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2003年04月30日(水) 不戦敗

先日、NHK教育の『かきこみTV』という番組を見た。十歳から十五歳の子どもたちからのメール投稿でつくる、『真剣10代しゃべり場』のメール版のような番組だ。
前回は中学二年生の男の子からの「好きな女の子にどうやって告白したらいいか悩んでいます」の相談に乗るという内容だったのだが、「メールは気持ちがこもりにくいから、やめたほうがいいと思います」「話すことを紙に書いておいて、電話をするというのはどうでしょう」といった初々しいコメントが次々と紹介される。
私も好きになったら、気持ちを伝えずにはいられないタイプ。過去におつきあいした男性の半分は自分から告白した相手だ。そのときのドキドキを思い出しながら、若いっていいなあと懐かしい気持ちで見ていた。

とはいうものの、どうしても勇気を出せなかった恋もいくつかある。
挑戦せずにあきらめるのは私のポリシーに反するが、しかし「手の届かない人だ」という悲しい確信を持たざるを得なかったことはたしかにあった。
大学時代、バイト先のカラオケボックスに優しい男の子がおり、私は彼のことを好きになりかけていた。ある日ふたりでフロントに立っていたら、有線でサザンオールスターズの歌が流れた。当時、「シュラバ★ラ★バンバ」と「涙のキッス」が流行っていた。
「小町ちゃんはどっちが好き?」
私は彼の質問に「『シュラバ★ラ★バンバ』!」と即答。彼は「ははは、小町ちゃんらしいね」と言って笑った。
私はその反応にとくに意味を見いださなかったが、彼がその後につづけた言葉を聞いてどきりとした。
「でも○○さんだったら、『涙のキッス』って言うだろうなあ……」
彼自身がどちらの歌を好きだったのかは知らない。しかし私はそのひとことで、彼は「シュラバ★ラ★バンバ」を好きだという女の子より、「涙のキッス」を好む女の子が好きなんだと悟った。そして、彼が自分ではない女の子に思いを寄せているということも。
「誰の、どんな歌を好むか」に込められている情報はあなどることができないと思う。好きな歌手というのは「人柄」と「歌(の雰囲気)」というふたつの要素の掛け合わせで成り立つから、そこからその人が惹かれるもの、求めているものをかなり正確に読み取ることができる気がする。とくに、キャラクターと歌がぴったり一致している感のある歌手を好きだという場合。たとえば槇原敬之が好きだという人がいたら、私は「この人は素朴な清らかな人っぽいな」「心根の優しい人を好きになりそう」と想像する。
そんなわけで、気になる人に好きな歌手を尋ねるとき、私はいつもちょっぴり緊張する。「今井美樹」と言われるのもきついが、「岡村孝子」なんて返ってきたらどうしたらよいだろう。「あなたを振り向かせようなんて身の程知らずでしたー」としっぽを巻いて逃げ出してしまいそうだ。

押入れの整理をしていたら、見慣れぬダンボール箱が出てきた。夫が学生時代からためこんでいたCDやカセットテープが詰まっていたのだが、ラベルを見てびっくり。岡村孝子に谷村有美といった名前がずらり並んでいるではないか。
「ちょっと、ちょっと……。こういう趣味やったん?」
「そうだよ」
出会った頃に聞かされなくてよかった。戦う前に戦意喪失していたかも。
そういえば、彼の好きな女優は松たか子。この三人を並べたら、ある種のイメージが見えてきそうだ。
そしてどう考えても、私は同一ライン上にはいない。人種から違う感じ……。
彼はこのあたりの折り合いをどうつけているのかしら。聞いてみたい気もするが、ちょっとこわい。

【あとがき】
私は自分を卑下したりしないけど、「自分は(この人に)ふさわしくない」と思ったことは過去に一度あります(夫のことではない)。もちろん、学歴とか家柄とかそういう問題ではなく。「こんな心のきれいな人、私には不相応だよ。やめときな」と思いましたね。でも好きだったんです。抑えておくこともできなかった。だけど、やっぱり手を伸ばすべきではなかったんだろうなと思います。もう遅いけど……。


2003年04月28日(月) 過保護と便利が駆逐するもの

連休がはじまったばかりの空いた電車の中で、不思議な光景を見た。
向かいのシートに座っている乗客六人が六人とも、携帯電話を取り出してメールの読み書きをしていたのだ。その中にはカップルもいたのであるが、隣り合って座りながら黙ってそれぞれの携帯を見つめている。
いまさら「車内では電源を切れ」などと言いたいのではない。ただ、そこに並んでいるのは見ず知らずの人間のはずなのに、まるでコピーしたかのように同じ表情、同じポーズを取っているというのがとても奇妙だったのだ。
私が目にするたび軽くがっかりするのが、背を丸め指をせわしなく動かし一心不乱に携帯メールを打っている男性の姿。あえて「男性」としたのは、それに夢中になっているときの彼らはどういうわけか、同じことをしている女性の何倍も間が抜けて見えるから。
公園のベンチに腰かけ、緩んだ表情で携帯メールを読んでいる若いサラリーマン。そこに「明日、あなたの仕事はありますか?」とナレーションが入る……という人材派遣会社のCMがあるけれど、見るたび苦笑する。さきほども私の目の前で、メールを読みながら自転車をよろよろ運転していた若い男性が車両進入よけのポールにぶつかりそうになっていたが、口から飛び出しそうになった言葉は「大丈夫ですか」ではなく「もし人だったらどうするのよ」だ。

さて携帯メールといえば、ネットニュースでこんな記事を見た。

学生が授業中に携帯電話を使うことを禁止する学校が多い中、積極的に授業に活用している学校がある。広島国際大学の田村教授は「今はメールアドレスを交換することから学生生活が始まる時代。私の授業ではレポートもできるかぎりケータイで書いてもらってきた。いずれ入学試験もケータイで受ける時代が来るのではないか」と話す。


