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2006年12月22日(金) お知らせ

諸事情あり、しばらく日記をお休みします。
お返事もできないので、その間のメールは遠慮させてください。
落ちついたら戻りますので、どうぞ心配はご無用に。

今年一年、ありがとうございました。
少し早いですが、みなさんよいお年を。


2006年12月15日(金) わが子をいじめから守る方法

今年の世相を表す漢字が発表された。毎年このニュースを聞くと、「ああ、今年も終わりだなあ。私も自分の一年を整理整頓しなくては」という気になる私。
というわけで、今年もやります!私の一字。

* * * * *

二〇〇六年の漢字は「命」。
秋篠宮妃紀子さまの悠仁さまご出産というおめでたいニュースがあった一方で、いじめによる子どもの自殺、虐待死、飲酒運転による死亡事故などの痛ましい事件が多発。ひとつしかない命の重み、大切さを痛感した年であるというのが理由だそうだ。
毎年なるほどなあ、その通りだよなあと感心してしまう「今年の漢字」であるが、今年はいつも以上にしみじみと頷いた。「命」に決まったと聞いて私が真っ先に思い浮かべた今年の出来事といえば、いじめを苦にしての子どもの自殺が相次いだことである。

私自身は今日に至るまで誰かからいじめを受けたという記憶はない。けれども周囲を見渡すと、「実は昔、いじめられていてね。学校がつらくてたまらなかった」という人はめずらしくない。変わったところなどない、ごく普通の人たちである。だからにわかには信じられず、いつも「えっ、あなたが?どうして!」と訊き返してしまう。
いじめを受けるようになったきっかけは驚くほど些細なことだ。汗っかきだとか、ランドセルがお下がりだっただとか、ぽっちゃりしているのに名前が「細川」だとか。テストの点数を隠さなかったことで一部の子から「頭がいいのを自慢している」とやっかまれ、あっという間にクラスのはみごになったという話もあった。
「なにもないところにいじめは起きない。いじめられるほうにもなんらかの問題がある」という意見もときどき聞く。しかし、こういうことでいじめられる子どもにいったいどうせよと言うのだろう。嘘つきでも乱暴者でも不潔でもないのに嫌われ、いじめられるとしたら、それを避ける方法などあるのだろうか。

「避けようなんかない、いじめ体質の子どもはどこにでもいるから。その要因になりそうなことをできるだけ排除することしかできないよ」
と言うのは小学生の頃、やはりいじめを受け、仮病を使っては保健室に逃げ込んでいたという同僚だ。
彼女はいまマンション購入を検討しているが、引越しはなんとしても子どもが小学校に上がるまでに完了させると言う。転校がきっかけでいじめられることを危惧しているのだ。
またある友人は、公立の学校はいじめが心配だから娘は私立の中学に入れるつもりだと言っている。えっ、私立にはいじめはないの?と驚いたら、
「公立よりはずっとましだよ。目に余るときはいじめてる生徒は退学になるからね」
とのこと。なるほど……。
中には時がたてば収まるものもあるだろう。しかし、相手がいじめることに飽きる、あるいは自分のしていることを自覚できる程度に精神的に成長するのを待っているあいだに子どもの忍耐が限界に達してしまう場合もある。
「もしたちの悪いのに標的にされてしまったら、人生を台無しにされる前にこちらが居場所を変えるしかないと思う」
と彼女は言う。なにも悪いことをしていないのに、学校に行くのをあきらめたり転校したり……。これほど悔しいことはない。

先日、日経新聞のコラムで登山家の野口健さんの「いじめと向き合う」というタイトルの文章を読んだ。
野口さんは幼稚園・小学校時代、母親が外国人であるというだけでいじめられ続けたそうだ。「外人のばい菌が移る」と石を投げられ、無視される。ひとりの友だちもできない。読みながら鼻の奥がつんとなった。
しかし、私がへええ!と声をあげてしまったのは野口さんのお母さんの態度だ。野口少年が泣きながら家に帰ると、玄関で誰にいじめられたのかと訊く。誰それにと答えると、母は「じゃあその子を殴ってきなさい」と言ってドアをピシャリ。やられっぱなしで泣いているのではなく、やられたらやり返しなさい、と子どもを躾けたのである。
私はそのくだりを驚きと感心の気持ちで読んだ。なんてたくましいお母さんなんだと思った。
泣いて帰ってきた子どもを家から閉め出すとき、胸が痛まないはずがない。本当は自分がその子どもの家に怒鳴り込んで行きたいくらいの気持ちだっただろう。しかし、心を鬼にして「抵抗もせずやられっぱなしなんて情けない。戦いなさい」と教える。「つらかったね、もう大丈夫」と抱きしめるのが愛なら、それもまた愛だ。

