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2004年05月31日(月) 人の好みは千差万別だからこそ

「ちょっと聞いてよ、さっき駅でさあ」
職場の同僚が出勤したばかりの私をつかまえ、憤慨した様子で言う。
階段をのぼりながらふと顔をあげ、あっと声をあげた。前を行く若い女の子のジーンズのお尻の部分に十センチほど横に切れ目が入っており、肌がのぞいているではないか。
当の本人はまるで気づいていない模様。これは大変!と思った同僚は階段をのぼりきったところで女の子に近づき、「あの、ズボンが破れてます」とささやいた。
が、一瞬焦った素振りを見せた女の子にその箇所を教えたとたん、彼女は気色ばんだ。
「これは破れてるんじゃありません!」
同僚が「痴漢にでも切られたのだろうか」と思ったその穴は、なんとファッションだったのだ。
「信じられない、あれがおしゃれやなんて。だって、お尻の下のところがぱっくり裂けてたんやで!中身が丸見えやったんやで!」
親切心でしたことで思いがけず怒鳴られ、ぷりぷりしている彼女の話を聞きながら、私は数日前に新聞で見かけた投稿川柳を思い出した。高校生の男の子の作品だ。
「バアチャンが Gパンの穴 縫うてもた」
思わず口にしたら、彼女のご機嫌をさらに斜めに傾けてしまった。

人の趣味にケチをつける気はないけれど、ときどき自分には理解できないものを好む人がいて、驚かされることはたしかにある。
先日、夫の上司宅に招かれたときのことだ。キッチンで料理の盛り付けを手伝っていると、奥さんにフリーザーの中の里芋を取って、と言われた。
扉を開けたら、ポケットの白いビニールに包まれたなにかが目に入った。袋の上からなぞってみると、丸くてコロコロとした感触。里芋にしては少し大きいなと思ったものの、まあこれだろうとテーブルに置くと、「あら、それじゃないわ」と奥さん。
「それは、マウスよ」
きょとんとしていると、にっこり笑って「あの子のごはん」と言う。奥さんが指差す方向には大きな水槽。といっても、水は入っていない。底面に新聞紙が敷かれており、温度計がついている。おそるおそるのぞき込むと、伏せた植木鉢の中にいたのはとぐろを巻いたヘビであった。
そう、私がさきほど袋の上から触ったのは、これの餌になる冷凍ハツカネズミだったのである。私は手にしたそれを空中に放り出したい衝動を必死に抑え、あわててフリーザーに戻した。
「あ、あの、餌やるときって、やっぱ解凍するんですか」
「そうよ、電子レンジか湯煎で。人肌くらいに温めてやってね。でも湯煎は上手にやらないと、おなかが破裂して内臓が出てきちゃうのよね」
奥さんはそんなショッキングなことを、「コロッケってうまく揚げないとパンクするのよね」とまるで同じ調子で言った。私はとっさに「マウス解凍用の電子レンジ」を求めてキッチン内に視線を走らせたが、見つけることはできなかった。
生きているネズミであれば、私は怖くも気持ち悪くもない。百貨店の食品フロアで働いていた頃は、丸々と肥えたウサギ大のドブネズミがドタバタ走り回る中で閉店後のレジ閉めをやったものだし、毎朝、前夜に仕掛けておいたネズミ捕りにかかったそれをゴミ捨て場に持って行くのは、私たち新入社員の仕事であった。
しかしさすがの私も、カチンコチンになったネズミがふつうの食品と隣り合わせでフリーザーにしまわれているだとか、レンジで解凍されるだとかいう話を聞けば、ぎゃーと叫びたくなる。
「すっごくかわいいの。出してみる?」
「め、滅相もない!」
そ、そうか、これが「かわいい」のか。これを首に巻きつけたり、袖口から服の中に入れたりして遊ぶのか。ぜったい変わってる……。
と心の中でつぶやきかけて、いやいや、そんなことを言ってはいけない、と首を振る。人のセンスや好みが千差万別だからこそ、私みたいなのにもたまには好きだと言ってくれる人が現れて、幸福な青春を送ることができたんじゃあないか。
いや、もちろん、私はここまでキワモノではないつもりだけれども(彼らの名誉のためにもそう思いたい)。

【あとがき】
百貨店の食品フロアのネズミは本当にすごいです。お客さんがひけるとすぐに電気が消されるので、私たちは薄暗い中で閉店作業をするのですが、そうするとネズミが「ちゅるっちゅー!」と頭上やショーケースの上を躍りだすのですね。しかも彼らはイイもん食べてるので、むちゃむちゃでかくて、本当にウサギサイズなのですよ。で、それが朝になるとネズミ捕り(ゴキブリホイホイのお化けみたいなやつね)にかかっている。それを毎朝ジャンケンに負けた人間が、ゴミ袋に入れて捨てに行くわけです。重くてガサガサガサと音のするそれを。もう慣れちゃいました。


2004年05月28日(金) そんなつもりじゃ……(後編)

※ 前編はこちら

ある男性とどのくらい純粋な友人関係であるかを説明するとき、女性はしばしばこんな例えをする。
「彼とは同じ布団に入っても、ぜったいなにも起こらないと思う」
私がそれを耳にするたび思うのは、「ま、うらやましい」ではなくて、「まるで危なっかしさのない関係なんてつまらなくないのかな」ということだ。
私は友人であっても、「男の魅力」というものを感じさせてほしいと思うほうである……などと言うと、恋愛するわけじゃないんだからそんなものいらないじゃないと言われてしまいそうだが、私は「男」であることをこちらにまったく意識させない男性にはあまり興味が湧かないのだ。すなわち私が友人と呼べるくらい親しくなるのは、ときには理性で自分を律する必要があるくらい魅力を感じている男性、ということになる。
こんな私であるから、彼らの中で性別を超えた存在になりたいと思うこともない。いくら人間として認めてくれていても、「こいつとどうこうなんて、太陽が西から昇ってもありえない」と思われるのは不本意である。「友人」という言葉で言い表す関係ではあるが、私の場合、男性と女性とではその成分は同じではないようだ。
よって、「友人であってもそちら方面のことをつい思い浮かべてしまうものだ」というAさんの言葉は決して不愉快な事実ではない。
しかしながら、そんな勝手な!とひんしゅくを買うことを覚悟で言うと、えいっと腕をからめたときに「えっ、じゃあ今夜いいの?」と目を輝かせるのではなく、「ったくしょうがないなあ」とでも言いたげなクールな表情で左脇を緩めてくれる……そんなシチュエーションが私の理想なのだ。
内心はどきどきしているのだけれど、それはおくびにも出さない。自分たちの関係においてそういうスキンシップが適切なものでないことを理解していて、「今日だけだからね」と諭しつつ付き合ってくれる----早い話が、「私より大人の男性であってほしい」というリクエストである。
しかし、Aさん曰く、「男の性欲は女性のそれの三十倍」。「腕を組む」の延長線上に「ホテル」はないとか、“イケナイこと”も一瞬思い浮かべてほしいけど、それは私には見せないでとか。これを男性に理解してというのは、やはり無理な相談か……。
そろそろ「いい加減にしろ!」と石つぶてが飛んできそうなのでこのへんにするが、「そんなに大層なことだとは思ってなかった」というのが正直な感想である。
それにしても、こういう話を書こうとすると、材料をすべて過去から調達してこなくてはならないのがナンだなあ。こういうときは「既婚者ってツマラナイ」とちょっぴり思う。
以上で後編はおしまい。