似たような話はしばしば耳にする。最近読んだ情報誌にも、関西大学や佛教大学で小テストや質疑応答に携帯電話を利用しているとあったし、いまや「授業に携帯電話」はそうめずらしい話ではないのかもしれない。
しかし、「ケータイなら学生が気軽に授業に参加してくるんじゃないかと思って」「彼らは面と向かっては言えなくても、文字でなら伝えられるんです」といった教授たちの発言を聞いて、私の口から出たのは「ふうん、過保護だなあ」である。
そこまでお膳立てしてやる必要があるのだろうか。「授業を受けるつもりのない学生は受けなくてよろしい。直接質問してこないということはうやむやにしておいても支障がないと判断しているということ。ほうっておいたらよい」ではだめなんだろうか。
私はお世辞にもまじめな学生とは言えなかったから、テスト前は人の倍苦労したものだ。講義ノートを買うのにお金も遣った。しかし、自分の選択の結果責任は自分が負う。来たるべきツケを見据えたうえで行動を決定する。大学生ともなれば当たり前ではないのだろうか。
質問をメールで受け付けるようにした関西大学の助教授が「教室では無反応でも、日に十通以上のメールが届く」と語っていたが、はたしてそれは成果なのか。彼らが社会に出たとき、会議で発言できず上司に意見できず、「メールでなら言えるんだけどね……」では使いものにならないのに。
学生が授業に興味を持てるよう工夫をこらす努力が教える側に必要なことに異論はないが、こういう形で彼らとの距離を縮めようというのは安易な発想である気がする。
たとえば休講情報を携帯で確認できるなんてシステムがあれば、一時間かけて自宅から通ってくる学生は大助かりだろう。しかし、レポートや入学試験にそれを利用するというのにどんなメリットがあるのだろう。
前出の広島国際大学の田村教授が実施した文字入力速度テストでは、手書きの清書より携帯での入力のほうが早かった学生が多くいたとのことだが、便利や効率を優先する風潮が駆逐するものについても考える必要があるのではないだろうか。
毎夕、讀賣新聞の『新日本語の現場』で言葉を知らない、漢字を書けない若い世代の話を読んでいるとつくづくそう思う。

【あとがき】
男だから女だから、というのはよくないのだろうけど、実際「絵にならない」「似合わない」というのはある。男性が歩きたばこをしていたら、人の迷惑や周囲に与える危険を認識できない人だと判断するが、歩きたばこをする女性を見かけたらマナーの悪さ以外にも感じるものがあります。人前で携帯メールにふける男性に興ざめするのもそれと同じです。




2003年04月21日(月) 見せたくない理由

「子どもに見せたくない番組、トップは『クレヨンしんちゃん』」
新聞でこの記事をご覧になった方も多いだろう。日本PTA全国協議会が小学五年生と中学二年生の保護者を対象に行った、テレビ番組に関する調査の結果である。
理由は「言葉が乱暴」「内容がばかばかしい」というもの。この他、「見せたくない」の上位に挙がっていたのは『ロンドンハーツ』と『ガチンコ!』だった。
これを読みながら、「いつの時代にもこうして親に嫌われる番組というのはあるんだなあ」と懐かしさのようなものが湧いてきた。
子どもの頃、私と妹が見ていると母がいい顔をしなかった番組がいくつかあった。
ひとつは、ザ・ドリフターズの『8時だヨ!全員集合』。ひげダンスや「カ〜ラ〜ス〜なぜ鳴くの〜」の替え歌、「淳子、しあわせ」。彼らのギャグはいまでもよく覚えている。泣けてくるほどベタベタで、オープニングの「オイーッス!」(これに観客が元気よく応えると、いかりや長介がとたんに声をひそめ、「シィーッ、静かに!ここは……」とやる)も、コントの中でたらいが落っこちてくるのもお決まりのパターンだ。それでも毎回、私たちはおなかを抱えて笑ったものである。
しかし、母はそういった知性のちの字も感じられないギャグと、パイを顔面にぶつけたり料理の並んだちゃぶ台をひっくり返したりといった物を粗末に扱うコントが嫌いだったようだ。
そしてもうひとつ、母が好きでなかったのが『ドラえもん』。『サザエさん』と並び、二大国民的漫画と称されるそれをどうして?と言われそうだが、その訳はあのテーマソングに集約されている。

こんなこといいな できたらいいな
あんなゆめこんなゆめ いっぱいあるけど  
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる


のび太には自分の夢を叶えるために頑張るという姿勢がまるでない。テストの前になるとドラえもんに泣きつき、「しょうがないなあ、のび太くんは。今回だけだよ……パパパパーン!!」と暗記パンだのコンピューターペンシルだのを出してきてくれるのを期待する。
四次元ポケットに頼ってばかりでちっとも成長しないのび太とそれをどこまでも助けてやるドラえもん。彼らの関係は友達というより、アカンタレの子どもと過保護な親だ。
「『ドラえもん』はそれだけではない。冒険あり友情あり教訓あり、子どもたちの想像力をかきたてるいろんな要素が描かれている」
とおっしゃる向きもあるだろう。
しかし、子どもにとってもっともわかりやすくもっとも印象に残るのはやはり、あの漫画の根底にある「のび太が努力のプロセスなしに、ひみつ道具によって希望を叶える」という構図ではないだろうか。
もしあの頃テレビで放送されていたのが、同じ藤子アニメでも『キテレツ大百科』(発明好きの少年が友情と努力で、相棒のカラクリ人形コロ助をさまざまなトラブルから救う)であったなら、母の反応はまた違ったものになっていただろう。
ついでに二番も聴いてみよう。

しゅくだいとうばん しけんにおつかい 
あんなことこんなこと たいへんだけど 
みんなみんなみんな たすけてくれる 
べんりなどうぐで たすけてくれる


全国の小学生を洗脳したと言ってもよいほどのカリスマ漫画の歌詞がこれというのには、ちょっと怖いものを感じないか。
テレビゲームが子どもの精神の発育に与える影響はよく取り沙汰されるが、漫画と子どものあいだにも相当密接な関係があるような気がする。

冒頭の調査結果に頷く。私も以前から、『クレヨンしんちゃん』と『ちびまる子ちゃん』は子どもにすすんで見せたい番組ではないなと思っていた。
その怠け者ぶりや人を食ったようなリアクションには、「子どもがそんなに冷めててどうする」「親になめた口を利くんじゃない」とつい言いたくなってしまう。可愛げというものがまるでない。回答した親たちはしんちゃんの言葉遣いがよくないから有害とみなしているというより、こういう子どもに育ってほしくないという思いが「見せたくない」につながっているのではないだろうか。
時代が変わっても、『サザエさん』がお茶の間で愛され続ける理由。それは「子どもに見せるとまずいものは出てこない」というストーリーへの絶対的な信頼だけではないと思う。
勉強は苦手だけれど、学校は好き。放課後はランドセルを放り出し、遊びに飛び出して行く。親に対して適度な恐れと尊敬の念を持ち、叱られるとしゅんとする……。間違ってもカツオが舟を呼び捨てにしたり、ワカメが波平を「あんた」呼ばわりしたりはしない。
このふたりの“典型的な子どもらしさ”に現代の親たちは憧憬を持っているからではないだろうか。