「子どものやることとはいえ、暴力による解決を肯定するわけではない。しかし、いじめをなくす努力と同時にいじめに立ち向かう強い心を持った子どもに育てることも大事だ」
と野口さんは言う。そして文章は「泣きながら帰っても家に入れてくれなかった母の教育に感謝している」で締められていた。
いま学校に通う子どもを持つお父さんお母さんは、わが子が殴られて帰ってきたらどう言うんだろうか。 


さて話はがらっと変わりますが、あなたの今年の一字はもう決まりましたか?
次回「私の一字」について書きますが、その中でみなさんの一字もお伺いしようと思うので、それまでに考えておいていただけるととってもうれしいです。


2006年12月13日(水) 正しいクリスマスの過ごし方

学生時代の友人から電話。
「来週の週末やけど、家にいる?泊まりに行ってもええかなあ……」
いつもはこちらの予定も聞かず「○日の夜、遊びに行くわ。よろしくー」なのに、今日はどうしちゃったの?と思いながら、来週末って何日だっけとカレンダーに目を走らせて……そうか、もうそんな季節なのね。
彼女は去年もこの時期に電話をかけてきた。暗〜い声で、「今年のクリスマスは曜日回りが最悪でさ、二十三・二十四・二十五の三日間とも会社休みやねん……」とつぶやき、イブイブにうちに避難してきたのである。

私の友人には独身で恋人なしというのがけっこういるのだが、みな「クリスマスは家にこもる」と口を揃える。うちのひとりは仕事さえ休み、マンションの部屋から一歩も出ないという。街に出ればジングルベルの歌が鳴り響き、サンタ服を着た店員に接客され、ケーキの箱を抱えた人とすれ違う。この巷の盛り上がりと自分のテンションの温度差が堪えるのだ。『グレムリン』の中に「一年で一番自殺者が多いのはクリスマスだ」というセリフがあったが、なるほどという感じである。
そして私自身、幸せそうなカップルを横目にミスタードーナツのひとり用クリスマスドーナツ「サンタでCHU」を買った年があるから、「恋人なし」「ひとり暮らし」「二十代後半以上」の三重苦のつらさはよおくわかる。どうぞどうぞ、うちを駆け込み寺にしてちょうだい。
「よかったあ!だってそんな日に家にひとりでおったら孤独死してしまうわ」
彼女にとって恋人のいない年の理想のクリスマスは、残業を終えて帰り支度をしているときに「あ、そういえば今日ってクリスマスだったのね」と気がつく……というものなので、会社が休みだと大変なのだ。
「でもね、今年を乗り切ればしばらくは平日クリスマスの年が続くんよ。だから来年からは迷惑かけないからさ」
いや、いや。友人としてはそんな気遣いをしてもらうより、来年こそいい人を見つけてもらいたいワ。

早速、出張先の夫に電話をかける。来週末はうちでクリスマスパーティーをするからねと言うと、え!となんだか慌てた様子。
「○○たちと金曜の夜から二泊で北海道でスキーしようって話が出てて、行こうかと思ってたんだけど……」
なぬう!クリスマスに家を空けようっていうの?思わず声を荒げる。
「そんな日に泊まりがけで遊びに行く夫がどこにいますか。そんなの、『僕は浮気してます。どうぞ疑ってください』って言ってるようなもんよ。スキーは来年も毎週のように行くんでしょう、ならクリスマスくらい家にいてちょうだいっ」
夫のよくないところは、自分にとってそうであれば妻にとってもそうであると思い込んでしまうところ。あなたにとっては単なる土日でしかなくても、私にとっては違うのよ。
ということで、今年も友人と一緒にケーキを作り、(夫込みで)鍋をつつき、夜を徹して話し込む楽しいクリスマスになりそうだ。