実は前編をアップしたあと、たくさんのメールをいただいた。
「腕を組まれたらホテルに誘うのが礼儀とすら思う」といった男性の声が届くことはある程度予想していたが、驚いたのは、何人かの女性からの「スキンシップしたいなんて思ったことないですよ!」というもの。
え、もしかして私だけ?と思ったとき、私の中に湧きあがってきたひとつの疑問。じゃあ世の中にはどうしてこんなにハグ好きがたくさんいるの。
以前あるオフに参加したら、私を除く四人のうち三人が「ハグっていいよね」「あいさつがわりにするよ」な人で、私はええ!と声をあげたものだ。
昔から日本にある習慣であるなら、どういう種類のスキンシップであろうが「そういうもの」と思えるが、ハグはそうではない。そのアクションだけを見れば、「抱き合って頬を寄せる」なんて瞬間的とはいえ、腕を組むよりもずっと密着度が高いではないか。
その証拠に、別れ際にそれを初めて経験したとき、私は猛烈に照れてしまったのである。私にとっては腕を組むよりこちらのほうがよっぽどシャレではできない。
が、ハグをする人たちがそのたびにムラムラしているとは思えない。ハグはへっちゃらでエッチな気を起こさないのに、腕を組むとどうしてとたんに色っぽい方向に思考が行くのか……。
この差はなんだ?誰か説明してほしい。

【あとがき】
どうやら私は性別を切り離して人間を見ることが苦手みたい。男の人は男の人であってほしくて、自分も誰の前でも女性でありたい。私の場合は友情の延長線上に恋があるんだと思います。うん、もちろんそこにまで達する友情はきわめて少ないけれど。いままでそういうところに誘われたり、「俺のこと好きなのか?」なんて勘違いされたこともなかったから、向こうも同じように「いまだけもうちょっと盛りあがりたい」だとばかり思ってました。 こんなこと言ったらどつかれそうだけど、「そんな大層なことだったとは」というのが正直なところで、私にとって「腕を組む」というのは他の人ほどハードルの高いことではないんだなとわかりました。世間との基準のずれに気づいていないのって、まったく傍迷惑な話ですね。今後は気をつけます……って私に今後はないのでありました。いまごろ気づいても遅い!


2004年05月26日(水) そんなつもりじゃ……(前編)

数日前にアップした「右か、左か」というテキストの中で、
「私は利き顎が右だから、人の左側にいなくては落ちつかない。男性とちょっといい雰囲気になっても、自分が右側を歩いていたらさりげなく腕をからませるといった真似はできない気がする」
と書いた。そしてそのあと、私はある男性日記書きさん(Aさんとする)にこんなふうに“つづき”を話した。
「すてきな男性と歩いていて、手をつないだり腕を組んだりしたいなと思っても、右手でならすんなりできそうなことが左手では無理っぽい。だから、そういうことを自制しなくてはならないシチュエーションでは、私は相手の右側を歩くようにすればいいんです」
いい感じでお酒が回り、夜道を歩きながらステディな関係ではない男性とちょっとしたスキンシップをしてみたいと思ったことは、多くの女性に覚えがあるだろう。しかしながら、Aさんの返答は私を少しばかりあわてさせるものだった。
「女性から腕を組んできたら、男が勘違いする可能性はかなり高いと思いますよ。ふつうはOKサインだと思うでしょうね」
私ならそのままホテルに行っても不思議はない、とおっしゃる。OKサインとは、つまりそういう意味だ。
そして、そういうスキンシップを望む相手に対して「抱かれたい」という気持ちはないのかと不思議そうに尋ねるのである。
「いやいやいや!」
モニターの前で、ちぎれんばかりに首を振る私。腕を組むのとホテルに行くのとはまったく別次元にある事柄である。
気分が高揚したついでにいたずら心や甘えのようなものが働いて、同性の友人は与えてくれない「なにか」をちょっぴり求めたくなることはある。が、「腕を組んで歩いてみたいナ」は文字通りそれだけのことで、その先に望むものはない。
だから、そんなことをしたら「お、脈あり」なんて思われてしまいそうな相手にはもちろんできない。そのあたりの気持ちをちゃんとわかってくれる人を選ぶもん。
しかし、Aさんはそんな私に「小町さんはオトコという生物を誤解しているかもしれない」と言う。
「たとえ友人であっても女性から腕を組まれたら、男がそちら方面のことを考えないはずがないのです。立場上、心のままには行動しないだけで。オトコと思わなくてもよいのは、親兄弟を除けば第二次性徴期前の子どもくらいのものですよ」  (後編につづく)

【あとがき】
ありますよね、恋人でない男性と一緒にいるときに手をつないでみたいなとか思うことって。料理が美味しかった、夜景がきれいに見えた、会話が楽しかった、もうちょっと盛りあがりたいの、な気分のときに。相手がどういう反応をするか見てみたいという好奇心もあります。あ、でも安心してね、もしあなたに腕を組んでくる女の子がいたら、きっと「その気あり」だから。私みたいな「腕組みたい、まじでそれだけ」なんてトンチンカンなのはあまりいないと思うから、誘ってあげてね。


