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2007年01月30日(火) 名物にうまいものあり

一泊で名古屋に遊びに行ってきた。
名古屋は出張以外で行ったことは数えるほどしかないのだが、そのわりに思い出のあるところだ。大学時代はサークルの活動で何度か名古屋大学に遠征したし、三年前には名古屋在住の日記書きさんたちとオフ会をした。
が、それよりなにより、そのむかし遠距離恋愛をしていた人が名古屋に住んでいた。彼が寮住まいだったため私が名古屋に行くことはなかったけれど、それでも私にとっては「縁もゆかりもない土地」ではない。
で、このたび何年かぶりでその彼に会ってきたのだ。

あははは、冗談、冗談。
そういうドラマがあったら日記的にはおもしろかったのですが、私は別れた人と友だちになるなんて器用な真似はできないので、音信不通になるのが常。今回は友人の「ちょっと遠出しておいしいものめぐりしようよ」という誘いに乗った、食い気百パーセントの旅だ。

* * * * *

名古屋ほど名物の多い土地があるだろうか。大阪の名物といえばたこ焼きとお好み焼きくらいしか思い浮かばないが、かの地のものを挙げるとたちまち十本の指が埋まる。
せっかくお金と時間をかけて行くんだからひとつでも多く体験しようね、どうせなら名店と言われているところに行こうね、と友人と気合を入れる。

名古屋での一食目は味噌カツ。十一時の開店に十五分遅れただけなのに、「矢場とん」エスカ店の前には二十人を超える行列が。これに並ぶのか……とひるんだが、意外にも回転がよく二十分ほど待っただけで席につくことができた。
私はスタンダードな「ロースとんかつ」を注文。味噌カツのタレはもっと甘くてくどくて「いかにも味噌です」な味を想像していたのだけれど、濃度も甘辛さもちょうどよくて最後までおいしく食べられた。お好みでどうぞとテーブルの上にカラシやすりごま、七味唐辛子が置いてあったが、私はすりごまが一番合うと思った。

名古屋港イタリア村、名古屋港水族館に行った後、名古屋駅に戻ってきてティータイム。
以前から名古屋に行く機会があったら確かめてみたいと思っていたことがあった。かの有名な「モーニング伝説」である。名古屋の喫茶店では午前中に飲み物を注文するともれなくトーストやゆで玉子がついてくる……というあれだ。
「コーヒー一杯の値段でモーニングセットになるだなんて本当かしら」
というわけで、喫茶店「リヨン」へ。どこの店もそのサービスは十一時くらいまでなのだが、ここは一日中しているとガイドブックに書いてあったのだ。
わくわくしながらメニューを見ると、たしかにドリンクにはすべてトーストがつくとあり、パンは六種類からチョイスできるようになっている。んまあ、これで三百五十円とは。
友人はポテトサラダサンドを選んだが、私はもちろん小倉トースト。これもまた名古屋の名物、一度食べてみたかった。

そうそう、名古屋の喫茶店といえばモーニングの時間帯でなくても驚いたことがある。前回来た際、ふらっと入った喫茶店で紅茶を頼んだところ、運ばれてきたものを見て目が点になった。豆が入った小袋がついてきたのだ(今回の小倉トーストにもついてきた)。
「なんじゃこりゃ。これをつまみながら飲めっていうこと?」
サービスの品であるのはわかった。しかし、なぜに豆……。友人のコーヒーに添えられているのは柿の種である。
家に帰ってネットで調べたら、どこの喫茶店でもついてくるのはピーナツやあられであることがわかった。うーん、不思議だ、コーヒー・紅茶ならクッキーやチョコレートという発想にならないか……?
ちなみに、飲み物にトーストやおつまみの小袋が付くサービスは名古屋は喫茶店密度が全国で一、二を争うほど高いため、その競争の中で生まれたものなのだそうだ。

夜は手羽先を食べに行く。オフ会のときに「風来坊」に連れて行ってもらったので、今回は「世界の山ちゃん」へ。
カラッと揚げた手羽先にコショウがぴりりときいていて、甘辛いタレが少々。カニを食べるとき場は沈黙がちになるけれど、これもかなり人を無口にさせる。これをおなかいっぱい食べて、ふたりで三千五百円。安っ!