とまあ、恋人のいない年のクリスマスの切なさを書いてみたが、じゃあ私が何度か経験したそれが涙なしでは語れないような思い出ばかりだったかというと、そうでもない。
会社に入って二年目か三年目だったと思う。仲良しの同僚たちも揃って恋人なしだったので、イブに私の部屋でパーティーをすることになった。
当時、デパ地下に出店している食品メーカーの営業部にいた私たち。ふだんは本社勤務だが、一年で一番の書き入れ時であるクリスマスには店舗に駆り出された。閉店後、売れ残った惣菜を山のように抱えて帰ると、合鍵で先に家に入っていた同僚が部屋の飾りつけを済ませてくれていた。
私以外のメンバーも応援販売に行った店の店長に売れ残りを持たされていたので、合わせるとものすごい量だ。残り物といってもローストビーフだチキンキエフだオマール海老のグラタンだとクリスマスメニューばかりだから、とても豪勢。あれはおいしかった。
マライア・キャリーの「メリー・クリスマス」に乗せてプレゼント交換もしたっけ。上限は二千円、私はなににしようかさんざん迷った末、「来年は私たちなんかじゃなく素敵な彼と過ごしてね」という気持ちを込めて、“勝負パンティ”を購入。
そうしたら数日後、私のプレゼントが当たった同僚から、
「あれ、家に持って帰ったらお母さんに『そんないやらしいパンツ、捨ててしまいなさい!』って怒られた」
と言われてしまった。失礼ね、セクシーと言ってもらいたいもんだわとぷんぷんして、もう少しで「じゃあ私が使うから返して」と言いそうになった。

* * * * *

ところで、世の夫婦はクリスマスをどんなふうに過ごすのだろうか。
恋人時代にはちょっといいレストランでディナーを食べたりライトアップを見に行ったりと派手なことをしていたカップルも、結婚したら「どこも人でいっぱいだし、チキンでも買ってきて家で食べようよ」となるのではないか。
……と思っていたら、うちは毎年プレゼント交換をするよという男性がいて驚いた。子どもに気づかれずにサンタのプレゼントを手配するのはむずかしくないだろうが、妻をサプライズさせるプレゼントを用意するのは至難の業ではないだろうか。喜びそうなものをリストアップしておき、百貨店やなんかが開いている時間に仕事を終わらせ、買いに行かなくてはならないのだから。非マメで多忙なうちの夫にはぜったい無理だな。

結婚記念日や互いの誕生日、クリスマスといった日にはりきるのはたいてい女性であるが、面倒がらずそれに付き合ってくれる男性はいい。
私は「レストランは僕が予約しておくね」とか「プレゼントはなにがいい?」といった言葉を夫の口から聞いてみたいなんて大それた望みは持たないけれど、「今日はなるべく早く家に帰ろう」と考える程度にはそれらの日を大切にしてくれる人であってくれたらなあとは思う。
クリスマスに妻を置いてスキー旅行に出かけようだなんていうのは……論外ですッ。


2006年12月11日(月) 余力あってのものだから。

先週末は日記書きの友人と忘年会を兼ねてごはんを食べに行った。
冬はやっぱり鍋よね、ということでしゃぶしゃぶの店へ。表面的な近況は日記ですでに知っているから、そこで話すのは日記には書かない話、書けない話。しばらくぶりの再会だったので、電車がなくなるぎりぎりの時間まで話し込んだ。
その中に、「私たちはいつまでこうして日記を書いていられるんだろうね」という話題があった。
日記書きに限らず趣味というのは“余力”があってはじめて続けることができる。体を壊したり、仕事をなくしたり、深刻な悩みを抱えたりしているときにweb日記を書こうなんて気にはとてもならない。これだけ長く日記を続けてこられたのは「それどころでない事態」に遭遇しないで済んできたから。平凡な毎日というのはありがたいものだね、と言い合った。

私がこのサイトを始めた頃、人気のあった日記はいまはもうほとんどない。名前を変えてやっている人もあろうが、多くはさまざまな事情で“卒業”してしまったのだろう。
自分自身を振り返っても、六年のあいだには日記に対するスタンスはずいぶん変わった。毎日更新していた時代もあったし、精力的にオフ会に参加していた頃もあった。リンク集でお気に入りの日記を新規開拓するというようなこともしていたっけ。それがだんだんと忙しくなったり、優先順位が入れ替わるような存在が出てきたりして、ここ二年ほどは「書く」という要素さえ満たされればいいや、というところに落ちついている。
お金はかからないし、さまざまな意見に出会えるし、友だちはできるし、われながらいい趣味を見つけたものだ、飽きが訪れるまで続けられたらいいなと思っているので、そのためには生活や心境の変化に合わせて無理のないやり方に変えていかなくてはね。
というわけで、五年近く判で押したような週三回更新をしてきたけれど来年からはペースダウンするつもり。

