声を上げることさえできない。でもそもそも、差別や虐待といったことを自覚するにはある程度の知識や判断力がその当事者に必要になってくる。或る程度の教育、とでも言おうか。そういったものが不足していれば、いつまで経っても気づけない。教育は大事だと常々耳にしてきた言葉だったけれど、ここに繋がることに今の今まで私は気づいていなかった。自覚するって大変なことなんだな、と、改めて思った。 顧みれば。自分のせいだとか、自分にはこれが当たり前なんだとか。そういう時間が長く長くあったから、これが性虐待だこれがDVだ、なんて、思い煩う隙間もなかったから、もうそれが当たり前だと思っていた。それが自分にとっての当たり前なのだ、と。違うかもしれないと疑うことさえしなかった。周りからこれは差別だよとか虐待だよと言われても、そうかもしれないけど私にはしょうがないんだ、と、勝手に納得していた。でも。 違うんだな。そもそも私には知識が圧倒的に足りていないのだな、と。無知は罪、とよく聞く言葉のひとつだけれど、私自身、無知は罪だとさらり言ってのけたこともあったはずなのに。その私自身がちっとも分かっていなかったというこの体たらく。何やってんだ自分。 まだ、私はこのことを頭でしか分かっていない。この感覚を己の血肉に落し込んで、「学ぶ」ことをもう一度始めたい。そう強く思う。
学ぶ。私の解離性健忘は私が学ぶことを奪うんだろうか。学ぶ、と考えた時そのことがいっとう先に浮かんだ。次から次に遥か彼方に記憶を放ってしまう私は、果たして学べるんだろうか、と。 分からない。もうちょっと言えば、やってみなけりゃ分からない。 忘れたら忘れたでいいじゃないか、と、いつもの豪快な笑い声とともに笑い飛ばすことができるくらい腹を括って開き直れたらいいのにな、と思う。さすがにそこまでまだ、腹を括れていない。 もともと、子どもの頃から学ぶことが好きだった。知らない、と言えない性格だったし周りも私が知らないことを許さない雰囲気があって、だから私はいつだって、必死にがっついた。 でも。たとえばそれが小中学生だったとして。それから数十年後の今、私は当時勉強したことをきちんと記憶しているだろうか。自分の引き出しにちゃんとしまっておけているだろうか。 否。それでも。 学びたいなと自分が思うのであれば、やるしか他にない。忘れてしまうなら忘れてしまうで、しょうがないじゃないか。それを怖がって学ぼうとしないというのはもっと、自己嫌悪になりそうだ。だったら。 やるしか、ない。 |
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