ささやかな日々

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2022年04月02日(土) 
一日留守にしただけで、ベランダの植物たちがぐったりしている。慌てて如雨露で水を遣る。いつもよりたっぷり、如雨露を傾ける。
薔薇の樹の足元から葉を茂らせているクリサンセマムの葉はぐったりと項垂れており、その中央の薔薇も息切れしている。如雨露を高く持ち上げて上からたっぷり水を遣る。液肥を混ぜた薄茶色い水が次から次に葉を濡らし、土を濡らす。イフェイオンと宿根菫はそんな中でも元気そうで、それぞれに花を咲かせている。

帰宅して間もなく、家人と息子が喧嘩を始めた。はっきり言って、どっちもどっちの、くだらない言い合いだ。両方で相手の傷つくこと腹の立つことをわざと選んで言っているとしか私には思えない、そんな言い合い。いつもならぐっと黙って言い合いがやむのを待つのだが、今日はさすがに遮るように怒鳴ってしまった。いい加減にしてよ、何の為にお出かけしたの、台無しになるような言い合いをどうしてするの、やめなよ!と。
家人は席を立ち、息子はぶうたれた表情を全身に浮かべる。私は私で、心の中思ってしまう、こんなふうな終わり方するなら私はもう次は行かないぞ、と。

人間、どうして、相手の腹の立つこと、傷つくことを分かっていて、わざとそれを選んで吐き捨てるのだろう。
相手の喜ぶことにはあまり気づけないくせに、その反対のことについては人間誰しも敏感だ。こう言えば、こう行為すれば相手はむかつくに違いない、というのを瞬時に見つけ出す。
そういう言葉を吐き捨てる時のそのひとの表情もまた、独特だ。いつだってそういう時の表情は醜い。相手を傷つける為に吐き捨てられる言葉と同じくらい、醜い。
そういえば。昔々まだ子供だった頃、母に怒られたことがあった。捨て台詞を吐くのをやめなさい、と。強く叱られた。捨て台詞を吐いた方はそれですっきりするかもしれないが、吐かれた方はそのせいで長いこと心が不愉快なままになるのだ、と。たとえば学校へ行きがけに私が捨て台詞を吐き捨てたとする。吐き捨てた側は家を出て学校に出掛けるから気持ちも切り替えられるだろうが、吐き捨てられた側は吐き捨てられた言葉が響き続ける家の中、ずっと呼吸し続けなければならない。ずっと、吐き捨てられた言葉の醸す気配を、呼吸し続けなければならない。こんなしんどいことはない、と。
家人や息子の捨て台詞に出会うたび、私はこの、大昔のことを思い出す。そして、胸がちくりと痛むのを感じる。今なら分かる。母が当時言ったことの意味が、痛いほどに分かる。

夕方、LINEが流れて来る。Aちゃんが言う。「ほんの少しの支えてくれるひとたちを大切に過ごそうと思います」と。私はその言葉がひっかかった。
ほんの少しの、とAちゃんは書くが。支えてくれるひと、信頼できるひとというのはそもそもそんなに大勢いるものなのだろうか、と。私は考え込まずにいられなかったのだ。
被害に遭ってまだ日が浅い頃。私も絶望に暮れたものだった。私が被害者になったことや具合が悪くなっていることを知って離れていくひとたちもいれば、何も言わず黙って隣にいてくれるひともいた。その数だけ数えるなら、離れていく人たちの方が膨大で、残ってくれるひとは片手に数えられるほどだった。その数の差に、当時は愕然として、傷つきもした。どうして被害者になった私がさらに追い打ちをかけられなきゃならないんだろう。どうして私がひとりぼっちにならなくちゃならないんだろう。理不尽だ、と。そう、思っていた。
でも。
じゃあ被害にも遭わず、そういったことから無縁のところで生きているひとたちは、そんなにたくさんの信頼できる人がいるものなのだろうか? 疑問だ。
結局のところ、心底心を打ち明けたり、信頼したりする相手というのは、ごくごく少数で、片手に収まってしまう程度のものなんじゃなかろうか、と。
だからひっかかったのだ。いやいや、ほんの少しいればいいじゃないか、ほんの少しだろうと何だろうと、信頼できる相手がひとりでもいれば、人間生きていけるというもの。違うだろうか?
全力で誰かと向き合うのは、そもそもしんどいものだ。全神経全体力を費やす。ひとと向き合うとは、そういうことだと私は思う。
一週間、一日一日誰かと会ったとして、その誰もに全力で向き合おうとしたら、とてもじゃないが一日一人が私には限界だ。一日一人、懸命に心を傾け全力を傾け、耳を澄ます。それがもし、できない、というのなら。
私はそもそも、あなた方と縁がなかったのかもしれない。

窓の外、すっかり闇色。でも、昨日見たあの夜の濃さ深さは十分すぎる程深く濃い。星も驚くほどくっきり輝いていた。今窓の外に星はほとんど見つけられない。それでも。星はきっとそこに居る。


浅岡忍 HOMEMAIL

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