2004年05月24日(月) 匿名にする理由

親しい日記書きさんとの会話やいただいたメールの内容に日記の中で触れたいと思ったとき、多くの書き手がそうしている(であろう)ように、私もまた「あの話、書いてもいいですか?」と先方に確認を取る。
そして、「どうぞお好きに」と言ってもらえたら、私がもうひとつ追加で尋ねることがある。それは「発言の主があなたであるということを読み手に悟られないように書いたほうがいいですか?」だ。
日記に誰かのことを書くとき、私は基本的に「ある友人が」「ある日記書きさんが」にすることにしている。相手の名を出さなければ話ができない、あるいはそれを明かしたほうが面白くなる場合を除き、リンクを張って、誰それさんとなにをしたと書くことはない。
私はお付き合いのある書き手のほとんどと活動の場所、すなわち登録している日記リンク集を共有しているため、読み手の輪が重なっていることが予想される。確かめようはないものの、その重なり具合が半端でない場合もきっと少なくないだろう。相手によっては「八十パーセントくらいかぶってるんじゃないか」と思うこともあるほどだ。
そんな中で、私が「○○日記の△さんと食事をして、これこれこんな話をした」と名を出して書いたとする。当然ながら、読み手には私と△さんが付き合いがあること、どのくらい親しい関係かといったことが伝わる。それは私が自分のプライベートを明かすに留まらず、△さんの交際範囲や行動をも第三者(読み手)に公表することになるということだ。
相手のプライベートをも自分が語ってしまう----了解を得ているとはいえ、これは意外とデリケートなことではないだろうか。多少デフォルメして書くこともあるし、私自身の評判が読み手の中の△さんのイメージに影響を与えないとも限らない。オフレポはお祭り事だから遠慮はないが、それ以外ではとくに必要がなければ匿名にする。そのほうがのびのび書けるし、こちらも気が楽なのだ。
ただし、名を伏せただけでは、両方の日記を読んでいる人には「これって△さんのことでは?」とピンとくることもあるだろう。それは書かれた側にとっては恥ずかしいことかもしれない。
また、△さんが男性である場合にはこんなことも思い浮かべる。ピンときた人の中に、彼が水面下でアプローチ中の女性が混じっていたらどうなるであろうか。
「ま、あの人ったら私以外の女とも親しげにやりとりをして。きっとあちこちに粉かけてるのね」
なんてことにもなりかねないではないか。「うん、そういうこともあるかもしれないわ」と私に気を回さずにいさせない(活動的な)男性も周りにはちらほらいるのだ。
そんなわけで、日記中での露出の程度を決めるため、私はあらかじめ「万が一にもばれないよう配慮する必要がありますか?それとも、わかる人にはわかっちゃってもかまわない?」と確認する。

次回はある男性日記書きさんとメールで話したことについて書く予定。この方の返事は後者だったので、ぼかしは少なめで書かせていただこう。

【あとがき】
誰かのリンクページを見たら、びっくりするほど自分とブックマークしている日記が重なっていることがあります。こういう系統のテキストが好き、というのは存在するものなんですよね。仲良しと話していて、その人の口から出た日記書きさんを私が知らなかったり、読んだことないわ、っていうときはほとんどありませんし。私はいまふたつの日記リンク集に登録していますが、ある層の書き手さんとは読み手が恐るべき確率で重なっているのではないかと思います。


2004年05月21日(金) 「持っていてもらわないと困る」とあなたは言うけれど。

今朝の朝刊に五十代の女性が書いたこんな投書が載っていた。

息子と同年代の職場の若い男性ふたりが、「彼女からメールが来ない」「おまえが送り過ぎなんや。返事が来るまでとにかく待て」といった会話をしているのを微笑ましく聞いていたら、突然私にお鉢が回ってきた。
「昔はメールなんてないし、デートの約束はどうしてたんですか?」
三十年も昔のこと、公衆電話から寮にかけて呼び出してもらったり、待ち合わせ場所で待ちぼうけをくわされたり……。青春時代を思い出して心が温かくなった。
「送信即応答」に慣れたいまどきの若者にも、あの頃のようないじらしいときめきを体験してほしいと思う。


思わず頷く。ああ、わかるなあ、「いじらしいときめき」って。
私が恋にもっともひたむきだったのは十数年前、大学生の頃のこと。ポケベルを持っている人がちらほらの時代であったから、彼の声が聞きたくなったら自宅に電話をかけるしかなかった。
いまの若い人はどうだか知らないが、当時は自室に個人専用の回線を引いている人なんていなかったから、家族の誰か、たいていは彼の母親に取り次いでもらわねばならなかった。
「こ、こんにちは、小町と申します。あの、タロウ君はいらっしゃいますか」
「はいはい、ちょっと待ってやー」
たったこれだけのことなのだが、やはり緊張するのだ。父親が無愛想にただ「はい」とだけ電話に出たときなど、「間違えましたあ!」と切ってしまいたくなったし、声がそっくりな彼の弟に嬉しげに話しかけ、恥をかいたこともある。彼が電話口に出てくれるまでの数十秒間を、私はいつも息をつめ、どきどきしながら待ったものだ。「もしもし」が耳に届いた瞬間の安堵はいまも覚えている。
それでも、自宅に電話をするのは苦ではなかった。
「タロウ!電話ー!小町ちゃんからやでー。ちょっとジロウ、お兄ちゃん寝とんちゃうか、起こしてきたって、はよう、はよう!」
耳を澄ましていると聞こえてくる受話器の向こうの声にクスッとやったことは一度や二度ではない。
このお母さんとはついにお目にかかることはなかったけれど、「よかったら使って」と彼経由でプレゼントしてくれたイヤリングは、実はいまでも取ってある。いかにも大阪人の、男の子ふたりの豪快な「おかん」という感じの人だったけれど、お元気でいるだろうか。
携帯になら深夜であろうが早朝であろうがかまわないだろうが、自宅へは二十二時を回るとかけることができない。寂しければ布団をかぶって寝てしまうしか法がなかった。
“門限”のある自宅への電話にはそんなせつなさ、もどかしさもあったけれど、私は決して嫌いではなかったし、あれはあれでよかったように思う。

このご時世にあって、私は携帯電話を持っていない。その肩身の狭さについては以前にも書いたことがあるが(「携帯持たず者の苦悩」参照)、周囲はやはりしきりに私に携帯を持て、持てと言う。週末に会う予定の友人など、私が持っていないことを「不便を通り越して迷惑だ」とまで言うのである。
「なんでやの、あなたが約束の時間に約束の場所に来てくれりゃ会えないわけがないのに」
「そりゃそうやけど、寝坊するかもしれんやん」
「持っていてもらわないと困る」とあなたは言う。けれど、携帯がなかった時代、私たちにとって待ち合わせはそんなにむずかしいことだった?
突発的ななにかが道中に起こる、なんてそうめったにあることではない。目覚ましをセットしてきちんと時間に起き、五分余裕を持って家を出たら、百回のうち九十八回は問題なく約束の場所にたどり着けるはず。
この十年のあいだにそれがなくては待ち合わせもおぼつかないほど人間が忙しくなったわけではない。あの頃誰もが当たり前に持っていた「遅れてはならない」という責任感と誠意が薄れてしまった、それだけのことではないのかな。
相手が携帯を持っていないのはたしかに便利なことではない。しかし、それは「不便」とはちがうのだ。

