| 2022年05月21日(土) |
曇天。いつ泣き出してもおかしくないような曇天。見上げていると雲ごと空が堕ちて来そうな錯覚を覚える。 公園の紫陽花の枝をちょこっと頂いて挿した子ら、もうどのくらい日が経つのだろう、今のところ無事生き延びている。その隣でクリサンセマムはそろそろ終わりといった風情。その向こうの朝顔たちは、蔓を伸ばし始めた子もいたりして。みんな、生きてるんだなぁ、と、当たり前なのかもしれないけれどもそれでも、命の鼓動をこうして感じる時、私は静かに感動する。当たり前は当たり前なんかじゃない。 昨日の病院のことで覚えているのは。自覚的になること、くらい。たとえば自分が罪悪感を感じてしまう、その場面で自分が今罪悪感を覚えたということを気づくこと。その練習をしよう、と言われたような覚えが。うろ覚えなのだけれど。いやそもそももしかしたらまったく別のことを言われたのかもしれないのだけれど。 そもそも身体痛が酷くて、じっと座っていることもままならなかった記憶が。―――忘れてしまうって、ほんと、心もとないというか、何と言うか。ついさっきまで歩いていたはずの地べたがふわり、失われるような感覚というか。忘れてしまうことによって私は何を得ているんだろう。忘れるという喪失によって、私は何を代わりに得ているんだろう。誰か、教えてほしい。
朝早く、電話が鳴る。びっくりして出るとS先生で。今日の加害者プログラムは中止との連絡。もう出かける支度をしていたから間に合ってよかった。 でも、別件の約束があって、結局都内に出る。Jさんと会う。Jさんと話していてつくづく、恩義とか義理とか、そういうものを果たすことも大切だけれど、自分が一番輝ける場所を見失っちゃいけない、とそう思った。Jさんは自分が出所した数か月後に偶然自分を見つけてくれたY先生への恩義を、と、そう言っていたけれど、いやそれは分かるのだけれど、でも、程度っていうものがある気がする。恩に報いることは或る意味大事なことなのかもしれないけれど。それによって今ここの自分が犠牲になっているのでは、意味がないのではないだろうか。 Jさん、人生もう折り返し地点過ぎてるんだよ。自分が納得できることしないと。と、私が言うと、苦笑いしながら、でもなあ、と。 とにかく今ここでできること、やりましょうよ、と声をかける。
Jさんと別れて電車に乗ると、少し意識が遠のくのを感じた。他人事のように過ぎる目の前の事柄、目の前の人々。何度も掌をつねって自分の身体の感覚をとらえようとしてみるのだが、ちっともとらえられず。少し焦りながら、同時に、焦っても仕方がないことも分かっていて、私は遠のく自分をぼんやり眺めていた。 最寄り駅ではっと我に返り慌てて降りる。間に合ってよかった。胸を撫で下ろしながら階段を下りる。階段を下りる時いつも思い出す。息子の声。かあちゃんまた階段落ちするの? 笑いながら彼はいつもそう言う。だから、心の中一生懸命繰り返す。もうしないよ、したくないよ。だから頑張るよ、と。
帰宅後、ワンコの首元に顔を埋めてみる。ワンコがじっとしていてくれるのをいいことに、何度もはふはふ埋めてみる。彼の心臓音が伝わって来る。私の鼓膜を震わす。その震えに、ほっとする。 一日何やってたんだろうなぁと思い出そうとしても、僅かなことしか思い出せない自分に少し腹立たしさを覚えながらも、もうそれが私なのだなとも思う。受け容れてつきあっていくほかにないのだから。 |
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