| 2022年04月26日(火) |
ブルーデイジーが咲いている。いつの間にか三つも。ラベンダーも今が花盛りといったところか。天気は小雨。風が強くて雨が斜めっている。舞い上がる雨粒が私の服にくっついてくる。アメリカンブルーは禿ちょびんになったけれど、今のところ静かに佇んでいる。ミモザたちはまだまだ細っこい。一年に50センチ近く伸びると記されていたけれど、今のところそんな気配は漂ってこない。のんびり屋なのかもしれない。
天気のせいか身体痛が酷い。テニスボールでのケアが欠かせない日。朝からせっせと脚と臀部を押しているのだが、ちっとも楽にならない。粘りつくような痛みたち。薬を飲もうかどうしようか迷ったけれど、今日のような天気では身体痛も当然といったところ、故に鎮痛剤は控えておく。
DVにしても性暴力にしても。被害者の裡には加害者意識が、加害者の裡には被害者意識が、それぞれ巣食う。起こった出来事すべての原因を、自分のせいと自分を責めてしまうひとがいると思えば、どこまでも相手のせいだと訴え罵るひとがいる。どちらもみな、同じ「人間」。 そんな被害者と加害者との間で中立的立場とは一体何なのか。そもそも中立は成り立つのか。よく、中立的立場から見て云々などと口上を述べるひとがいるけれども、そもそもそれが成り立つのかという問。私は成り立たないと思っている。被害者と加害者にはたいてい、差異がある。偏りとは何かと言えば、社会的な、あるいは経済的な、あるいは肉体的な、あらゆるところに差異があって、そういったものも加味した上で、公平な中立的立場はあり得るのか、と考えてみれば、そんなものまずあり得ない。単純にたとえば、男と女の間に公平はあり得るのかと言えば、あり得ないのと同じ、だと思う。 と、ここまで書いてみたが、まだ私の中で明確に言語化できるほどに至っていないことに気づく。もうちょっとこの問題は掘り下げないと、言葉にきちんと還元できそうに、ない。考え続けねば。
顔を洗っていたら息子が繰り返し何か訴えている。耳を澄ましてみる。「父ちゃんはどうしてそんなにひとつのことに拘るの? 何怒ってんの?!」。彼が繰り返し言っている。が、家人は無視しているのか声が聞こえてこない。やがて「もういいよ、父ちゃんはそうやって僕の言うこと無視するんだね!」と息子。私は洗面所から耳をダンボにして様子を窺っている。「いつもひとの言うこと無視するなって言ってるのに、父ちゃんだって無視してるじゃん!」。 しばらく間を置いて私がリビングに行くと、家人は息子を無視して寝床に行ってしまった後で、息子は私を見つけると駆け寄ってきた。小声で「父ちゃん何でひとのこと無視すんだろうね、いつも自分が「無視するのはよくない」って言ってるくせにさ!何なの!」と。あまりに御尤も過ぎて、返答に困る。「父ちゃんしつこいんだよ、ひとつのことずっと怒っててさ。なんかもうヤダ!」。私はうんうんと流しながら頷く。 それにしても。息子も言うようになったものだ。この一年急激に彼は変化した。言葉もある意味乱暴になってきた、男子らしい乱暴さ。そして、家人に言い返すところ。以前は言い返すなんて考えられなかった。 言い返す、で思い出す。場面緘黙症をもっていた娘は、家人ががなり立てると凍り付き状態になり、何一つ言葉を発しなかった。でも当時場面緘黙について何の知識も持っていなかった家人は余計に荒ぶり、沈黙し固まる娘を怒鳴りつけるばかりだった。 「言い返せるだけマシだと思うよ、私は」。娘に息子の状態を話した時、彼女からその言葉を聞いた。なるほど、と頷いた。確かにそうだ。言い返せるというのは健全な証拠とも。 家人の娘に対しての態度も息子に対する態度も、どうしてか私にはそれらすべて「子どもっぽく」見える。同じレベルでわめいてる気がする。 気に喰わないことが発生すると席を立つのも、いい加減やめてほしい。いずれそれを息子は真似するに違いない。せっかくポリヴェーガル理論で凍り付きについての本も家人は私より先に読んだというのに、家人はそれら知識を知識のまま台無しにしている気がしてならない。せっかく得た知識ならば、自分自身の血肉とし、知識を智慧にまで育む必要があると私は思う。自戒を込めて。
外の雨は一時的にかもしれないが、やんだ。しかし明日も雨模様だと言う。今年の春はやけに雨や曇りが多くて、もうそれだけでエネルギーを奪い取られ吸いつくされてる気がする。 とりあえず。今夜はテルテル坊主を作ろう。明日の雨が少しでも早く上がりますように、という願をかけて。髭付きで黒髪、顔は、適当。
必要なのは。気づくこと、かもしれない。 |
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