※参照過去ログ 2003年11月25日付 「携帯持たず者の苦悩

【あとがき】
初めての人に会うときには困るじゃないかって?なに言ってんのよ〜、どきどきするのがまたいいんではないですか!とくに未知の男性と待ち合わせのときなんて。「あの人だったらいいのに」とか「あれだったらどうしよう……」とか思いめぐらせつつ互いの出方を探る、このスリル。
……っていうのは無理があるかしら。でも、私は日記で知り合った方や紹介された会社に面接に行くときに派遣会社のコーディネーターさんと待ち合わせをすることがちょくちょくあるけど、出会えなかったことは一度もないですよ。目印を決めておいて、互いが約束を守れば大丈夫なものなのです。


2004年05月20日(木) 右か、左か

先日、家で使うためのめがねを買いに行ったときのことだ。
接客がとてもていねいな店だったので、私の写真にいろいろなデザインのめがねを重ねていく「バーチャル試着」なるものをさせてくれたり、検眼のときの「赤と緑、どちらがはっきり見えますか」の意味を教えてくれたり、と発見の多い楽しい時間を過ごすことができた。
なかでも面白いなあと思ったのは、腕や足と同じように目にも右利き、左利きがあるという話だ。両目で均等に物を見ているつもりでも、実はどちらか一方がひそかに主導権を握っているらしい。
その見分け方。両目を開けた状態で正面に手を伸ばし、指でOKサインを作る。丸の中になにかターゲットを収め、腕を動かさないよう注意しながら片目ずつつぶる。このときターゲットが丸の中から外れない方の目が「利き目」だ。
私は左目という結果が出たのだけれど、そういえばカメラのファインダーを覗くとき、自然に右目をつぶっていることを思い出し、なんだかとても納得してしまった。
と同時に、数日前からまるで寝違えたように首が痛かった理由がひらめいて、膝を打った。
会社の近くに美味しい串カツを食べさせてくれるところがあるというので、職場の同僚六人で出かけた。すると、どういうわけか案内されたのはカウンター。
「予約してたのになんで?」
「この席でどうやってしゃべれって言うん」
しかし、何週間も前から「今日は串カツ」と楽しみにしていた私たち、いまさらほかの店を探す気にもなれない。結局、六人横一列に並んで食べることになった。
さて、あなたは「利き顎」というのをご存知だろうか。ガムを口に入れたときに最初に噛んだ側がそうなのであるが、それによって体を向けやすい方向が決まる。右が利き顎であれば右側に首を振りやすいということになる。

あなたのいない右側に
少しは慣れたつもりでいたのに
どうしてこんなに涙が出るの
(M/プリンセス・プリンセス)

さよならと言った君の
気持ちはわからないけど
いつもよりながめがいい
左に少し とまどってるよ
(もう恋なんてしない/槇原敬之)


歌詞の中にもこうした描写をしばしば見かけるし、たしかに街で見かけるカップルも「男性は右、女性は左」という図が多い気がする。しかし、実際には利き腕と同じように利き顎も右の人が多いというから、男性は実は知らず知らずのうちに無理をさせられているのかもしれない。
かくいう私も相手の右側にいるとなんとなく落ちつかない。男性と歩いていてちょっといい雰囲気になったとしても、さりげなく腕をからませるような真似はできない気がする。
その昔、私と同じく自分が左でないとしっくりこないという男性と付き合っていた頃は、デートのたびに熾烈な“左争奪戦”を繰り広げたものだ。さりげなさを装いつつ、互いに隙あらば相手の左側に回ろうとするものだから、歩いているうちにどんどん左に寄っていく。しまいには道の端で縦列になって歩いていたりするので、後ろから見ていた人はさぞかしおかしなカップルだと思ったことだろう。
よって、カウンターで食事をするようなときも私は必ず左側をキープするのだが、串カツの店では「えー、そんなあ」とかなんとか言っているうちに、気がつけば一番右端の席に座っていた。そこで三時間近く首を左にひねって話しているうちに、すっかり筋肉痛になってしまった……というわけだったのだ。
もし今後なにかの折りにあなたが私とそのようなシチュエーションになることがありましたら、おとなしく左を明け渡してくださいな。と、ここで言っておこう。

【あとがき】
「相手の左側が好き」というのにも例外があります。男性がさりげなく水たまりがあったり車が通る側を歩いてくれたりすると、私は気づかないふりをしますが、内心とてもぐっときています。


2004年05月17日(月) 話すこと。話さないこと。(後編)

そのときになってみなければわからないことであるのは百も承知で、自分ならどう振る舞うだろうかと考えてみた。
重要な事柄について「もう人に話しても大丈夫」と自分にゴーサインを出すタイミングは、私の場合かなり遅い。結婚が決まったときも、知らせないでいることによる不都合を感じないうちから周囲に言い触らしたりはしなかった。妊娠しても、見た目に変化が表れる前から「ウフフ、実はね」とやることはおそらくない。
そしてもうひとつ、ほとんど確信しているのは、サイト上で“オメデタ報告”なんてことはまずしないだろうということだ。
照れくさいとかその必要を感じないとか、そんな理由ではない。「成果を披露するのは好きだが、過程(舞台裏)を見せるのは好きでない」という性分とも無関係ではないのだろうが、それ以上に、その事実はおいそれと人に話す気にはなれない事柄として自分の中に位置づけられるのではないかという気がするからだ。
本当に大事なことについては誰とも共有したくない、そういう存在が自分の中にあることすら秘密にしておきたいと考える----そういうところが私にはある。恋の思い出や頭の中にあるものを公開するのは惜しくもなんともないが、「妊娠」は私にとって本物のプライベート、唯一のシリアスになるのではないか。こればかりは日記のネタになどして手垢をつけたくないと考えそうだ。