翌朝のホテルの朝食は軽めに。だってお昼はいよいよメイン・イベントのひつまぶし。
「本店じゃないからそんなには混まない、慌てなくても大丈夫」という友人の言葉を真に受けて、正午ぴったりに松坂屋の中の「あつた蓬莱軒」に行ったら、長蛇の列がとぐろを巻いているじゃないの!
「あの、ここが最後尾ですか」
「いえ、あっちです」
「すみません、一番後ろの方ですか」
「まだそっちに続いてます」
席につけたのは一時間半後。三年ぶりのひつまぶしはそりゃあおいしかった。
一杯目はそのまま、二杯目は薬味を載せて、三杯目はダシをかけてお茶漬にしていただく。私は二杯目の食べ方が一番好き。

新幹線に乗る前にきしめんを食べようと友人が言ったが、私はギブアップ。彼女の食欲にまともに付き合おうとするなら、胃袋がもうひとついる。
彼女が初めてわが家で夕食を食べたとき、その食べっぷりに目を丸くしている夫に「私、ごはんは別腹なんですうー」と言った彼女。夫は「甘いものが別腹っていうのはよく聞くけど、ごはんが別腹ってどんなおなかしてるの!?」と唖然としていたっけ。
私に拒まれた彼女はデパ地下で「地雷也」の天むすを買い、帰りの駅弁にしていた。ほんまよう食べるやっちゃ。


「名物にうまいものなし」という言葉があるけれど、名古屋にはあてはまらない。味噌煮込みうどんや台湾ラーメン、ういろうも私は好き。
が、ひとつだけ食欲をそそられないものがあって、なにかというとあんかけスパゲティ。あれ、おいしいの……?どうしてもそうは見えないんだけど……。
でも、あとそれを食べたら名古屋名物を制覇できる。次回、勇気を出して挑戦してみよう。


2007年01月26日(金) ストライクゾーン

前回のテキスト「不快のツボ」に書いた「赤ちゃんが乗っています」ステッカーについてたくさんのコメントをいただいた。
目からうろこが落ちたのが、ステッカーの由来。それは、ある事故現場で赤ちゃんが外から見えなかったために救出が遅れ、車内で死亡してしまった……という悲しい出来事を教訓に考えだされたという。つまり、ドライバーが口がきけない状態になったときに赤ちゃんも取り残さずに助けてもらうために貼るものなのだそうだ。知らなかった!
「赤ちゃんが乗っています」の後に「なのでゆっくり走行しています」とか「お先にどうぞ」といった文言が続いていたら、「だからなに?」という冷ややかな突っ込みも減るんじゃないかしら……と思っていたが、本来の目的がそれだから「赤ちゃんが乗っています」としか書かれていないのね。
というわけなので、ステッカーを貼りっぱなしにしているという方、今日からは赤ちゃんを乗せていないときはちゃんと外してね。万が一のとき、乗ってもいない赤ちゃんを探して救急隊の人たちが危険に晒されることになりかねないから。

赤ちゃんステッカーに込めた周囲の人へのメッセージは「赤ちゃんも救助してください」と「スピードが出せないのでお先にどうぞ」が主なところだと思うが、こんな期待もちょっぴりしているという声があった。
「こちらのドアから子どもを乗せたり降ろしたりするので幅寄せして駐車しないでね、というアピールでチャイルドシート側の窓にも貼っておく」
これは思い至らなかったなあ。
それから、「Baby in Car」ではなく「Baby in Me」を見たことがあるという情報もいただいた。私はしばらくなんのことかわからなかったのだが、そう、ドライバーが妊婦であることを示すものだ。
いろいろなステッカーがあるんだなあ……といえば、笑ったのが大型トレーラーに貼ってあったというこれ。
「全長18メートル、気合入れて抜け!」

