ささやかな日々 / 浅岡忍

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2020年05月04日(月) 
先日息子と蒔いた朝顔の種から早速芽が出て来た。「出てるよ!」朝一番に息子に声を掛けるとベランダにすっ飛んできた息子。でも、私が植えた方が先に芽が出たことに気づきしょぼーん。いやいやこれからだよと声を掛けるが納得しない。僕は種に嫌われたんだ、なんて愚痴っている。まったくもう。凹み過ぎ。
朝ちょこっと顔を出していただけの芽は、あっという間にぐいっと頭をもたげ葉を拡げるまでに育ってしまった。なんて勢いなんだろう。息子が「母ちゃん母ちゃん、すごいよ!もうにょきにょきだよ!」と歓声を上げるほど。さっきまで凹んでいたのは何処へやら。今はただ、この命の塊に呆然としている息子。私も頬杖ついて、彼らに見惚れる。

非常事態宣言は正式に延長となった。数時間後、公文の先生から電話があり、五月中はお休みとなりました、宿題を取りに来てください、とのこと。きっと明日か明後日には学校からも何かしら連絡が来るんだろう。私はカレンダーを見やる。果たして6月1日から学校は始まるんだろうか。ずるずると9月までお休み、なんてことにならないだろうか。そうなった時子供たちはどうなってしまうんだろう、等々、あれこれ考えこんでしまう。
大人の都合、大人の事情でずるずる、ずるずると休みが延長され、ようやく慣れた学校生活が遠いものになり、同時に遊び場はどんどん奪われ縮小されるばかりで、こんな状況下で彼らに一体何をしろというんだろう。すっかり赤ちゃん返りしている息子と毎日接していると、元に戻るなんてことが遠いことに感じられる。

「ただ「知る」だけでは何にもならない、真に知ることが、体得することが、重大なのだ」。
使い古された言葉かもしれないけど、私はこの言葉好きだ。何度でも自分の内で反芻したい言葉のひとつだ。私は知ることさえ怠ることが多々あるからなおさら。知り、自分の血肉にまで落し込む。血肉にまでなってはじめて、知ったそのことを自らの身体で用いることができるようになる。言葉としてそれが、にじみ出てくるように、なる。借り物の言葉でいくら語っても、それでは言葉が形骸化し上滑りするばかり。自分の言葉として喋り語る、書き記すには、この、「真に知る」ことが何より必要になってくる。

私はそう、信じている。


浅岡忍 HOMEMAIL

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