| 2022年04月23日(土) |
ぬるい朝。ぼんやりとした薄灰色の雲が空に横たわっている。夜のうちに雨が降ったのだろうか。ベランダの草履に水が溜まっている。 薔薇たちのあいだにまたうどん粉病が。病葉を一枚一枚切り落とす。それだけじゃ足りなさそうなので薬も適度に散布する。 宿根菫の花盛りは終わったのかもしれない。最近は花の勢いもおとなしくなった気がする。そんな宿根草の向かい側でブルーデイジーが一輪咲いた。ちっとも気づかなかった。今だってたまたまプランターを持ち上げただけで、花が咲いていたなどとは思ってもみなかった。アメリカンブルーは相変わらず葉の半分が茶色くなってしまう。本当に、どうしたらいいんだろう。母が言うように辛抱強く辛抱強く、見守るほかない。
それにしても蒸し暑い。ぺとっと貼りつく重怠い湿気と熱気。まだ4月だというのに。朝のうち広がっていた雲はいつの間にか散り散りに消え去り、容赦ない陽射しに代わっている。長袖を着てきて失敗した。こんなことならTシャツにすればよかった。すれ違うひとたちの格好がまちまちなのは、この重怠さをどう扱ったものかというめいめいの惑いの現れのような気がする。
「トラウマの再演」。かつて私にもあった。まだ被害から数年の頃、気づいたら加害者に連れられて行った場所にふらふらと立っていたり。近づいてくる男性のすべてが加害者に見え、それゆえにセックスを求められれば今度こそ私はこの体験に打ち克つのだという気持ちになって誰れ彼れ構わず応じたり。 でも。一体何に打ち克つというのか。 被害に遭い、ずたぼろになり、自分などもういなくてもいい存在、むしろいない方がいい存在としか思えなくなった。存在自体が罪悪に思えた。自分をいくら傷つけても何しても救われない、むしろ余計に傷つくばかりの自分が居た。そんな時、近づいてくる男はすべて加害者に見えたし、その男とのセックスに今度こそ自分が打ち克つのだと私は勝手にそう自分をいきり立たせた。セックスなどしたくもないのに、男に応じた。今度こそ私は打ち克つのだとただその一念で。 しかし実際、打ち克てたことは一度たりともなかった。余計に傷ついて、余計にずたぼろになって、それで終わり、だった。何度試みてもそれは、同じ。 それがトラウマの再演だなどとは、その当時は思ってもみず。ただひたすら、今度こそ私は打ち克のだその一念で行動していた。 当時の主治医に指摘されなければ、私はきっと、気づかぬままだった。自分がトラウマを再演している、などと。気づかぬまま、だった。 気づかされて、愕然とした。一体自分は何をしているのだろう、と思った。余計に自分を嫌悪した。自分など何の価値もない、むしろマイナス、いること自体が罪。そうとしか思えなくて。何度も自殺未遂を繰り返したあの頃。 生きたいとか死にたいとか、それ以前のところにいた。自分の存在を「消したかった」。ただ、それだけだった。 トラウマの再演の後、それを自覚した後に訪れたその、自分を消去したいという思いは強烈で、何度でも私に襲い掛かった。私は何度でも自分を傷つけた。薬を馬鹿飲みし、救急車で運ばれ胃洗浄、その入院先から私は脱走し、また自傷。そんな毎日。 終わりがなかった。そりゃそうだ。私は自分を消去したいと思っているのだから、自分が消去されないかぎり延々とこれは続くのだ。 私は。 自分がこんなにもしぶといと思ってもみなかった。何度消去しようと試みても、私を消去することはできなかった。そうして私は、絶望した。
映画監督の誰だったか、ちょっと忘れてしまったが。昔観た映画の、パンフレットにその監督の言葉が添えてあった。絶望の先にこそ真の希望がある。確かそんな言葉。 自分に絶望し、呆然と命の前に佇んだ時。私は初めてその遠い先に、一点の光を見たんだ。
今私は、生きることが楽しい。いや、もちろん、辛いことしんどいこと、山程あるけれど。そういったことも一切合切含めて、楽しい。そう、思っている。でも、ここに辿り着くまでに一体どれほどの道程があったか。 だから、私は、元に戻りたいとか、やり直したいとか、もう思えない。戻って同じ道程をもう一度歩き切れる自信はないから。途中で倒れ伏して今度こそ死んでしまう気がするから。 私は、今ここ、を生きるので、十分。 |
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