ほかにも、以前はステッカーに好意的でなかったが子どもを持って初めてそれを貼る人の気持ちがわかったという方、反対に、それを見て不快に思う人がいることを知ってこれでは逆効果だと外してしまったという方、いろいろいらっしゃいました。

* * * * *

「赤ちゃんステッカーや子ども年賀状のなにがそんなに癪に障るのか、私にはぜんぜんわからない」
と前回書いたが、それは私の心が大草原のごとく広いから……ではなくて、それらが私にとって不快のツボではないから。別の場面ではほかの人はなんともないのに私ひとりぷりぷりしている、ということもあるだろう。ツボのありかは人それぞれなのだ。
ただ思うのは、笑いのツボや涙のツボと違って不快のツボはあまりたくさん持っていないほうがいいということ。
どんなことにも不満の種を見つけてくる人がときどきいる。これが嫌あれが嫌い、この人がむかつくあの人が許せない……と始終文句を言っている。しかし彼、彼女が次から次へと気に食わないことに遭遇してしまうのは不運だからではなく、自分のポリシーや好みから外れたものに対する許容性がないからだろう。
ストライクゾーンは広めに、広めに。そのほうが自分も他人も生きやすい。


2007年01月23日(火) 不快のツボ

交差点で信号待ちをしていたときのこと。行き過ぎる車を見送りながら友人が言った。
「あの“Baby in Car ”ってなんなんやろ」
彼女は日常的に車を運転する人である。いままで知らなかったのかと驚きつつ、「あれは『赤ちゃんが乗っています』っていう意味よ」と教えてあげたら。
「そのくらいわかるっつーの。私が言ってるのは、どういう意図であれを貼ってるんやろうってこと!」
それは失礼しました。
彼女はこの「赤ちゃんが乗っています」が大嫌いなのだという。以前、無謀な車線変更をしてきた車に急ブレーキを踏まされ、思わずクラクションを鳴らしたら、後部座席の女性がぱっと振り返り、リアウィンドウの「赤ちゃんが乗っています」ステッカーを指差して睨みつけてきた。
「『後ろに赤ちゃんがいるんだからもうちょっと車間とってよ』なのか、『大きな音出したら赤ちゃんが起きちゃうでしょ!』なのか知らんけど、あたしゃぶち切れたね」
以来、そのステッカーを貼った車を見ると「だからなに?」と突っ込まずにいられないそうだ。

そんな経験をしてしまうと手厳しくなるのも無理はない気もするが、「赤ちゃんが乗っています」が好きでないという声はネット上や新聞の投書欄でもちょくちょく耳にする。
「乗っている、とだけ知らされてもなにを求められているのかわからない」
「『注意力散漫で運転しています』というアピールなのか」
「気を遣え、特別扱いしろと言わんばかりで傲慢さを感じる」
「追突しないで、煽らないでと勝手に警戒していて不愉快だ」
「赤ちゃんがいるのがそんなにうれしい?」
などであるが、あのステッカーを見てこんなふうに受け取る人がいると知ったとき、私は心底驚いた。そんなこと思いもよらなかった。
私にとってそれは若葉マークやもみじマークと同じである。それらの表示のある車の後ろについたときは用心の気持ちが起きるのでふだん以上に車間を空ける、少々もたついていてもカリカリしない、あるいはさっさと追い抜いてしまう。しかし、このくらいのことで「余計な気を遣わされた」と思ったことはない。
赤ちゃんステッカーは「赤ちゃんに気をとられて危険な運転をするかもしれないけど、大目に見てね」でも「だからそちらが気をつけてちょうだい」でもなく、「こういうわけでスピードが出せないので、お急ぎの方はお先にどうぞ」という、ただそれだけのメッセージであろう。押し付けがましいことなどなにもない。後ろの車は「赤ちゃんが乗ってる?だからどうした」ではなく、ふつうに「念のため、車間をもう少しとっておこう」「じゃあ先に行かせてもらうよ」で済む話ではないのだろうか。
あれのなにがそんなに癪に触るのか、私にはぜんぜんわからない。

