| 2022年04月03日(日) |
雨。じっとりと降り続く雨。どうして桜が咲く頃には雨がこんなにも多いのだろう。桜の花を散らさんとばかりに降る。咲いたばかりの花たちが雨粒に叩かれ散ってゆく。毀れ落ちる花弁たちが濡れたアスファルトに重なり合う。そして誰かの足に踏みしだかれる。あっという間にそれは、ただの形骸化される。薄い命。 雨の中雨合羽を着てワンコと散歩。ワンコの尻尾がぶるんぶるん振れるたび私に水滴がかかる。まるでリズムをとってるみたいな具合。散歩を終える直前、突如リードが切れてしまう。驚いてワンコを呼び止める。気づいてないワンコは不思議そうな顔で私を見上げる。そっと彼の首輪に手をかけ、彼が走り出さないよう気を付ける。リードが切れる、なんて、こんな呆気なく切れるなんて。吃驚。
久方ぶりにCちゃんとふたりおしゃべりする。パートとはいえ仕事を始めた彼女の顔色が、ぐんと明るくなっている。きっと今はまだ、新しい場所へ慣れるのに精いっぱいに違いない。ひとと中途半端につきあえない彼女を、不器用と言うひともいるけれど、私はそんな彼女の丁寧さが好きだ。信頼できる。 仕事の話、本の話、彼の話、あれやこれや、つれづれなるままにおしゃべりが続く。珈琲に飽きて和生姜焙じ茶に切り替える。最近煙草を持ち歩くのをやめたんですという彼女が、すみません煙草貰ってもいいですか、と私の煙草を吸うのだけれど、私の煙草が彼女の煙草より強いんだろう、吸い方が微妙でふたりして笑ってしまう。 正義の話になる。ひとの数だけ正義があるね、と。私の正義、Cちゃんの正義。決して100%重なり合うことはなくて、みんなそれぞれ物差しがあって。でもだからこそ、自分だけの物差しで誰かを計ってはだめなんだよねぇ、と。そんなことをふたりしてうんうん言いながらおしゃべりをする。 Cちゃんのツボるところと私のそれとが、結構重なり合うおかげで、あっという間に夕暮れてゆく午後。その間も雨は降り続く。じっとり、と。 被害の体験は、それを受けた者の内にくっきりとしたトラウマを残す。刻印のようにくっきりと。でもだからといって、すべてを「被害のせい」にしてはならないよね、と。被害の体験があまりにくっきりと「トラウマ」であるから、ひとはつい、その後起こるあらゆる不幸を「被害のせい」にしたくなる。どれもこれも、あの被害体験がなければ、それさえなかったら、と。でも果たしてそうなのか? 同じ被害の体験を経たとしても、感じ方は千差万別。そのひとそのひとのそれまでの過去だったり人間性だったりによって、まったくもって受け止め方が変わる。そこまでちゃんと向き合わないと、何もかもを「被害のせい」と一括りにしてしまいがち、だ。でもそれでは何も解決しない。 ひとつひとつ、向き合っていかないと。絡んでしまった糸を解いていかないと。時には自分の弱さや狡さとも向き合わねばならないことだってある。見ないふり気づかないふりしたくなることもあるだろう。でも。それらもひとつずつ越えていかなければ、決して終わらない。 トラウマに試されてるかのようだ。そう、酷い被害体験を通して、おまえはどれだけの人間なのかと試されてるかのようだ。はっきりいって残酷な試され方ではある。そんなもの、経ないですむならそれに越したことは、ない。 それでも経てしまう時が、経てしまう者が、いるわけで。試される人間性。それが多分、その体験を経ての回復と成長につながるんだろう。そんな気がする。
天気予報は明日も雨だという。溜まった洗濯物の山を前に小さくため息ついてみたり。でもきっと明日は今日よりいい日になる。そんな気がする。 |
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