ところで、今日のドラえもんの話。もしかしたら「いつか読んだことがあるような」と首をひねられた方がいらっしゃるかもしれない。
ありがとうございます。そんなあなたは一年以上ここをお読みくださっているロイヤルカスタマーでございます。
さてはリサイクルしたなって?失礼ね、リバイバルと言ってちょうだい。
みなさまに支えられ、『われ思ふ ゆえに・・・』はもうすぐ二歳半になります。これからも価値観の違いを楽しむような気持ちでご愛顧いただけますと、大変うれしく思います。

【あとがき】
わが家では『ドラえもん』は見るなとは言われませんでしたが、『じゃりン子チエ』はダメでした。チエちゃんはいい子だけど、父親を「テツ」と呼び捨てにしたり、「アホーな親父」呼ばわりする。また、母親が家出したり父親が喧嘩とバクチに明け暮れたりで、チエがその尻拭いに奔走する……というストーリーも、子どもに見せるものとしては好ましくないと判断したのでしょう。そういう考えの親に育てられたからでしょうか。おとなになった私はしんちゃんが母を「みさえ」と呼び捨てにしたり、まる子が父を「あんた」呼ばわりするのが好きではありません。


2003年04月18日(金) きちんと書きたい

讀賣新聞の夕刊に「新日本語の現場」という連載がある。日本語のあり方について考えるコラムなのだが、とくに若い世代の国語力の低下や活字離れの実態について取りあげており、毎日興味深く読んでいる。
昨日はこんな話が載っていた。
文部科学省メディア教育開発センターが全国31の大学・短大に通う学生6700人を対象にどれぐらい言葉を知っているかのテストを行ったところ、私立大生の7%、短大生の18%が中学生レベルだったという。
たとえば「『憂える』の意味は?」の問いに、彼らの7割がまったく逆の意味である「喜ぶ」を選んだ。また、理性を失って感情をむきだしにするさまであり、いい意味では使われない「感情的」という言葉を、「心優しい」「思いやりや愛情がある」のように理解している学生も少なくないという。
しかしながら、正直言ってそれほどの驚きはない。敬語を使えない若者はめずらしくないし、パソコンの普及で字は汚い、漢字は書けない、筆順もめちゃくちゃ。彼らの語彙の貧しさ、理解力のお粗末さを聞いても、さもありなんといった感じだ。
私はいま、クレジットカード会社でテレコミュニケーターをしている。毎日二百件近くの顧客に電話を架けるのだが、中にはあまりに言葉を知らない人がいて唖然とすることがある。
たとえばカードを解約したいという申し出があると、私たちはこう説明する。
「では返信用封筒を送りますので、お手元のカードにハサミを入れてご返送ください」
すると、たまにこんな返事が返ってくるのだ。
「えっ、ハサミを入れて送る……んですか?」
「はい、そうです」
「それってどんなハサミでもいいんでしょうか……」
うそみたいな話だが、本当だ。
「○○様はご在宅でしょうか」
「当社の電話番号を申し上げますので、控えていただけますか」
この「ご在宅」や「控える」さえ通じないときがあり、この人の辞書は薄っぺらいんだろうなあと想像してしまうことは少なくない。

「辞書」といえば、私が日記を書くときの必須アイテムのひとつである。
私はたいていの事柄において大雑把な人間だが、「書く」についてだけは癇性なところがある。こういうテキストでは言葉をきちんと使いたいという気持ちが強く、固有名詞の間違いや省略、誤字脱字が許せない。また、文章が豊かになるような気がして慣用句や比喩を好んで使うため、広辞苑なしでは心もとないのだ。
以前、こんな失敗をしたことがある。ある日記書きさんについて「ファンだと名乗り出たりせず、静かに応援していきたい」という意味のことを書くときに、「草葉の陰から見守っていく」と表現したところ、「それじゃあ小町さんが幽霊になっちゃいますよ!」とメールが届いた。
あわてて調べると、草葉の陰とは墓の下のことだとあるではないか。「柱の陰から」と同じつもりだったので、私は赤面した。
以来、曖昧なことは必ず調べる。一話あたり五回は辞書を引いているのではないだろうか。
そうだ。いい機会だから、この話もしておくか。さきほど「書くことにおいては神経質なところがある」と言ったが、未完成の文章を人に読まれるのを異常に恥ずかしく感じるというのもそのひとつ。更新してからも文章にバンバン手を入れるのはそのためだ。
と言ったら、「じゃあもっと完成度を高めてからアップしたら」とつっこまれてしまいそうだが、これでも一晩寝かせている。それでも、翌朝更新後しばらくは読み返すたびに何箇所、日によっては何十箇所も気に入らないところを見つけてしまうのだから、不可抗力だと言っても許されるのではないだろうか。
そんなわけで、私はちまちまと修正を繰り返しながらいつも、はてなアンテナを利用してここを見に来てくれている人たちに心の中で詫びていたのだ。あれはたった一文字修正しただけでまるで更新されたかのようにリストの最上部に移動してしまうものだから。
うちは毎日更新ではないし、あっても一日一回。まぎらわしくてごめんなさいね。

<追伸> 読み手のみなさまへ。
果物の缶詰は出来たてよりも、缶に詰められてから一年ぐらい経ったもののほうが味がしみて美味しいといいますが、私のテキストも更新後半日から一日経過したあたりが読み頃となります(あ、開き直った)。


【あとがき】
息を「飲む」か「呑む」か。「飲むわ食うわ」か「飲むは食うは」か。確信がなければとにかく辞書を引きます。インターネットで裏取りもしょっちゅう。遅筆の上にこういう作業があるから、日記を書くのに時間がかかるんですよね。凝り過ぎですね。お金はかからないけど、これだけエネルギーを消耗する趣味はなかなかないんじゃないかしら。
こういうことを書いた日記に誤字脱字があったらめちゃくちゃかっこ悪いね。もう一回チェックしとこ。


