| 2022年04月24日(日) |
アメリカンブルー。思い切って病葉をすべて切り詰めてみた。こんもり山になっていた姿は禿山の如くになった。でも。切り詰めて知った。根元のところにはきれいなきれいな葉がわさわさと生えてきていること。まだ病気にもなっていない、まっさらな葉。土にもカビが落ちているだろうから、土の表面を削ることも忘れずに。もしかしたらこれでも足りないかもしれないけれど、しないよりはいいはず。 そんなことをしているうちに雨の午後はあっという間に過ぎた。家人がワンコをシャンプーしている。私は、切り落とした子たちをすべてかき集めてゴミ袋に入れ、先を結ぶ。心の中で、いままでありがとうね、と、ゴミ袋の中の子たちに声を掛ける。母は「アメリカンブルーは安価なのだから、新しい株を買ったらどう?」と言っていた。でも私は、今日まで一緒に過ごしたこの子たちがいいのだ。新しい株よりも。
新じゃがが手に入ったので、ポテトサラダを作る。うちのポテトサラダは白だしを使う。じゃが2個に対しマヨネーズ大匙2、酢大匙1、白だし大匙1、砂糖ひとつまみ。そんな具合。きゅうりと、玉葱・ハムはそれぞれ下拵えしておく。 新じゃがってどうしてこんなに皮が薄いんだろう。熱々のじゃがに傷をつけ、そこから川を剥く。薄いからあっという間に剥ける。それをフォークで潰して、きゅうり、玉葱・ハム、ゆで卵、各種調味料も最後に混ぜる。仕上げに胡椒を軽く振ってできあがり。 今日は油断して下拵えをいい加減にしたら、ちょっと水っぽくなってしまった。「でも味はいつも通り美味しいよ、大丈夫」と家人はおかわりしてくれるので、まぁよかったということにしよう。明日の家人の弁当分だけ別に分けておく。
私はたぶん、清く正しい「被害者」ではない。被害者なのにこんなこと思うのか?と思うようなことも平気で考えたりする。世間が求める「被害者像」とは、たぶん、かけ離れている。たとえば私はよく笑う。よく笑って、よく忘れる。解離性健忘や現実感消失はもはや私の日常。 清く正しい「被害者」。清く正しい「セックス」。清く正しい―――。この、清く正しいって何なんだろうな、と思う。きっと、他者が見ても何の落ち度も見当たらない、誰もがうんと頷けるものという意味合いが強くある気がする。 でも。世間が求める「被害者像」は、何処までもいつまでも不幸で、悲しみに沈み、決して世間に歯向かったりしないような、そんな色が見える。でも。そんな「不幸な被害者像」で居続けたら、いつまで経っても「被害者」からは卒業できない。被害者である、が、被害者だった、に。そうなる為には、しんどさを背負いながらも笑って泣いて、できないことをできないと言う、そうしたことが絶対に必要になる。 要するに何が言いたいかといえば。 清く正しい、なんてものは、世間が求めるだけのもの、虚像といっても過言ではない。そもそも「清く正しい」って何だ。「清く正しく」ある必要は何処にあるんだ。
そんなことを思っているところに、森山直太朗の「することないから」というフレーズが耳に留まる。 「ねえ することないからセックスしよう」。思わず飲んでいた珈琲を吹きそうになってしまった。そうか、することないからセックスするのか、と、続きを待った。一番の歌詞こそ確かにちゃらんぽらん男の呟きなのだが、三番に至ると、すうっと背筋に寒気が走った。 ねぇジョージ することないから戦争しよう/勝てば最高気持ちがいいよ うまくいきゃ英雄気取れるし/躊躇うことないさ みんなだってきっとそうしているよ/時間がすべて都合をつけて 素敵な思い出に変わるよ/ねぇジョージ いつか祖国が豊かな時代を迎えたら/あらゆることが思いのままさ こんなみじめな思いはしないよ/そしたら世界を平和にしよう/ねぇジョージ だから振り向かないで/することないから戦争しよう(森山直太朗「することないから」作詞:森山直太朗・御徒町凧、作曲:森山直太朗・御徒町凧) 世界を平和にしようと言いながら戦争しようと言う。心底ぞっとした。でも。今この世界はそういうところにいるのかもしれないなぁとつくづく思った。清く正しいと思われていた人間が見えないところでは誰かをレイプしていたり。清く正しいと思われていた人間が、あるところではすることないからどうでもいいセックスをしてみたり。人々に平和を説きながらその手には刃を握っていたり。 それが、人間のサガなのかもしれない、と。私はそう、思っている。 |
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