結婚の報告を入籍の直前、あるいは事後にさらっと書いて済ませる日記書きさんがときどきいるが、ああいうのはスマートでよいなと思う。
「こういう系統の話は書かない」という“NGテーマ”を持っている書き手は少なくないだろうが、私を惹きつけるのはプライベート中のプライベートは読み手に明かさない、つまり「家でのその人」をイメージさせてくれない人だ(女性の日記書きさんにそういう人がいないのはどうしてだろう)。
「話すこと」と「話さないこと」の線引きがきっちり存在し、自身の露出をコントロールしていることが伝わってくる人には知性や色気を感じる。もっともっと知りたいのに、懐にまで入れてほしいのに、それが許されない感じ。その“どうにも越えられない一線”に私は身悶えするのだ。
そういう意味で、林真理子さんのエッセイは私の理想だ。彼女は妊娠中もそのことは明かさなかったし、出産後のエッセイにも娘のムの字も出てこない。「子どもは商売に使わない」というポリシーのもと、「最初で最後の出産記」という文章でファンに出産報告をして以降は、夫は登場させても子どもの話は一切しない。「母」の顔をまったく見せないのだ。
「既に面白いものがたくさんあるので、私が育児エッセイやそういう類のものを書く必要はないだろう。子育てを楽しみながら、外では何くわぬ顔をして生きていきたい」
という彼女の言葉に大きくうなづく。「何くわぬ顔」は日記しか書けない私に真似のできることではないけれど、そのスタンスには憧れる。“子どもとワンセット”になった自分が書いた文章なんていかにもつまらなそうだもの。
……とかなんとか言っておきながら、何年後かにここでマタニティ日記を書いていたら。「小町さんのウソツキ!」のそしりは甘んじて受けます。

【あとがき】
あくまで「子どもの可愛さや育児の大変さを知らない現時点では」でしかない考えですが、ネットの中では、ちょっと無理をしても「母」の顔を抑えて個人としての自分を見せることができたらすてきだなあ…なんてことを思っているのですよ。いまも私は「妻」の顔よりも「女」としての顔を見せたいと思いながら書いているのだけど、それと同じですね。子どもの存在を伏せて日記を書きつづけることは不可能だけど、いま、日記に夫が登場するくらいの頻度に抑えられたら上出来じゃないかな、なんて思います。


2004年05月14日(金) 話すこと。話さないこと。(前編)

予想外の妊娠が発覚した同僚の話をつづける(前回の日記参照)。彼女を見ていて、「私には理解できないなあ」と思っていることがある。
予定日は来年の一月。つまり本当に妊娠が判明したばかりなのだが、その段階で彼女が職場でそれを公言してはばからないことだ。
独身時代、仲良しの同僚に給湯室に呼び出され、「赤ちゃんができた」と報告を受けたことがある。が、彼女はすぐに「でも誰にも言わないでね」と付け加えた。
「まだなにがあるかわからないから」
私は「そんな、縁起でもない」と返しつつも、それは賢明だと思った。身近に流産の経験者は何人もいる。聞けばその確率は十五パーセントというではないか。七、八人にひとりが流産するのであれば、悲しい話をこうもよく耳にすることも納得がいく。
同僚の喜びに水を差すつもりはないけれど、平気でジーンズが履け、自転車通勤できているうちから触れて回ることはないんじゃないのかな、とは思う。
などと言うと、「あなたはそれがどんなにうれしいことか知らないから、そんなことが言えるのよ」と言われてしまいそうだが、“百分の十五”に自分は入らないといったい誰に言えるだろう?出産までたどりつけなかったとき、そのことを親しくもない人たちに知られてしまうのがどんなにつらいことか。
以前勤めていた会社に破談になったために寿退社の予定を取り消した女性がいたが、周囲の人間の目にはそれ以上に痛々しく映るだろう。それは女性の心にさらなる負担をかけるはずだ。四時間のパート勤務、「テレコミュニケーター」という完全な個人ワーク、急な休みも取りやすく、いますぐ退職するわけでもない。あわてて職場の人間に報告する必要もメリットもどこにもないように思える。
妊娠十二週以降になると流産の確率はぐっと下がるという。どうして可能なかぎり遅らせようと考えなかったのだろう、と私は不思議でしかたがない。
私は出勤するといつも、彼女とあいさつを交わすまで、「今日も昨日と変わらぬ彼女だろうか」と胸がどきどきするのである。

誰彼かまわず話したくなるくらい幸せなことなのだというのはわかる。しかし、彼女が自分の身にもそういうことが起こりうるということをまったく考えていないとしたら、いささか能天気な気がする。
それとも、こんなめでたいことにも「用心」の必要を感じる私が悲観的すぎるのか。 (後編につづく)

【あとがき】
私は新卒で入社した会社を七年目に寿退社したのですが、私が部長に退職の意向を伝えた翌日から、会う人会う人に「できちゃったんだって?」と言われるようになり、びっくり。「誰がそんなことを」「部長が『小町さんがオメデタで退職する』と言っていた」と言うのですね。それで「変な噂流さないでください“オメデタイこと”と“オメデタ”はぜんぜん違いますっ」と文句を言いに行ったら、「わしはオメデタで退社すると言っただけで、妊娠してるなんてひとことも言ってないぞ」「ほら、やっぱりオメデタって言ってる!」「なにを言う、わしらの世代は結婚のことをオメデタというんだ」えー、オメデタといったら普通は妊娠でしょー。50代後半の部長だったけど、ほんとにその世代は結婚=オメデタなんでしょうか。


2004年05月12日(水) その可能性をきっぱり否定できる女性はどのくらいいるのだろうか

ゴールデンウィーク前に、「歯が痛いヨー!」と大騒ぎしたことを覚えておいでだろうか。突然降って湧いた痛みにびっくりして、近所の歯科医院に飛び込んだときの話だ。
受付で初診であることを伝えると、問診票を渡された。「アレルギー体質ですか?」「大きな病気をしたことはありますか?」といった質問が並んだあれだ。過去、この中に私が「はい」と答えなくてはならない項目が用意されていたことはない。私はためらうことなく、次々と「いいえ」に丸をつけていった。
が、今回はひとつだけ、円を描ききってから「ちょっと待てよ」と読み直した質問があった。
「あなたは現在、妊娠していますか?」
既婚、未婚にかかわらず性生活のある女性で、こう尋ねられて「いいえ、していません」と確信を持って答えられる人はいったいどのくらいいるのだろう。
基礎体温をつけていない女性が自分が「妊娠中でない」ことを確認できるのは月に一度だ。質問されるタイミングによって、自分でもどうなのかわからないということも十分ありうる。
しかし、レントゲンや麻酔、処方される薬のことを考えたら、「たぶんないと思うけど……」で「いいえ」と答えるのはためらわれる。しばらく悩んでから、私はその隣りに「なんとも言えない」という選択肢を付け加えた。
受付の女性は言った。
「では、妊娠のご予定はありますか?」
問いのベクトルが「今日」ではなく「明日」に変わったわけだが、難易度はちっとも下がっていない。
「あるといえばあるし、ないといえばないし……。うーん」
私はふたたび頭を抱えた。問診票を前にうんうんうなっている女性など見たことがない。私が厳密に答えようとしすぎなのだろうか。
そうかもしれない。というのも、私はちょうどその直前に、妊娠が判明したばかりの職場の同僚からこんな話を聞いていたのだ。
思いがけない妊娠に彼女はうろたえた。二日前に「おかしい」と気づくまで、タバコもお酒もガンガンやっていたからである。
先生には影響はないだろうと言ってもらえたものの、かなり渋い顔をされてしまったらしい。
「だって知らんかってんもん」と彼女は口をとがらせるが、たしかにそうだよなあと思う。「そろそろ」とも思っていない人間が “不測の事態”に備えた生活をしているわけがない。
私にしたって、週三回、スポーツジムで飛んだり跳ねたり折れたり曲がったり、かなり激しい運動をしている。そういうのは妊娠がわかってから中断すれば問題ないのだろうか。