2003年04月16日(水) 「おかえり」

好きなあいさつがある。
さりげなく「ありがとう」が言える人は素敵だし、「お疲れさま」を聞くと思わず笑顔がこぼれる。「おやすみ」に幸せを噛みしめる夜もある。でも、私がもらって一番うれしいのはなんといっても「おかえり」だ。
京都で大学生をしていたときの話。夏休みにサークルの合宿に参加し、一週間ぶりに家に帰ってきたところ、荷物を置いたとたん電話が鳴った。すごいタイミングだと思いながら受話器を取ると、同じゼミの男の子からだった。
「おまえなー、いままでどこ行っとってん!」
開口一番、このセリフ。いったい何なのといぶかりながら九州に行っていたことを伝えると、「それならそうと言っていけよ」とめずらしくいらいらした様子。
彼とはただの友達である。「どうしてあなたに『いついつまでどこそこに行ってきます』なんて言って出かけなきゃならないのよ」と言い返しそうになったが、それはあまりにも可愛げがないなとすんでのところで口をつぐんだ。
「夜かけてもぜんぜんつかまらんし、どこをフラフラしてんねんて思っとった」
「実家に帰ってるんかも?とは思わなかったわけ」
「自分、この夏は帰省せんて言うとったやん」
「そうだったっけ」
おや、なんだか風向きがおかしいぞと思ったら。
「心配しててんぞ。……おかえり」
電話を切った後、留守電に残っていた十数件の「ツー・ツー」に気づく。ああ、彼はきっとこのひとことが言いたかったんだなあとほろり。
彼との“その後”はここに書くまでもない。

「あんた、おったんかいな!」
電話の向こうからいきなり怒号が飛び込んできた。学生時代の友人だ。「おったら悪いんかー」と思わず言いたくなったが、その慌てぶりが尋常ではない。何事かと思ったら。
「ぜんぜん連絡取れへんから、もしかして誘拐でもされたんとちゃうかって思ってたんやで」
一週間ほど前から何通かメールが届いていたが、返事を書いていなかった。いつも即レスの私からちっとも返ってこないので、何かあったのではと心配してくれていたのだ。そういえば、最新のメールは「おーい、生きてる?」だったっけ……。
「実家にでも帰っとったん?」
「う、うん。まあそんなとこ」
このところテンションが低くて返事を書く気になれなかったなんて、とても言えない。
「あ、そ。ならええねんけど。とりあえず、おかえり」
私は心の中でごめんなさいとつぶやいた。
こんなふうに「おかえり」を言ってもらえる機会はいまの私の生活にはほとんどない。夫が私より先に帰っていることもまずないし。
しかし旅行から帰ってきたときだけは留守電にメッセージが入っていたりメールが届いていたりということがある。
「おかえりなさい」
その声や文字は、ある人に私がいつもの場所にいないことを寂しく思った瞬間があったことの証。それを見つけるたび、私はちょっぴり胸が熱くなる。
もう六年も前になる。アメリカから帰国する私を迎えに、仕事の合間を縫って関空まで来てくれた人がいた。到着口から出てきた私を見つけ、転がるように走ってきたあの姿を私はいまも忘れない。あれが私の人生史上最高の「おかえり」だ。
まあ、彼は「覚えてない」ととぼけるだろうけれど……。ねえ、夫よ?

【あとがき】
「おかえり」の次に好きなのは「おやすみ」ですね。女友達に言われても心がほんわかするぐらいだから、好きな人から言われた日には受話器を抱きしめたりしてましたね。あの頃は電話(もちろん留守電)が恋を生んだり手助けしたりしてくれていました。今はメールだろうから、初めて電話をかけるときのドキドキ(もちろん家の電話だ、携帯電話なんてものはなかった)、話が続かなかったらどうしよう……なんて不安感は軽減されているだろうけど、あれはあれでよかった。


2003年04月10日(木) それを「平等」とは言わない

親しい同僚の中に小学生の子どもを持つお母さんが何人かいる。
彼女たちが語る学校の話はとても面白い。私は自分の頃と比べながら、いつも興味津々で聞いている。
「小町ちゃん、子どもの物は捨てんとなんでも取っとかなあかんで。学校行き始めたら、なに持って来いって言われるかわからんから」
そのうちのひとりが言う。先日、「自分のルーツを探るという課題で使うので、へその緒を子どもに持たせてください」とお達しがあり、彼女はタンスをひっくり返して探したのだそうだ。
別の女性は十歳にもならない息子が「ペニス」という言葉を知っていたのに仰天したという。どこでそんな言葉をと思ったら、最近は二年生から性教育が始まるのであった。かと思えば、五年生になっても体操服への着替えは男女同じ教室で。二十年前の私たちの頃でさえ分かれていたのに、親たちから問題視する声はあがらないのだろうか。
私の通知表は四年生までは「よい・ふつう・もう少し」、五年生からは「5・4・3・2・1」だったが、彼女たちの子どもの学校では全学年二段階評価。「できました・努力しましょう」で子どもの学力の程度がわかるのかと尋ねると、「まったく」との答え。そりゃそうだ。
とまあこんな具合に、彼女たちの話はびっくりの宝庫なのだが、中でも私を驚愕させたのは運動会の話である。
危険だからと騎馬戦や棒倒しがなくなったというのは「いまどきらしいな」と理解できたが、徒競走に順位をつけないというのにはえーと声をあげてしまった。「運動会の目的は運動能力の優劣をつけることではない」「足の遅い子どもに劣等感を植えつけないため」がその理由だ。
驚いたのはそれだけではない。最近は性差別をなくすという観点から男女混合名簿が用いられているが、徒競走も男女が一緒に走るというのである。クラス対抗リレーも選抜メンバーではなく、全員が走る。「出られる子」「出られない子」を作らないように、というわけだ。
一応赤組と白組に分かれてはいるものの、緊張感みなぎる勝負ではないという。不思議はない。勝敗や得点を競い合うのでなく、「仲良く楽しむ」に照準を合わせた運動会にしているのだから。
「けど、そんなんで面白いん?」
私は思わずつぶやいた。
勉強は苦手だけれど運動は得意という子どもはどこのクラスにもいる。私たちの頃はそんな彼らが運動会でスターになった。徒競走で一着、二着と書かれた旗のところに案内されるときの晴れがましさ。結果発表で放送委員に名前を読みあげられる喜び。「みんなにできないことが僕にはできる」と自分に自信を持つ瞬間だ。
それを「足が早い子も遅い子もがんばったから、みんな一等賞」だなんて。低学年にいたっては手をつないでゴールさせることもあるという。
子どもたちが一生、競争のない仲良しこよしの世界で生きられるのなら、それもよかろう。しかし、いずれは「がんばりました」「一生懸命やりました」だけではなんの評価もされない実力勝負、弱肉強食の社会に出て行くのだ。
大事なのは、彼らを刺激やストレスから隔離してやることではない。他者との差、自分の実力を認識させ、じゃあそこからどうするかを考えさせることだ。弱いこと、負けることがダメなことではないのだと教える必要もある。
スポーツ選手はトレーニングで「筋肉を傷つけ、修復させる」を繰り返すことによって筋繊維を太くしていく。心だって同じだ。「なにくそ」という感情を味わうことなしに、負けん気や根性なんてものを培うことができるはずがない。
少々の困難にはめげないたくましさ、コンプレックスとうまく付き合える柔軟さを彼らの中に育てる。これこそゆとり教育が目指す「生きる力の育成」ではないのだろうか。
できる子のあたまを押さえつけ、無理やり「みんな一律」にする。これを悪平等と言わずしてなんと言う。勉強のできる子もいれば、走りなら誰にも負けないという子もいる。それは個性だ。それぞれの能力を正当に評価してこそ、真の平等といえるのではないか。
いまは運動会の日も給食のある学校が多いという。昼になると子どもたちは親をグランドに残し、教室に戻って給食を食べる。親が応援に来られない子どもたちへの配慮とのことだが、私はこれを「ビリの子がかわいそうだから、順位はなし」と同じところからきている発想だと思う。
差異があることをすぐさま不公平と結びつけ、それを隠したり目立たないようにするためになんでもかんでも押しなべてしまう。そんな昨今の風潮には首をひねらざるを得ない。「そういう問題じゃないでしょう」と言いたくなることもしばしばだ。
行き過ぎた平等主義や公平性の蔓延には不気味なものさえ感じる。

