ささやかな日々 / 浅岡忍

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2020年04月12日(日) 孫の泣き声で思い出す
呼び鈴が鳴る。こんな時間に誰だろう、と訝りながら起き上がりインターフォンの受話器に手を伸ばす。そこで気づく。ああ、夢だ、と。
インターフォンが鳴ったなら点滅する灯は全く点滅しておらず。沈黙を守っている。丑三つ時、私は廊下にぼんやり佇む。

娘と孫を玄関先で見送る時、孫はまだそれがバイバイだと分かっていないようで。私たちが玄関から出ないということに気づいてようやく、ふぎゃあと泣き出した。泣き出した彼女を娘が抱き上げ、じゃ、またね!と言って去る。孫の泣き声だけがまだ廊下に響いている。
そんな彼女の泣き声で思い出した。私も幼い頃、祖父母の家から帰らなければならないその時が来ると必ず涙したことを。帰りの車の中はひたすら泣いていて、だから泣いていたということ以外何も思い出がない。ただただ泣いていた。祖父母のあの、独特なにおいが遠ざかってゆくのが寂しくて、祖父母のあのやわらかい萎びた感触が遠ざかってゆくのが悲しくて、でもそれを誰にも言えなくて、ただ泣くという行為にしか自分を傾けられなかった。そんな日々があったことを、孫の泣き声で思い出した。

子どもを育てる、のではなく、子どもに育てられるのだな親は、と、いつも思う。子育て、という言葉はだから、ちょっと違う気がしている。子に育てられるのが正解で、子どもを育てるという言葉は私には違っている。

孫たちが帰った後、息子と犬の散歩に出掛ける。夫が大通りを好んで歩くのに対し、私は裏道細道を行くのが好きだ。この道行き止まりになってるんじゃないの?と思えるほどの細道を、それでも行ってみる。今日も息子と、この細い階段上ってみようか、ということできょろきょろしながら上ってみた。車はとてもじゃないが走れそうにない細さの道に繋がり、それでも両脇には家々がぎゅうぎゅうづめに建っており。「母ちゃん、このお家の玄関どこ?」「ね、鶏がいるよ!二羽も!」「なんでなんで?!なんでこんなところにコケコッコーいるの?!」などなど。息子とひっきりなしに会話しながら歩く散歩。コロナが始まってからの習慣のひとつ。

夕飯はシチューを作る。トマトシチュー。私は煮込み料理が大好きだ。ことこと、ことこと、ひたすらにゆっくり煮込む。その作業がたまらなく好きだ。無心になれる。一途に料理にだけ思いを傾けられる、そういう時間が好きなんだ。
途中息子が何度か、手伝いにやってくる。かき混ぜるのを手伝ったり、ルーを入れるのを手伝ったり。
できあがったシチューの真ん中に、クリームチーズをひとかけら置く。ちょっとだけ贅沢。


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