こんな話を書いたからといって、勘ぐりは無用だ。去年の後半、私があまりに精力的にオフ会活動に励んでいたため、「いよいよ子どもをつくる気になりましたか」というメールが届いたことがあるが、私はそれを読んで膝を打った。
「あ、ほんまや。その前には会いたい人は総ナメしとかなくっちゃ!」
私はまだ、あの人にもこの人にも、会っていない。
……あれれ?今日書いた話は前置きとして五行で終わらせ、べつの展開にするつもりだったんだけどな。紙面が尽きたので、次回にしよう。

【あとがき】
レントゲンや麻酔、処方される薬がどの程度の深刻さで「妊娠中は避けるべき」とされているのか、私は知識がありませんが、だからなおさら不安に感じる部分はあります。こないだの痛みは壮絶だったんですよ、日記にもさんざん書いたけど。で、歯医者の予約まで我慢できなくて、とりあえず家にあった古い鎮痛剤(五年前に親知らずを抜いたときに出された)を飲んで切り抜けようと思い、念のため歯医者さんをしている友人に「飲んでも大丈夫かしら?」と尋ねたんですね。そうしたら「その薬なら、小町さんが妊婦さんでなければ問題ないよ」と返ってきました。やっぱりそうなのね。本文に書いたのとはまた別の友人が妊娠に気づかず頭痛薬を飲んでいて、産む瞬間まで「もし薬の影響があったらどうしよう」と心配していたんですよね。可能性がないわけでないなら、私は「いいえ」と答えることはできないなあ。


2004年05月10日(月) 展開を読まれる苦悩

友人と外で食事をしていたら、背後から「ちょっといいですか」の声。振り返ると、ばっちりメイクを施した若い女性がふたり、笑顔で立っている。お揃いのボディコンワンピースを着ているので目を丸くしたら、「失礼ですが、タバコはお吸いになりますか?」。
レストランなどを回って試供品を配っているのだという。なるほど、タバコの銘柄のロゴの入ったバッグを肩からかけている。
しかし、私たちはタバコは吸わない。そう伝えると、彼女たちは「お邪魔しました」と言って隣りのカップルに話し掛けはじめたが、私はその様子を見ながら、タバコにまつわるある話を思い出した。
ちょっとしたびっくりネタだ。私はできるだけさりげなく聞こえるよう注意を払いながら、友人に言った。
「そうそう、タバコといえば、松たか子ってね」
が、言葉をつづけようとした瞬間、ひと足早く彼女の口が動いた。
「ヘビースモーカーなんやろ?」
彼女がつづける。
「チェーンスモーカーらしいね。こないだテレビで芸能レポーターの佐々木博之が、松たか子が銀座の大通りで赤のボルボのシートを全部倒してタバコ吸ってるのを見たってしゃべってたよ」
ひ、ひどい!聞き終えるや、私は彼女に抗議した。
こういうときはたとえ話の先が読めても、話させてくれるのが友人というものではないだろうか。知らなかったふりをして腰を抜かしてくれとは言わないが、一応最後まで聞き、「私も知ってたけど、意外よねー」くらいのことを言ってくれたってバチは当たらないと思う……ぶつぶつ。

展開を読まれるといえば、ゴールデンウィークにこんなことがあった。
「サービスという名のおせっかい」というテキストの前編をアップしたあと、私は実家に帰省したのだけれど、二日後に帰宅してたまったメールを読んで愕然とした。同じ内容のメールが六通も届いていたからである。もちろん差出人はそれぞれ別人だ。

電車の「傘の忘れ物に注意」やエスカレーターの「手すりにつかまれ」といったアナウンスは不要だ。空港で搭乗時刻を過ぎてもゲートに現れない客を探して職員が走り回っているのを見かけるが、あれも甘い。
「親切」と「過保護」がほとんど同義語であるこの国には、「サービス」という名のおせっかいが氾濫している。


と書いたところで「後編につづく」にしていたのであるが、それらのメールには異口同音にこうあった。
「過保護なアナウンスは利用者のことを考えてではなく、トラブルが起こったときのために企業が先手を打っている、つまり自己防衛のためのものだと思います」
私が思わず「あいたた」とつぶやいたのは、この内容が後編の展開とかぶっていたからである。私はテキストの最後で、企業の過剰なサービスを「保身のためのエクスキューズ」と結論づけていたのだ。
「小町さんは後編でこう書くつもりでしょう?」という読み方をされたわけではないので、気分を害したわけではもちろんない。私ががっくりきたのは、これからアップしようとしているテキストがあまりにもありきたりな内容であることが判明したからだ。
日記リンク集の公共掲示板や日記読み日記でも、六通のメールと同じ内容の文章を見かけた。つまり自分と同じ考えの人がそれだけ多いということだが、その事実は私を安心させてくれる一方で、「なあんだ」とも思わせる。
奇抜なことを書きたいと思っているわけではないけれど、誰もが考えることならべつに自分が書くことはない、という気持ちがあるのはたしかだ。書いてよかったなあと思わせてくれるのは、「私もそう思ってました」より「そういう考え方もあるんだなと思いました」という言葉であることが多い。
「誰も書かないこと、考えないことを書きたい」という欲求を持っている書き手はきっと私だけではないだろう。

職場では派遣社員は終業後、近くにいる社員にタイムシートにサインしてもらうことになっているのだが、中にひどく無愛想な男性がいる。
その日もやはり「お疲れさま」のひとこともなく、ポイとシートを返されたので、私はぷりぷりしながら仲良しの同僚に愚痴をこぼそうとした。
「聞いてよ、さっきヤマザキさんにサインもらったんやけどね」
「ヤマザキさんってどの人だっけ?」
彼女は人の顔を覚えるのが異常に苦手なのだ。
「壁際の一番奥の席に座ってて、ほら、いつもけっこう派手なネクタイしてる」
「あ、わかった!三十過ぎの人やね。綺麗なコにはめっちゃ優しい、あの人のことやろ。で、そのヤマザキさんがなんだって?」
こういう先読みをされると本当に切ない。

【あとがき】
テレビをつけたら映画をやっていたとするでしょ。画面をしばらく眺め、私が「どんな話やったっけ。見たことあったかなあ」とつぶやくと、夫は横から無邪気に言うんですね。「船がボカーンと爆発して、この人死んじゃうんだよ」「あの女の人が犯人でね、この人は殺されるんだよ」とか。「先読みされる」とはちょっと話が違うけど、こんなふうにネタばらしをされると私は怒り狂います。


2004年05月07日(金) 日記書きにどのくらい時間をかけていますか?