【あとがき】
当時一番好きだった授業は体育。私は一年の行事の中で秋の大運動会をもっとも楽しみにしていました。男子の騎馬戦の帽子の奪い合いはそりゃあ迫力があったし、組体操で最後にピーッの笛の合図でぐちゃっと潰れるのも見ごたえがありました。それがいまや徒競走に順位はないわ、騎馬戦や棒倒しはないわ、ですか。借り物競争とかスプーンリレーみたいなゲーム性の高い種目もいいけど、私が親ならやっぱり子どもたちが全力を出しきる姿が見たい。真剣勝負の世界、勝者と敗者がいるからドラマが生まれる。スポーツってそういうもんでしょ?


2003年04月06日(日) 最後の恋

思うところあって、過去ここにアップしたすべてのテキストのタイトル一覧を作った。
二年と四ヶ月のあいだに四百三十八本。「へえ、このときこんなこと考えてたんだ」「はずかしげもなくよくこんなの書けたね」なんていちいち立ち止まりながらの作業はかなりの手間と時間を要したが、午前中になんとか完了。
さて、できあがったばかりのリストを眺めていた私はあることに気づき、愕然とした。取りあげる話題に大変な偏りがあることがわかったからである。
実に三本に一本ぐらいの割合で、私は愛だの恋だの男だの女だのの話を書いていた。現に今月は四本中四本がそうだ。
こちら方面の話が多いという自覚はもちろんあったが、これほどまでとは思っておらず驚いた。
恋愛は独身時代の私にとって最大のライフワークであったが、結婚したからといって「じゃあ今日から興味喪失」というようなものではなかったのだ。人妻となった今でも、やっぱり私は“こいばな”が好きだ。

こんな私のもとにはオン・オフ問わず、友人から恋の相談がしばしば舞い込む。
金曜の夕方、会社の休憩室で一服していると(たばこじゃない、お茶だ)、A君がやってきた。彼は二十一歳のフリーター。すらりと背が高く髪型も服装もおしゃれな、見るからに今どきの男の子。「私がこの年の頃はもうちょっとしっかりしていたよなあ」とつい思ってしまうくらいおぼこくてハングリーさにも欠けるのだが、人懐こいのがかわいらしい。
「ねえさん。やっぱりだめになっちゃいました」
彼は私のことを「ねえさん」と呼ぶ。昔からどういうわけか、年下の女の子からそう呼ばれることが多かったのだが、男の子から呼ばれるのはなんとも色気のない話である。が、年が十も違うのだからしかたないか。
で、何が「やっぱりだめだった」のかというと、つきあっていた女の子とのこと。他に好きな人ができたと告げられ、彼はひと月ほど思い悩んでいたのだけれど、その決着が着いたということであった。
「こんなに誰かを好きになることはもうないような気がする。最後の恋かもしれない」
彼がポツリつぶやく。
私も二十代の初めに大きな失恋を経験した。あのときは「あんな人とはもう二度と出会えない」と本気で思い、三ヶ月間はなにを見ても涙をあふれさせた。だから、彼の気持ちは本当によくわかる。
しかし、だてに十年彼より長く生きているわけではない。私はその後、知ったのだ。終わった恋を上書きしてくれる恋には必ず出会えるということを。この世の出会いはすべて必然。出会うべき人と出会い、結ばれるべき人と結ばれるようになっている。だから何も心配することはないのだ、ということを。
「なに情けないこと言ってんの、まだ二十一でしょ。少なく見積もってもあと十年は恋愛できるじゃない。彼女を超えてくれる人にもぜったいに出会えるから心配しなさんな」
これは気休めや希望的観測などではない。確信だ。
いまは信じられなくていい。だけど、「小町さんの言うとおりだった」と笑って思い出せるときが必ずくる。そう遠くない未来に。