もうひとつ、自分とは“不快のツボ”が違うなあと思うのが、子どもの写真入り年賀状。好意的でない人が少なくないが、私はどうということもない。
「会ったこともない子どもの写真を送られてもうれしくもなんともない」
「メッセージが『娘は今年から幼稚園です』みたいな子どものことだけだと、『私はあなたのことが知りたいのよ』と言いたくなる」
なんて話をよく聞くが、私は「そっかあ、彼女はいまこの子のママをしてるんだなあ……」としみじみ思う。
そりゃあ彼女も写っているもの、彼女の近況が書かれているもののほうが見て楽しいのはたしかだけれど、年賀状は相手への“プレゼント”ではないから、私のところへは送りたいもので送ってくれればいい。

最近読んだ内館牧子さんのエッセイにこんな話があった。週刊誌で「年賀状に子どもの写真を印刷してばらまくのはどうかと思う」とかなり辛辣に書いたら、後日知り合いの男性から、
「僕も子どもが生まれたとき、あなたにもそれを送っちゃって。うちは長いこと子どもができなかったんでうれしくて……。でも内心笑ってたんですね」
と言われ、返す言葉がなかったという内容だ。
赤ちゃんステッカーにしろ子ども年賀状にしろ、こちらがなにほどの苦痛を強いられるわけでもない。子どもがかわいくてたまらないんだなあと温かい目で……とまではいかなくても、ふつうの目で見てあげればいいじゃないの。


2007年01月19日(金) 「ベッド」ありの友人関係

病院にいるあいだは本ばかり読んでいた。
いつ診察に呼ばれるかわからないからなるべく部屋を空けないようにと言われていたし、そうでなくとも点滴棒をガラガラいわせながら散歩する気にはならない。テレビはもともとあまり見ないので、私は休憩室の本棚からふだんは読まない小説を何冊も借りてきてベッドに持ち込んだ。

そうして読んだもののひとつが、浅田次郎さんの『椿山課長の七日間』。四十六歳で突然死したデパートマン・椿山課長がやり残したことを整理するため、三日間だけ仮の肉体で現世に舞い戻り……というストーリーだ。新聞の連載だったし映画にもなったのでご存知の方も多いだろう。
さて、その中に私が「なるほどねえ……」と相槌を打ったこんなくだりがあった。
人は死んだらまずあの世とこの世の中間にある役所で、現世で犯した過ちを反省するための講習を受けなくてはならない。人殺しや盗みなどさまざまな罪があるが、椿山課長が言い渡されたのは「邪淫の罪」。「結婚するまで十八年間も、恋人でもない同僚女性とみだらな肉体関係を続けていた」というのがその理由だ。
しかし、椿山課長は「愛なき邪淫を繰り返した」とする冥土の判定に異議を申し立てる。
彼女はセックス・フレンドなどではない、長年の親友だ。男女の関係はたしかにあったが、それは双方がフリーの時期限定のこと。どちらかに好きな人や恋人ができると、その恋愛が順調なあいだはときどき会って食事をするだけのふたりに戻った。この関係のどこがよこしまだと言うんだ、と。

「ハゲ・デブ・メガネの三重苦にあえぐ冴えない中年男」である椿山課長がこういう経験と価値観を持っていたことは少しばかり意外だったが、しかし私はその「自分たちは親密な友人なのだ」という言い分に妙に納得してしまった。
というのは、私はつねづね不思議に思っていたのだ。私の周囲には異性の親友がいるという女性が何人かいるが、みな口を揃えて彼とセックスしたことはない、その可能性はこの先もゼロだと言う。
しかし、私は彼女たちが「恋人と切れることがあっても、彼とは一生付き合っていくと思う」とか「ひょっとしたら親より私のことを理解してくれているかもしれない」とその男性に並々ならぬ信頼感や敬意を示す一方で、「彼とエッチ?絶対ない、ない。たとえ同じ布団に入ってもそんなことにはならないわ」と断言するのがどうしても理解できないのである。
どうしてありえないと言えるの?と訊くと、返ってくるのは決まって「だって友だちだもん」という答え。しかし、私は逆だと思う。それほど深く理解し、信頼し、心許し合っている間柄であるからこそ、一線を越えてしまうという事態が起こりうるのではないのか?
単なる男友だち、女友だちのレベルではない友情で結ばれているふたりであるからこそ、「そういうことは一切ない」よりも「ときにはそういうこともある」というあり方のほうが自然な形であるように私には思えるのである。
どちらにも恋人や配偶者といったステディな存在がいないのであれば、「親友」の男女がさらなる精神的な充足を求めてベッドを共にすることがあったとしても不思議ではないし、とがめられることでもないと思う。