日記を読みながら、ウーンと首をひねることがある。
内容に賛同できなかったのではない。私のブックマークの中には「小町さんもびっくり!」なほどの長文、あるいはものすごくクオリティが高い、かつ毎日更新という日記がいくつかある。それらを読むたび、私の中にこんな疑問が湧いてくるからだ。
「この人はどうやって日記書きの時間を捻出しているんだろうか」
日記の読み書きというのは料理と同じだ。食べるのはあっという間だが、作るのにはその何倍もの時間がかかる。私も“料理人”の端くれであるから、他の人が作った料理を食べても、食材の調達や調理にかかった労力がどれほどのものであるか、おおよその見当はつく。
だから私は不思議でしかたがない。これだけのものを書くには相当の時間とエネルギーが必要なはず。にもかかわらず会社から勤務中に、あるいは自宅から土日も休みなく更新があることが。
また最近は複数の日記を持つ人が増えてきたし、一日に何度も更新する人もいる。「あなたのその生活のどこにそんな時間があるんですか?」と尋ねたくなる書き手がけっこういるのだ。
「この人、まじめに仕事してないんじゃないの。それともそんなに暇な会社なのかしら」
「家族と過ごす時間、ちゃんと持ってるのかな。家庭生活に支障をきたしてはいないのだろうか」
皮肉でもなんでもなく、私はそんなことが気になってしまうのである。
そんな話を友人にしたところ、彼女がさも可笑しそうに言った。
「私にとっては小町さんがまさにそういう日記書きさんだよ」
彼女曰く、「結婚していて働いていて、いつあれだけの日記を書いてるんだろうって昔から謎だった」そうだ。
「いやいや、うちは週末婚みたいなものだから、会社から帰ったら自分の時間はたくさんあるし、毎日更新でもないし」
あわてて弁解しながら、ふと思った。そういえば「いつもどのくらいの時間をかけて書いてるんですか?」とよく訊かれるんだよなあ。二、三日前にも「同じ日記書きとして気になります」というメールをもらったっけ。
灯台下暗し。そうか、私も読み手に「仕事や家事そっちのけでパソコンばっかしてんじゃないの?」と思わせている日記書きのひとりであったか。

ところで、この「日記書きにどのくらい時間をかけているか」という質問、これは私にとって非常に答えづらいものである。
なぜって、恥ずかしいから。「長文しか書けない」「遅筆」という二重苦のため、とにかく時間がかかる。更新を週三回と決めているのもそのためだ。
多くの時間を費さないと書けないことは、私にとってささやかなコンプレックスであると言ってもよい。だから太っている女性が体重を秘密にしたがるように、私もまたそれを教えることができない。
しかしながら、この問いにまともに答えられないのはおそらく私だけではないと踏んでいる。
というのは、過去に何人かの日記書きさんに尋ねてみたことがあるのだけれど、彼らの答えはいつも私の目算の半分以下の時間だからだ。どう少なく見積もっても一時間はかかるだろうと思われるのに、「三十分くらいかな」と言う。とても信じられない。
女性は化粧にかかる時間を訊かれると、つい短めに答えてしまうものだ。「綺麗ですね」とは言われたいが、抜かりなく化粧していることは知られたくない。どうせなら素材の良さだと思わせたいし、万が一にも「ふうん、それだけ念を入れているわりには……」と思われたくない、という思いもある。
日記書きの所要時間についても同じ心理が働いて、さばを読んでしまうのではないだろうか。同じ成果なら「気合い入れてやりました」と言うより、「さらっと書き上げました」な顔をしていたほうが才能があるみたいでカッコイイもの。
……と私はひそかに思っているのだけれど、どうだろうか。

このあたりで、「で、小町さんの所要時間は?」とせっつかれそうであるが。
「『日記書きさんに100の質問』の回答を見てたら、十五分とか三十分と答えている人がほとんどだけど、私はその時間じゃ推敲さえできないなあ……」
こんなところでご勘弁を。これでも自分では一気に書き上げているつもりなの、と言ったら笑われてしまうだろうなあ。
腰を据えて書くのは苦にならないが、時間をかけたからといっていいものが仕上がるとは限らないのが切ないところではある(お、これも女の化粧と同じだ)。

【あとがき】
ゴールデンウィーク中は更新する日記もかなり減っていましたね。ということは勤務中に更新している人がそれくらい多いってことですけれど、私には考えられません。私は人がいるところで書けないので(まあ、それ以前にネット自体ができないのですけれど)。集中できないとだめなので、家で書くときも音楽やテレビは消します。私はたいがい大雑把な人間ですが、書くことに関してだけは神経質です。


2004年05月05日(水) 「サービス」という名のおせっかい(後編)

そもそも日本人は騒音に寛容というか、「聞かされる苦痛」に鈍感な人種なのではないか。
騒々しいのは駅や電車の中だけではない。たとえばスーパー。男性はご存知だろうか、いま肉売場に「きのこの唄」「おさかな天国」を超える強烈な販売推進ソングが流れていることを。

にくにくにっく にくにくにっく
にーくーだいすきー
にくーにくーにくーにくー
にくーにくーにくーにくぅぅーっ♪

単純なメロディーに、「肉」と「大好き」というふたつの単語しか出てこない歌詞。しかもだんだんクレッシェンドが効いてきて、最後はほとんどシャウト。これが私の近所のスーパー(もちろん前編に書いた高級スーパーではない)では大音量、エンドレスでかかっているのである。
週末に買い物に行き、これが聞こえてくると、夫は「にくーにくー♪」と口ずさみながら私の脇腹をムギュと掴む。だからというわけではないが、私はこの歌が好きじゃあない。肉売場の店員さんは一日中聞いていて大丈夫なのだろうか。
街にこれほど音が氾濫している国を私はほかに知らない。
私たちは物心ついたときから「ああしろ、こうするな、あれに注意、これを買え」をたえず聞かされてきた。その指示の洪水に慣れていく過程で、それらを意味のある言葉としてではなく、単なる音として片づける癖を身につけてしまったのではないか。
あれだけしつこくアナウンスされても電車の中で携帯を使う人間が一向にいなくならないのは、それが「ガッタン、ゴットン」と同じ“音”として脳で処理されているからだとしか思えない(というのは半分皮肉だ)。