今日の大阪は絶好の行楽日和。晴れ渡った空に柔らかい日差しの中、夫と近くの公園に花見に出かけた。
芝生の上に腰を下ろし、お弁当を食べながら水場で遊ぶ小さな子どもたちを眺めていたら、ふとA君の問いかけが胸によみがえってきた。
「ねえさんの最後の恋っていつですか」
思わずどきり。だって、初恋はいつかと尋ねられることはあっても「最後の恋は?」なんて初めてだったんだもの。
あの頃、天気予報はいつもその人の暮らす街の分もチェックしていたことを思い出す。同じであれば「太陽はひとつ。空はつながってる」と勇気づけられ、違っていればどうしようもない距離にせつなさを募らせたっけ。
時が流れても折に触れ思い出すのは、一番記憶に新しい恋だから……ではないと思う。
今日、かの地は晴れていたのだろうか。春の日差しを浴びながら、彼も満開の桜を眺めたのだろうか。家族とともに。

【あとがき】
きっと誰にも収まるべきところ……そう、「居場所」がある。人生は各人が落ち着くべきところに落ち着けるようにちゃんとできているのだ。自分がいまそこにいるのは、「そこにいる意味があるから」に他ならない。私は私の人生が自分にとって最高のものになることを信じて疑わない。


2003年04月04日(金) 「女性専用車両」を考える(アンケート結果発表)

『女性専用車両』を考える(前編)」で行った無記名アンケートに52名の方がご協力くださいました。
というわけで、結果発表です。

一番左の棒が全体、真ん中が女性、右が男性の回答結果です。
意外な結果でした。全体で見ると、過半数(54%)が女性専用車両に「賛成」している。うん、これは予想通り。
私がへえと声をあげたのはその内訳。賛成率を引き上げているのが女性ではなく、男性だったこと。女性の「賛成」と「反対」が同率(41%)なのに対し、男性は68%が「賛成」でした。
私は女性がこぞって賛成を唱え、男性が不公平感や逆差別的意識から専用車両に疑問を呈するのでは……と推測していたので驚きました。といっても、同じ「専用車両の必要性を認める」でもそれに一票を投じるに至った理由は、女性と男性では少々違っていたのですけどね。
まずは賛成票の5割を占めたこの意見から。こちらは男女共通 (スペースの都合上、一部引用とさせていただいています)。

男性の意識改革や女性側の自衛などは結果が出るまでに時間がかかると思うのです。必要悪とまでは言いませんが、女性専用車両はそれに近い存在ではないでしょうか。 【女性・賛成】

アジア人/ヨーロッパ人留学生の意見ももっともです。しかし、今現在起きている問題に対し早急に手を打つためには、日本人として、男として、情けなくも女性用車両の導入も必要だと思います。 【男性・賛成】


「他に即効性のある策がないのでやむを得ない」という消極的賛成ですね。
「諸手を挙げて賛成しているわけではない」というニュアンスの回答が思ったよりも多かったので、ちょっぴりホッとしている私です。
次は男女別に見てみましょう。
まずは男性の「女性専用車両歓迎!」の声。でも、「女性のために」というわけではないようです。

触る気も無いのに混んでるが故に手が触れてしまい、無用な疑いを掛けられるのは迷惑。 【男性・賛成】

あらぬ誤解を受けぬよう、必ず両手で吊り革をつかんでいる。ただでさえ疲れるのにトラブルに巻きこまれるのはかなわん。それから頼むからピンヒールで通勤するのは止めてくれ。足の甲が骨折したかと思ったぞ。 【男性・賛成】


やっぱり挙がりましたねー、この意見。「その他」の方からも、

意識過剰と思えるほど、触れることに敏感に反応する人もいて、ラッシュ時に触らずに済むはずがなかろうもんと思うことしばしば。 【男性・その他】


なんてボヤキが。
私の友人に「男性に背後に立たれたら必ず向かい合う」というのがいます。彼女が「周囲をキィッと睨みつけて威嚇している」と言うのを聞くと、男性が女性から逃げたくなる気持ちもわかります。
真剣に冤罪を恐れる意見もいくつかありました。

携帯電話を注意した人が痴漢に仕立て上げられて現行犯逮捕され、たまたまその状況を見ていた人によって釈放されたという話をきいたり、わざと痴漢といって慰謝料を取るという話も聞きます。
痴漢の立件が被害者の供述以外の証拠で逮捕起訴されるような状況になってもらいたいです。 【男性・その他】


痴漢冤罪裁判のニュースをときどき耳にしますが、無実を証明するのはとても困難だといいます。たとえ勝訴しても、そのとき彼の手元には仕事もお金も、もしかしたら家族さえ残っていないかもしれない。電車内で「被害者」になる可能性があるのは決して女性だけではないのです。
次は女性の「賛成」の声を。

自分で自分の身を守る。って、言葉で言うより難しいと思う。それができない人もいるし、そうしたことによって反対に恥ずかしい思いをしたり、もっと悔しい思いをすることだってある。
安全な場所へ逃げることは悪いことではないと思う。どうしても必要だと思う人が多いのであれば女性専用車両があってもよいではないか。 【女性・賛成】


私はそれを「『必要ない』とは言えない」という者です。対症療法としてはもっとも有効な手段であることも認めている。でも、「安全な場所へ逃げる」、すなわち専用車両は根本的解決にはまったくなっていないのだということは理解しておくべきだと強く思います。
「黙って触られてなんかいるものか」の意思をアピールするというのは、なにも相手の腕をねじあげろということではないのです。駅員に「何時何分の電車の何号車に痴漢がいました」と通報することもできませんか?
恥ずかしいのはわかります。でも、本当にそれだけ?そこに「もういいや」と看過しようとする気持ちは働いていない?「面倒くさい」という気持ちはこれっぽっちもないと言える?