しかし、来春百万アクセスに到達する見込みなので、そのときはささやかな感謝企画をしたいなと思っている。年が明けたらその準備にとりかからないと。
「乞う御期待!」と大きな声で言えるようなものではないですが、うちの日記を好きで読んでくれている人はほんのちょこっと楽しみにしていてください。


2006年12月08日(金) 好みの違い

先日、友人が家に泊まりに来たときのこと。
夜の十時を過ぎた頃、彼女の携帯が鳴った。ずいぶん長く切れないので、出たら?と声をかけたのであるが、いいのいいのと言って誰からの着信かも確かめようとしない。
三十分ほどしてまた鳴ったので、急ぎの用なのかもよ?ともう一度促したら、彼女は「ちょっと前に知り合いから男の人を紹介されて、その人が毎日みたいにかけてくるんよ」と苦笑して言った。

その表情から察するに、その気がないらしい。どこがだめなのかと訊いたところ、
「どこがっていうか、タイプじゃないんよねえ……。背の高い人って好きじゃない」
と返ってきたから驚いた。「背が高くないと嫌」という女性はめずらしくないが、「背が高いのは嫌」という人には初めて会った。
そりゃあ身長が二メートルもあったら「ちょっと……」となるのはわかるが、その人は百八十くらいというから、なにがNGなのかさっぱりわからない。むしろ理想的じゃないのと私なんかは思うのだが、彼女はむかしから自分と目線の位置が変わらない百七十センチ以内の男性が好みなのだそうだ。

「そうそう、外見の好みってほんと人それぞれなんだよねえ……」
と頷きつつ思い出したのは別の友人のことである。
彼女は私の友人の中でも一、二を争うきれいどころなのだが、いまだに独身、恋人も長らくいない。どうしてかというと、彼女には「これだけは譲れない」外見の条件というのがあるのだが、それをクリアしている人があまりいないからだ。
彼女とカップリングパーティーに参加したことがある。美人の友人とそんな場所に行くなんて無謀だとお思いでしょう?それができたのは、彼女とはいいなと思う男性がかぶる心配がなかったから。
彼女は巨漢の男性にしか魅力を感じない、いわゆる「デブ専」なのだ。

私は大柄な人はOKだが、巨漢まで行くと困ってしまう。逆に、彼女は大柄程度ではぜんぜんだめで、理想のルックスはホンジャマカの石塚さん。そんなふたりが男性を取り合いになる(私の敗北は必至)可能性はまずないだろう。
予想通り、彼女は私がひと目で「キャッ、素敵!」と心の鐘を鳴らした男の子のことを「軟弱そう」と一蹴し、小山のような体型の男性を選んだ。中間発表で彼女のところには何人もの男性からオファーがあったが、中肉の人ばかりであったため目もくれなかった。
森高千里にそっくりの容姿を持つ彼女であるから、その男性とはもちろんカップルになった。しかし、デートは一度きりで終わってしまった。
彼女にとって外見の必須条件は「大男」であるが、内面の必須条件が「切れ者」なのだ。そうは見えないのに実は頭の回転がすごく早い、仕事ができる、というギャップがたまらないらしいのだが、その両方を満たしている人はなかなかいない。

「太っていてもべつにかまわない」なら十分理解できるのだが、「男は太ってなきゃあね」となると私にはよくわからない。
しかし、こういう女性はときどきいる。脚本家の内館牧子さんの理想は相撲取りで、大男にしか男の色気を感じないと言っているし、作家の岩井志麻子さんもデブ専として有名だ。

* * * * *

林真理子さんのエッセイを読んでいたら、「フケ専」という言葉が出てきた。なんのことかと思ったら、老けた人、つまりオジサン好みの女性のことらしい。
そういう人がいるかと思えば、私の友人のひとりは学生時代から「年下キラー」の異名をとり、「オトコは年下に限る」と言う。何年か前に結婚したが、新郎は「大学出たて!?」と見紛うごとく若い男の子でびっくりしたっけ。世の中には本当にいろいろな趣味があるものだ。

私には「専」がつくほどの必須条件はないけれど、過去に好きになった人を思い浮かべてみると、顔の好みはソースではなくショーユなのだということがよくわかる。
ちなみに、さきほど書いたパーティーでゲットした(死語ですか)爽やかクンが、わが夫であります。


2006年12月06日(水) 早生まれは損?