* * * * *

「セックスが邪魔をして、男と女は本当の友だちにはなれない」
というのは、『恋人達の予感』という映画の中のセリフである。私も長いことそう思っていた。セックスは魔物、それが介在するようになるとふたりがどんなに長い時間をかけて培ってきた純で尊いものもたちまち呑み込まれてしまう……と。
でもいまは、「ベッドもあるけど、友人」というのも意外と成り立つんじゃないかという気がしている。
親友だろうがなんだろうが、「異性である」という事実からは逃れられないのである。それならば、「そういうふうになったらもう友だちとは呼べない」とばかりにふたりのあいだで性的なことをタブーにするのではなく、いっそ容認してしまったらどうだろう?
メールをしたり食事をしたりといったことの延長線上にセックスがあり、しかし双方がことさらそれに執着することも拒絶することもなく、「自分たちにあってもいいし、なくてもいい」という境地にあるとき初めて、逆説的であるが、「男とか女とかいうことを越えた友人」と言えるのではないかしら……。

なんて思うけれども、そんな関係はファンタジーだろうか。


2007年01月16日(火) ご挨拶とお知らせ

遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。
しばらくぶりですが、みなさんいかがお過ごしでしたか。
昨年はテキストを完結しないまま突然休止、なんてことをしてしまい、失礼しました。「諸事情」というのは体調不良だったのでした。

生まれて初めて入院というものを経験して、へええと思ったことがいろいろありました。
病院の食事はやっぱり不味いんだということ(もっとも、プラスチックの食器、話し相手なし、動かないから空腹感ゼロ、パジャマのままベッドの上でとる食事が美味しいわけがないけどね)、化粧やマニキュアがだめなこと(顔や爪の色にも体調が表れるので診察の妨げになるとのこと。なるほど)、夜中に看護士さんが三回も見回りに来てくれること(眠れなかったので寝たふりをして数えていた)。
そして、夫が優しくなること。「気遣いが足りない」と年中私をぷりぷりさせる人だけれど、今日から入院することになったと伝えたら出張先から飛んで帰ってきた。病室では電源を入れられないからいいよと言っているのにテレビが見られる自分の携帯を置いていったり、誕生日にも買って帰ったことがないケーキをお見舞いに持ってきてくれたり。子どもの頃、熱を出すと母が「リンゴすってあげようか、それともアイスクリームがいい?」となんでも言うことを聞いてくれたのを思い出した。
……まあ、家に帰ってきたらすっかり元に戻っちゃったけど。

* * * * *

このひと月、書きたいなあと思うような余裕はまったくありませんでしたが、ひとつ発見だったのは「日記を書かないでいると私は『考える』ことをしなくなる」ということでした。
新聞を読んでもテレビのニュースを見ても、「ふうん、へええ」でおしまい。情報が頭の中を右から左へ流れるだけで、疑問も異論も生まれないのですね。アウトプットする機会がないと私は自分の意見を持つことへの執着を失ってしまうらしい。
これってちょっとまずいんじゃないの……。そんなわけでぼちぼち書きはじめようと思います。
更新については昨年中にお知らせしましたように、今年からペースダウンする予定です。サイト開設以来、判で押したような月・水・金更新を続けてきましたが、ここ一、二年毎日が少しせわしなかったのでこれからは週二回くらい、曜日関係なしでお届けします(曜日で訪問してたのにという方、すみません)。

最後になりましたが、休んでいるあいだにメールをくださった方、お返事はできませんでしたが、大事に読ませていただいていました。本当にありがとう。