痴漢をなくすには、常習犯の顔をポスターにして各駅に張っちゃうのが一番だと思います。
旦那に言ったら人権問題で無理だろうといわれたけど、痴漢なんてそもそも人権無視した行為なんだから、それくらいしてもいいと思う。程度の軽いレイプだと私は思っているし。 【女性・その他】


「程度の軽いレイプ」に同感。
前編・後編を通して私が言いたかったのはひとつ。いくら罰則を強化したり車内に監視カメラを取り付けたところで、「それは犯罪。許してはならないものなのだ」という気持ちを女性自身が持たなければ痴漢なんてぜったいになくならないよ、ということです。
根本的解決といえば、「反対」の半数が「それでは問題解決にならないから」を理由に挙げていました。これは「賛成」の中にも見られました。

女性車両を作る前に、痴漢をどうやったら減らせるか(あるいは退治出来るか)を考えるのが先では?本末転倒な気がします。 【男性・反対】

1. 不要な分別。むしろ差別を感じる。絶対反対。
2. 痴漢がいやだから分別とは短絡的。
3. 根源の解決になっていない。
4. 個人的には、女性の香害(香水のにおい)がひどそうで乗る気がおきないという事もあり。 【女性・反対】

よりよい方策が見つかるまでの過渡的方策と割り切って、真剣にもっと良い方法を模索するならば、女性専用車両には賛成。
但し現状の「臭いものには蓋」的な女性専用車両は男女の感情的な亀裂、即ち逆差別を産むだけであると思います。 【男性・賛成】


女性の中にも「専用車両は差別」とおっしゃる方が何人かおられました。男性からそう言われることは予測していましたが、女性にその認識はなさそうだなと思っていたので発見でした。
私は女性専用車両を「現状ではやむを得ない」と思っている者のひとりですが、その運行の仕方には見直しの余地があると感じています。たとえば、阪急電車のような専用車両の終日運行。痴漢対策なら、昼間のガラ空きの時間帯や休日にまで設置する理由はないはずでは。これでは「不公平。ただの女性優遇処置だ」と言われるのも無理はないな、と。

栄えある第一号の京王ユーザーでしたが、ラッシュがひどくなりました。一度車外に押し出されたらその電車に再び乗ることができなくなるくらいに。女性専用車はすいているのですが……。 【男性・その他】


女性からも「一般車両が混んでいるので申し訳ない気持ちになる」といった声をいただきました。
では、たとえばこういうのはどうでしょう。カップルや女性を含むグループ、家族連れは女性専用車両にも乗車できるようにする。そういった人が痴漢を働くとは思えませんから、これなら痴漢防止の目的を果たしながら、多少なりとも一般車両の混雑を緩和できるのではないでしょうか。
また、通り抜けができない男性の乗客のために車両の設置位置の見直しが必要な鉄道もありそうです。



有意義なアンケートになり、喜んでいます。
ふつうに生活していたら、ひとつのテーマについてこれほどさまざまな人から意見を聞ける機会はまずないですから。
「日本の通勤ラッシュを知らない外国人と感覚が違うのはむしろ当然」には一理あると頷いたし、高校時代は何度も被害に遭ったとおっしゃる男性の話に「女の痴漢もやっぱりいるのか」と驚いたり、痴漢に遭いやすいタイプの恋人を持つ男性の苦悩に言葉を失ったりもしました。
どれもこれも個人的にお返事をしたいと思わせてくれるものばかり。本当にありがとうございました。
こんなことでもなければ、「女性専用車両は女性が全面的に支持していて、男性は不愉快に思っている」という図式を内蔵したまま生きていくことになっていたでしょうね(それでもべつに問題はないわけですが)。これからもちょくちょく自分の中の固定観念を破壊するためのこうした試みをしたいと思っていますので、またよろしくお願いします。
とんでもなく長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとう。

【あとがき】
本文では触れませんでしたが、アンケートの中の「専用車両を利用しているか」の質問に、「している」もしくは「したいと思っている」と答えた女性は4割でした。おもしろいことに、「賛成だから利用している」「反対だから利用しない」というわけではありませんでした。
え、私?私はラッシュ時に電車に乗ることがないのでわざわざ乗ったことはないのですけど、もしそういう時間帯に乗るとしても私は改札口に一番近い車両を選びます。
おまけの話。実家の近くで地下鉄に乗っていたときのこと。たまたま女性専用車両に座っていたのですが、ふと見るとシルバーシートにおじいちゃんの姿。ご本人はまったく気がついていない様子。とはいえ、昼下がりの車内はがらがらに空いており、ましてや八十は過ぎているであろう好々爺。乗り込むなり一瞬「おや?」という顔をする乗客は何人かいたけれど、それ以上気に留める乗客はいませんでした。
とそこへ、通りかかった若い車掌さん。彼もステッキを持ったおじいちゃんをわざわざ車両移動させるのは気の毒だと思ったに違いありません。でも他の乗客の手前、見て見ぬふりをするわけにはいかず、おずおずと老人に声をかけました。
「申し訳ありません。ここは女性専用車両となっておりまして……」
すると、近くに座っていた中年の女性が大きな声でひとこと。
「ええやないの、空いてるんやし」
そして、おじいちゃんに向かって「大丈夫!なんかあったら、私が証人になったげるから!」と自信満々の笑み。
車内の注目が集まっていることに気づき、はずかしそうだったおじいちゃんは、そこから三つ目の駅でゆっくりと降りて行きました。
後ろ姿を見送りながら、私はこの話を『読むクスリ』の上前淳一郎さんに教えたくなりました。


2003年04月02日(水) 「女性専用車両」を考える(後編)

※ 前編はこちら

会社勤めをしていた頃、とりわけ阪急電車を利用していた二年間は、私も散々な目に遭った。
京都線の特急は進行方向に向かって二人掛けのシートが二列、ズラリと並ぶつくりになっている。大宮駅を出ると三十分以上ノンストップ。もし痴漢に通路側に座られたらどんなことになるか。満員電車でどこからともなく手が伸びてくるのもぞっとするが、ふたりきりの空間でやられるのはさらに怖いものだった。
しかしながら、私は「か弱い女を守るために専用車両は必要」と女性自らが言うのを聞くと嫌な気分になる。私たちはあらゆるところで「女性差別撤廃」「男女同権」を訴えているのではなかったか。こんなときだけ「か弱い」などと開き直ってどうする。
「オヤジがいないから、臭くないしー(笑)」なんて発言に唖然とすることもある。なにか勘違いしていないか。専用車両は「女性がより一層の快適を得られるように」と用意されたものではない。身の危険を感じることなく乗ることができるという、最小限の環境を保証してもらうために講じられた苦肉の策なのだ。
「三号車は女性専用車両となっております。快適な車内環境づくりにご協力ください」の車内アナウンス。私が男性だったら、愉快な気分にはならないだろう。「男がいたら快適にならないっていうのか?」と文句のひとつも言いたくなるかもしれない。
それでも男性が専用車両を容認しているのは、「たしかに犯人は男だしなあ」という連帯責任的負い目と、自分の恋人や娘がそのような目に遭うことへの恐れからではないかと思う。
そういったことを考えもせず無神経なことを口にするから、「女性はいつも都合のよいときだけ『女』を主張する」と批判されてしまうのだ。
「あら、男の人にも痴漢に間違われなくてすむっていうメリットがあるじゃない」とおっしゃる向きもあろう。
たしかに私のまわりにも、ラッシュ時はバンザイをして乗っているという男性が何人かいる。「妙な神経を遣いたくないから」とこれを歓迎している男性もいるのだろう。
しかし、本当に怖いのは悪意のある痴漢冤罪だ。女性専用車両の設置はこれの防止にはなんの貢献もしない。件数を比べればぐっと少ないだろうが、すべての男性にとっていつわが身に降りかかるかわからない災難であるという点では、女性が痴漢を恐れるのと違いはない。
もし冤罪防止対策として、男性専用車両が設置されたとしたら。「女というだけで疑われてるみたいで不愉快」と感じることなく受け入れられる女性はそんなに多いのだろうか。
「一緒にいるから問題が起こる。なら分離してしまえばよい」という発想は非常に安易で危険なものだと思う。そのうち、「〇号車までは女性専用、それより後ろは男性専用」なんて具合に完全に分けられるようなことになるのではあるまいな。