産経新聞社のネットニュースを読んで目からうろこが落ちた。
サッカーのJリーグ・J1所属選手の誕生月を月別に見ると、生まれが四月に近いほど数が多く、四月から六月生まれの選手の数は一月から三月生まれの二・三倍。また、一橋大学大学院の川口大司助教授が三月生まれと四月生まれの人の「最終学歴が四大卒である比率」を調べたところ、後者のほうが高いという結果が出た。
一月一日から四月一日に生まれた、いわゆる「早生まれ」の子どもは同級生よりも実質的な年齢が低いため、幼少のうちは体格の面でも体力、学力の面でも不利になる場合が多い。このハンディ自体は学年が上がるにつれ消えていくが、幼少期に「みんなより遅れている」という気分を味わうことによってスポーツや勉強に苦手意識を持ってしまい、それがのちのちの人生にも影響を与えているということではないか------という内容だ(こちら)。

私はこれまで「月齢差」というものを意識したことがなかったので、そんなデータや仮説があるのかと驚いた。記事によると、多くの私立小学校で入試の際、誕生日によってグループ分けをして生まれ月による不利、有利をなくす配慮しているのだそうだ。
なるほどねえ……。今年妹が出産し、その姪っ子に何ヶ月おきかで会っているのだけれど、そのたび成長ぶりに目を見張る。小さいうちほど月齢差が大きなものになることは間違いなく、幼稚園児くらいの頃であればそれは落ちつきや受け答えに表れるだろう。早生まれの子を持つお受験ママにとっては不公平に感じられるに違いない。
しかし、これはいまに始まった話でもなさそうだ。私の知り合いに四月二日生まれの人がいる。でも本当は一日生まれ。親が誕生日をずらしたのだという。
四月二日生まれと翌年の四月一日生まれでは正味一年違うが、学年は同じになる。いまも昔も「幼稚園や小学校でみんなについていけるか」を心配する親心は変わらないのだろう。

……とここまではふうん、へええと聞けたのだけれど。「早生まれは人生において損か、得か」という議論になるとちょっとついていけない。「ひとりっ子と兄弟のいる子、どちらが幸せか」に通じるものを感じる。
Yahoo!投票を見ると、「損だ」が三十五%を占めている。運動や勉強で遅れをとった当時を思い出して、あるいはわが子がそうであることを不憫に思ってそう回答している人が多いようだが、「だから人生損をしている」と言い切ってしまうのは少々寂しい気がした。これが苦労の渦中にいる子どもへの質問の結果であるなら、そっかあと相槌を打てるのだけれど。
たしかにその昔、みんなより体が小さかったりなにをするにも時間がかかったりする切なさを味わったかもしれない。けれども、その時期を通り過ぎて二十年、三十年たっても「ははは、べつに損も得もないよ。幼稚園、小学校時代が人生のピークじゃないんだからさ」とはならないものなのかなあ?
私もこれから誕生日を迎えるクチなので四月生まれよりは三月生まれの人に近いが、子どもの頃に自分よりできる子を見て「誰それちゃんは私より○ヶ月も生まれるのが早かったもん」というような発想はしたことがなかった。私が前向きな子どもだったというわけではなく、月齢差というものに気づいていなかっただけであるが、当時そんなことを知っている必要はなかったと思う。