過剰サービスに話を戻そう。
手元にある食品のパッケージをご覧いただきたい。あまりに馬鹿げたことが書いてあるので、あなたは噴きだすか怒りだすかするかもしれない。
カップラーメンの蓋には「平らなところに置いてください」、アイスクリームの包み紙には「長時間持つと手が冷たくなります」、ドレッシングの容器には「振るときは蓋をお閉めください」。
訴訟大国アメリカには「赤ちゃんを乗せたままベビーカーを折り畳まないでください」「衣服を着たままアイロンをかけないでください」「就寝中にドライヤーを使用しないでください」と注意書きされた商品があるそうだが、なんのなんの、わが国も健闘している。
PL法(製造物責任法)施行後、メーカーは「あれをするな、これは危険だ」を乱発してきた。
江崎グリコでは「アイスが溶けて服が汚れた」という苦情があってから、「アイスが柔らかくなると、落ちて衣服などを汚す恐れがあります」の注意書きを入れるようにしたという。また、「ペットは生き物です。責任を持って飼いましょう」「危険ですので真似をしないでください」といったスーパーが入ったテレビコマーシャルが最近やたら増えたことに気づいている人も少なくないだろう。
「そのうち消費者は表示だけに頼って、常識や五感で物事を判断できなくなってしまうのではないか」という危惧も決して大げさな話ではないと思う。
言うまでもなく、日本は「お客様は神様です」の国だ。しかし、甘やかしが子どもをだめにするように、度を過ぎたサービスは消費者を責任転嫁が得意で傲慢な、そしてものを考えない人間にするだろう。企業は保身のためのエクスキューズで、実は自らの首を絞めている。
交通機関や公共施設内でのアナウンスにも同じことが言える。くだらない情報のたれ流しは利用者の耳を「ザル」にし、必要なメッセージを掬い取る力を奪うのだ。
この頃流行りの「自己責任」という言葉。電車にうっかり忘れ物をするのも、エスカレーターでつまづくのも、飛行機に乗り遅れるのも、溶けたアイスで服を汚すのも、すべて自己責任なのだ。
過保護なアナウンスや人の思考能力を退化させるような注意書きは、誰のためにもならない。そのことを企業も私たちも知っておくべきだろう。

【あとがき】
アメリカでは「電子レンジを濡れたペットの乾燥に使用しないでください」と書かれてあるそうです。「シャンプーしたプードルを乾かそうとしたら死んでしまった、注意書きがなかったからだ!」と飼い主がメーカーを訴え、裁判で認められてしまったからなのですね。さすが「デブになったのはハンバーガーのせい」なんて裁判を起こす人が現れる国だけあります(これは原告の女性が敗訴)。そういえばマクドは「コーヒーをこぼしたら火傷した」でも裁判起こされてましたね(これは原告が勝訴)。「とりあえず訴えとけ」というノリなんでしょうか。


2004年05月02日(日) 「サービス」という名のおせっかい(前編)

新聞で、六十代の男性が書いたこんな投稿を読んだ。

私が利用している銀行の窓口では、係の女性は客が来るたび立ち上がって迎え、処理が終わるとまた立ち上がって見送る。大阪駅で新幹線の切符を買うときもいつも、駅員はわざわざ立ち上がって礼を言ってくれる。
しかし、私はそこまでしてもらうことに苦痛を感じている。体に無駄な負担をかけさせたくないし、その分時間を取られることにもなる。にこやかに、かつ素早く対応していただければ十分だ。


思わず膝を打った。私もまったく同じことを感じていたから。
定時が遅いため、私が仕事帰りに立ち寄るのは深夜まで開いているちょっとお高いスーパーだ。繁忙時以外は店員さんが商品を袋に詰めてくれるような店なのだけれど、そこでは会計の際、キャッシャーの女性は客にお辞儀をする決まりになっているらしい。客が入れ代わるたびに両手を前に組み、うやうやしく頭を下げながら「いらっしゃいませ」を言うのである。
しかしながら、私は以前からこれを「いらぬサービスだなあ」と思っていた。ほんの二、三秒の話ではあるが、せっかちな私にとってはお辞儀をされるより、少しでも早く会計に取りかかってくれたほうがずっとありがたいのだ。接客の丁寧な店だと評価する客もいるのかもしれないが、私には余分なサービスである。

それは過剰サービスだ、と言いたくなる場面は日常にあふれている。
たとえば街のいたるところで耳にするアナウンス。先日電車に乗った際、本を忘れた私は暇つぶしに車内アナウンスに耳を傾けていたのだけれど、その内容のなさと数十分間ほとんど途切れることなく流れっぱなしだったことに驚いた。
「ご乗車ありがとうございます」に始まり、「吊り革、手すりを必ずお持ちください」「お降りの際は足元にお気をつけください」、駅と駅の間隔は三分と空かないのだから「次は○○駅です」だけで十分なのに、「まもなく○○駅です」も毎回律儀に流れる。
これに女性専用車両や優先座席の案内、携帯電話電源オフや「痴漢は犯罪です」の呼び掛け、「ご宴会、ご宿泊には××ホテルをどうぞ」といった宣伝、さらに雨天ならば「傘のお忘れ物が増えております」、夜ならば「お疲れのところ車内が混み合い、誠に恐れ入ります」なんてものまで加わるのだ。そりゃあ車内に静寂が訪れるはずがない。
必要なのは次の停車駅と乗換え案内、「次は右側のドアが開きます」くらいではないのかと私などは思うのだが、この“過保護”は電車の中だけに存在するものではない。
エスカレーターや動く歩道でも、手すりにつかまれ、左側を空けろ、黄色い線を踏むな、ゴム靴に注意しろ、もうすぐ終点だから足元に気をつけろ……。空港内では「JAL○便にご搭乗のお客様、搭乗時刻が過ぎております。至急ゲートまでお越しください」というアナウンスが流れ、「ご搭乗の方はいらっしゃいませんかー!」と係員が声をあげて走り回っている。海外でこんな光景を見たことはもちろんない。出発時刻が来ればすみやかに離陸するからだろう。
「親切」と「過保護」がほとんど同義語であるこの国には、「サービス」という名のおせっかいが氾濫している。(後編につづく)

【あとがき】
日本でもそのうち「まわりのお客様のご迷惑となりますので、車内での化粧はご遠慮くださいますようお願いします」なんてアナウンスが流れるようになるのではないでしょうか。これは単に車内での化粧の是非という問題ではない。「恥」の感覚をなくすというのは日本人の誇れる美徳の喪失であり、大変なことだと思います。