ささやかな日々

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2022年04月27日(水) 
昨日の強すぎる雨風は、ベランダを直撃した。こんもり茂っていた宿根菫は見事に薙ぎ倒された。薔薇の枝も数本折れた。ぐったり倒れたまま起き上がってこない枝葉も多くある。クリサンセマムは何とか無事だけれど、ラベンダーの首はぐったり垂れてしまった。参った。確かに昨夜の風はとてつもなかった。角部屋で崖っぷちに建つ部屋ゆえ、ベランダを吹き抜ける風の音がいつまでもいつまでもびゅるびゅるると続いていた。雨に打たれるだけでなくそんな音のする風に嬲られればひとたまりもない。たとえば薔薇の枝が折れるだけでなく、そもそもその身に纏う棘が自らの葉を容赦なく傷つける。こんなに全身ぼろぼろになった薔薇たちを久しぶりに見た。悲しい。

久しぶりに友人らと会って話す。私の古い友人と、そして私たちとは十以上離れた若い友人二人と。四人の共通項はただ、性暴力被害者ということ。さまざまな言葉が飛び交う。きっと周りから見たらその言葉は、ぎょっとするような言葉たちに違いない。たとえば被害だとか加害者だとか解離だとかリストカットだとか。性暴力の被害になど遭わないでいたら、用いることもなかった言葉たち。それを私たちは次々に交わす。何故なら私たちにとってはそれは、日常だからだ。私達の日常にふつうにあるものたちだから、だ。
時々、この差異に私は、ぼおっとする。周囲と私たちの温度差とでも言おうか。その差異をありありと感じ、ぼおっとする。ああ、こんなにも、当事者とそうでない者との間に隔たりがあるのだな、とそのことを痛感させられる。
こんな被害当事者の現状を、加害者たちは知らないのだな、とそのことに気づき、私は考え込む。知らないというのは罪だなと思う。昔は、知らないで過ごせるならそれに越したことはないとだけ思っていた。でも。知らないから何も感じない考えないで済む、というのは、これは違うと思う。知らない、体験したことがない、だから何も考えないし感じない、というのは、やはり違う、と。
体験したことがないからこそ―――体験しないで済むならそれこそ、それに越したことはないのだ―――想像を巡らせる努力をすべきだ。考え、感じようとする努力。ひとがひとであるというのはそういうことなんじゃなかろうか。ひとに与えられた才はこの、想像力なのだから。
人間一人がその生涯のうちに体験できる分量なんて、たかが知れている。そんな、限界のある体験を軸に、ひとは自分を編む。育む。それはおのずから、限界のある、小さな代物となる。それを大きく羽ばたかせるのが、想像力だ。想像力は、私とあなたの差異に、橋を架ける可能性を、その力を、持っている。
知らないことも、体験していないことも、想像することで、あたかも体験したかのような深度で味わうことができる。いや、それをしてこそ、人間が人間足り得るのだと、私は思う。

それにしても。今夜は静かだ。昨日の嵐が嘘のようだ。しん、と静まり返った闇。家人と息子は布団もかけず大の字になって鼾をかいている。ワンコはワンコで、時々ぶふっと鼻を鳴らしながら眠っている。ワンコと暮らすようになって知った、犬も寝言を言うのだな、と。今夜彼らは、どんな夢を見ているのだろう。
少しでも彼らにやさしい、あたたかな夢でありますように。


浅岡忍 HOMEMAIL

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