「誕生日が三月三日だから、ひな祭りのお祝いと一緒にされる」とぼやいていた近所の友達はスポーツ万能少女だったし、頭がよくてリーダー格だった男の子も年が明けてからの生まれだった。そういう記憶があるので、私の中には身体能力、学習能力は生まれの早い遅い以外の要因の影響もかなり受けるのだろうという思いがある。
学年は同じでも子どもの条件はひとりひとり違う。いつもお兄ちゃんお姉ちゃんにくっついて遊んでいる子は言葉や運動能力が本来より早く発達するだろうし、弟や妹がいてよく面倒を見ているとか両親が共働きで家の留守を守っているとかいう子も同じ年頃の子より早く自主性や責任感を身につけるかもしれない。男の子か女の子かでも違ってきそうだ。小学生のうちは女の子のほうがおとなびている。
そういうさまざまな要素が反応しあってその子の性格や発育のスピードが決まるのだと考えるから、私が自分の子どもに「あなたは早生まれだからかわいそうね」とか「あなたは四月生まれなのにどうしてできないの」とか言うことはたぶんない。
人間ははじめから平等でなどない。容姿、運動神経、頭の回転の速さ、体の丈夫さ……あらゆる項目についてその恵まれ具合はみな一律ではなく、それこそ生まれたときから不公平だらけだ。
けれども、人は自分に与えられた環境の中でどう生きるかを考えるしかない。月齢差に起因する不利、有利も甘受するところから始まる「生まれつきの個人差」のひとつではないだろうか。


夫の誕生日は三月の末なので、究極の早生まれである。で、念のため訊いてみた。
「それでなんか損したことあった?」
細かいことを気にするタイプでなし、ま、この人にあるわけないわよね……と思っていたのに、「ある!」と勢いよく返ってきたからびっくり。
「みんな免許とってバイクで遊びに行くのに、僕だけいつまでも自転車だった……」
友達のバイクを追いかけて必死に自転車を漕ぐ、ひとりなかなか十六歳になれない少年を思い浮かべたら、切ないやら可笑しいやら。なるほど、そういう不便はたしかにあるわね。
でももうこの年になったら、一年なんて誤差みたいなものだもんね。


2006年12月04日(月) 婦人科検診を受けてきた

「早いとこやっちゃわないとなあ……」と思いながらもどうにも気が進まず、先送りにしてしまっていることは誰にもひとつやふたつあるだろう。先日私はようやく決心して、それを片付けてきた。
なにかというと、乳がん、子宮がんの検診である。
年に一度会社が受けさせてくれる健康診断は本当に基本的な項目だけで、婦人科検診なんてものはない。なので、数年前から「三十過ぎたし、受けに行ったほうがいいよなあ」と思っていたのだ。
けれども、私は産婦人科というところに足を踏み入れたことがない。それに加え、どんな検査が待っているのかと思ったら腰が引けてしまい、今日に至っていたのである。

しかし、このあいだ年上の友人にその話をしたら、「あかんやん、ちゃんと行っとかんと」と叱られてしまった。あら、てっきり「私も、私も」と言われると思っていたのに。
「……なあんてね。私も小町ちゃんの年の頃は行ってなかったから、えらそうには言えんねんけど」
彼女も長いこと私と同じ気の重さで婦人科検診を避けてきたのだが、何年か前に子宮頸がんで子宮を摘出したタレントの向井亜紀さんが「女性は三十過ぎたら受診して」と呼びかけているのを見て、一念発起したのだそうだ。彼女はここまで異常なしできているが、知り合いにはたまたま受けた検診で子宮の病気が見つかったという人もいるらしい。
「とくに乳がんが怖いなあと思ってて。私なんか四十過ぎてて未婚で出産経験なくて酒飲み……って危険因子山盛りやから、用心しとかなな」
実は私も、ピンクリボンキャンペーンでYahoo!JAPANのページがピンク色に変わる時期はいつもどきどきするのだ。日本人女性の三十人に一人がかかるといったら、クラスに一人以上の確率である。まったく他人事ではない。
「市町村が実施してる検診は何百円とかで受けられるはずやで」
ということで、私は今月「誕生月検診」を受ける決意を固めたのである。

しかし、行くと決めたところで恥ずかしいものは恥ずかしい。調べてみたら、週に一度女性の先生が担当になる日がある病院を見つけた。よし、ここにしよう!
……と思ったのだが。それは平日なので、仕事を半休しなくてはならない。
「そこまでして女医さんにこだわるのって馬鹿げてるかなあ……。いや、でもやっぱり男の先生はちょっとなあ……。ああ、どうしたものか」
頭を抱えていたら、「べつにどっちでもいいじゃん」とのんきな夫。思わず声が荒くなる。
「あのねえ、私は歯科検診に行くわけじゃないの。婦人科なの、婦人科。“あの台”に乗らなきゃならないの!」
そうしたら、「あの台ってなに?」と返ってきてがっくり。
「……もういい」
私はそれを伝えるのを断念した。


結局、週末に自宅近くのレディースクリニックに行くことにした。確認の電話を入れた際に注意事項があるか訊いたところ、「スカートでお越しになったほうがよろしいかと」と言われて怖気づいたが、じたばたしてもしかたがない。
で、当日。かなり混むと聞いたので会社に行くよりも早い時間に家を出たのだが、八時半に着いたらすでに開院を待つ人の列ができている。最後尾は若いカップル。その後ろに並ぼうとしたら、男性が大慌てで立ち上がり、私のために丸イスを空けた。そうか、これが産婦人科なんだなあ。
男性はドアが開いても中には入らなかった。「じゃあここにいるから」と彼女に言っている。
ふうん、こういうとき夫は付き添わないものなのかしら?と思ったが、病院ならともかく小さなクリニックの待合室というのは男性にとってはかなり空気の薄い場所なのかもしれない。

さて、検査はどんなだったかというと。
あれほど憂鬱だった乳がん検診であるが、拍子抜けするくらいどうということもなかった。少し前に会社の健康診断で聴診器をあてられたとき、胸元を全開にしているわけでもないのにその男の先生は首を九十度曲げ、ずっと横の壁を見ていた。女性相手だと余分な気を遣わなくちゃいけなくて大変だなあと気の毒になったくらいだが、乳がんの検査をする先生はもちろんそんなふうに目をそらしているわけはない。ベッドに横になった状態で視診、触診を受けたわけだが、「自己チェックするときはこうすればいいのか」と思いながらだったためか、覚悟していたような恥ずかしさは感じずに済んだ。

しかしながら、子宮がん検診のほうは想像していた通りであった。検査自体はあっという間なのだが、あの台……そう、内診台に腰掛けるのにやはり少々勇気がいった。
「下に履いているものを脱いで座ってください」と言われ、友人は靴下まで脱いでしまったらしい。靴下は関係ないやろ!と大笑いしたが、まあ、初めてのときは緊張のあまりそういう失敗もしてしまうかもしれない。
内診台をご存知ない方のために説明すると、見た目はマッサージチェア。違うのは、ふくらはぎを乗せる部分がついていることと、カーテンが吊るされていて座るとおなかから下は見えなくなること。それが電動で後ろに倒れ、同時に診察しやすいよう両足も広げられるようになっている……。
こればかりは「いっぺん経験したから次からはもう平気」とはいかなさそうだ。

* * * * *

身支度をして診察室に戻り、乳がん検診の結果を聞く。異常なしとのことで胸をなでおろす。子宮がん検診のほうは後日の通知であるが、それでもすっかり気分が軽くなった感じ。婦人科検診は数年来の宿題だったものなあ。
これを読んでいる女性の中にも二の足を踏んでしまっている方が少なくないと思うけれど、どちらの検診もそれぞれ五分か十分くらいのもの。痛みもないし、安心を得るためなら耐えられる程度の恥ずかしさだよ。勇気を出して受けに行きましょう!(私はこれからは毎年受けます)


2006年12月01日(金) 人付き合い

先日、『週刊文春』で劇団ひとりさんのエッセイを読んだ。
自分には友人が少なく、親友にいたっては一人もいないかもしれない。なぜか。人と深く付き合うことを避けてきたから。人間嫌いというわけではないのだが、人といると相手の顔色を見たり場の空気を読んだり本音を呑み込んだりしなくてはならないので疲れてしまう。そんなのは仕事場だけで十分なので、飲みに誘われても断ることが多い。
……という話を酒の席である人にしたところ、「素直な自分でいればいいんだよ」と言ってくれたので、「じゃあ眠いので帰ります」と言って失礼したら、以後連絡がない。そういう“素直”な人にならないようにするにはよほど気を遣わなくてはならない、それが嫌だからプライベートは一人でいたいのだ------という内容だ。

人との関わりを最小限に抑え、できるだけ“我慢”をせずに済むようにしようという考え方にはあまり魅力を感じない。コミュニケーションは生活するのに必要な分だけで結構、という人が世の中にあふれたら不気味だとも思う。しかしこの文章を読んで、「まったくの他人事でもないぞ」とはっとすることがあった。
ある朝、入社したばかりでまだ挨拶しかしたことのない女性と駅のホームで一緒になった。会社に向かって歩きながら話していたら、偶然私と彼女が同じアーティストのファンであることがわかった。どのアルバムを持っているか、どの曲が好きかといった話でひとしきり盛り上がった後、彼女が言った。
「そうだ、小町さん、今度一緒にコンサート行きません?MCもすっごくおもしろいんですよ」
「そうなんだー。でもチケット取るの難しいよお」
このとき私が行くとも行かないとも言わず、チケットうんぬんと返したのは彼女の誘いにひるんだから。
コンサートには興味がある。しかし、私と彼女はほんの十分前に初めて言葉を交わし、どの程度気の合う相手であるかもわからない。そのため、「行きたい!」より「ちょっとしんどいな……」という気持ちが先に立ったのである。
「この人と休日の一日を楽しく過ごせるだろうか」なんて心配はまるでしないで私を誘う彼女のフレンドリーさには驚き、感心してしまった。
と同時に、身近にもそれほど親しくない人と一緒にいても苦にならないという特技を持った人がいることを思い出した。
ひとりは私の親友。彼女は「自分の友人とその友人たち」というメンバーで、つまり自分が知っているのは一人だけで残りは全員知らない人、という状況でも平気で旅行に行く女性である。
「私の友達と仲のいい人たちが私と気が合わないってことはないでしょ?」
知らない人ばかりで楽しめるかな、気疲れするんじゃないかしら……なんてことはまったく考えないという。
そして私の夫もこういうタイプ。出張の多い人だが、夕食をホテルの部屋でひとりで食べることはほとんどないようだ。その日訪ねた取引先の会社の誰かしらと食べに行っているらしい。
友人の家に遊びに行くと、私と入れ違いでどこかに出かけて行ったり別の部屋に引っ込んだまま出てこなかったりするご主人がいるが、夫は客人歓迎の人だ。一緒にテーブルにつき、自分の友人でもあるかのように会話に参加する。
物怖じせず、行く先々で交友を広げていく。自分の手でそこを居心地のよい場所に変えていく。私は親友と夫のそういうところを尊敬している。順応性が高いというのはそれだけ人間が柔軟でタフということだもの。

私は「誰かといると疲れるから一人が一番」というふうに思ったことはない。けれども、私が「この人となら楽しく過ごせる」という確信のない相手を誘うことはない、つまり気心の知れた人としか遊ばないのはやはり「気を遣うのは疲れるから嫌」だからなのである。
社交的で人見知りをしない私の中にも、人付き合いにかける労力を惜しむ気持ちはしっかり存在していたのだ。

* * * * *

考えてみると、その「水入らず」を求める気持ちは年々強くなってきている気がする。
誰かと親しくなろうと思えば、最初は少々無理をしなくてはならない。共通の話題を探したり、興味がなくても相手の話ににこやかに相槌を打ったり、時折訪れる沈黙に耐えたり。そのプロセスなくして知り合い以上の間柄になることはできない。
……とわかっているのに、それを億劫に感じることがある。「がんばって」新しい友人をつくろうとするより、「がんばらなくて済む」すでに気心の知れている人といるほうを選んでしまうのだ。これでは友人の数が右肩下がりになるのも当然。
親しい人もそれほどでない人も一緒ににぎやかに遊ぶのが好きだった二十代前半くらいまではいまよりもずっとバイタリティがあったよなあと思い出す。話題を選んだり、丁寧語で話したり、遠慮をしたり。それしきのことで疲れたりしなかったし、なにより知り合いが増えるのがうれしかった。
それがいまやすっかり、「大人数より少人数のほうが落ちつくわ」「世界は広がらなくてもいいから気楽なほうがいいや」。これがどんどん進行したら、劇団ひとりさんのようになってしまうのかもしれない。

昔はどうということのなかった刺激をストレスに感じてしまうというのは、根気や忍耐力が衰えているということだろう。「面倒くさい」と思うことが増えたり欲を失ったりするのは、心の体力が低下している証拠である。
どうしてかしらん。精神が疲弊するほどなにかをがんばっている、ということはないんだけどな。