いろいろ書いてきたが、私は「女性専用車両はすぐに廃止すべし」と主張する者ではない。
痴漢の被害者は中学生、高校生がもっとも多いという。父親が通学する娘と同じ電車に乗り、痴漢を捕まえたというニュースを聞くと、親も子もどれほど悔しい思いをしてきたことだろうと胸が詰まる。
多感な年頃にそのような経験をすることが心にどんな影響を与えるか。被害がこれだけ多発している現状を考えても、他に即効性のある策を思い浮かべることができない中で「必要ない」とは言えない、というのが正直なところなのだ。
しかし、専用車両は「痴漢に合わずにすむように」はしてくれても、痴漢そのものを減らしてはくれない。対症療法としては有効でも、根本的な問題解決にはまったくなっていないのだということを、私たちは理解しておかねばならない。
どうすればよいのか。
車内の混雑緩和を図ることが一番の策であろうが、たとえば私が利用する電車は朝のラッシュ時、二分おきにやってくる。これ以上運行本数を増やせといっても現実的ではない。「車内アナウンスや構内ポスターで痴漢は犯罪であると知らしめる」というのも聞くが、効果は期待できそうにない。もしこれを見て「ほなやめとこか」と思いとどまる痴漢がいるなら、お目にかかってみたい。
警備員を各車両に配置する、監視カメラを設置するといった案もあるようだが、私がなによりも大事だと思っているのは「被害にあったときに泣き寝入りをしない」こと。
なにも相手の手をむんずと掴み、「この手、誰の手ですかー!」と大声を出す必要はない。顔を見ることができなくても、やめてと言えなくても、「黙って触られてなんかいるものか」という意思はアピールする。そして、電車から降りたら駅員に通報しよう。
怖いのはわかる。恥ずかしいのもわかる。しかし、一人前の女性であるという自負があるなら、このくらいの勇気は持つべきではないだろうか。
こんなヤバイことはやめておこうと痴漢に思わせる。警備員やカメラの抑止力に頼るのではなく、女性本人が。効果が表れるまでに長い時間のかかる漢方薬的取り組みではあるが、これなくして痴漢撲滅はありえないと私は思っている。

【あとがき】
前編で呼びかけたアンケートにはたくさんの方にお答えいただきました。自分の日記を読んで、誰かに何かを考えてもらえる------書き手としてこんな光栄なことはありません。時々こんなふうに皆さんの意見を聞かせてもらうことで、私も勉強をさせてもらっています。ご協力感謝します。そしていつも読んでくれてありがとう。


2003年04月01日(火) 「女性専用車両」を考える(前編)

今朝の新聞に五十代の男性が書いたこんな投書が載っていた。
「空いた車両を選んで乗り込んだら、女性専用車両だった。座りたかったので気づかぬふりをしていようかと思ったが、車内アナウンスで移動するよう促され、やむなく隣りの車両へ。すると女性が何人か座っており、すでに空席はない。専用車両は空いているのだから、女性はぜひそちらに乗ってもらいたい」という内容だ。
同じことを考えたことのある男性はきっと少なくないだろう。
そういえば最近、投書欄で電車の女性専用車両についての文章をよく目にする。つい一週間前にも、四十代の大学講師の女性が書いた文章を興味深く読んだばかりだ。ディスカッションのクラスで女性専用車両をテーマに取りあげたところ、日本人学生がこぞって絶賛したのに対し、留学生はそうではなかったという。

アメリカ人学生は「こんな制度は昔のアメリカの人種隔離政策を思い起こさせる」と不快感を示し、ヨーロッパから来た学生は「女性は痴漢から自分の身を守ることもできない弱い存在であり、男性はみな性的欲望をコントロールすることができない野獣であると決めつけているという点で、両性に対する差別である」と発言した。
またアジア人学生からは「女性を性的対象物ではなく、尊厳ある存在として理解するよう男性の意識を改革することから始めないと、専用車両に乗っていない女性には痴漢行為をしてもいいというような極論も生まれ兼ねない」という意見が出た。


これを読み、私は「外国の人はやはりこれを奇異の目で見ていたのだなあ」と考え込んでしまった。実は私も二年前、首都圏の鉄道会社が痴漢対策として女性専用車両を設置したと聞いたとき、どんよりした気分になった者のひとりである。理由はふたつある。
ひとつは、痴漢被害がそれほど深刻なのだという現実を目の当たりにしての落胆。
女性専用車両の設置というのは、鉄道会社にとって進んで取り組みたい事項ではなかったのだろうと推測する。なぜなら、圧倒的に男性の利用が多い通勤ラッシュの時間帯において女性しか乗れない車両を設けることは、他の車両にさらなる混雑を招き、快適とはほど遠い車内にすることが明らかだから。
それでも京王電鉄を皮切りに、いまや全国の鉄道会社がこれを導入しているのは、「なんとかして」の声を放置しておくことができなくなったからであろう。日本の電車というのはそれだけ治安の悪い空間であるということだ。
そしてもうひとつは、男と女を分ける以外に対処法を見いだすことができなかったことに対するやるかたない思い。
女性はそうやって隔離してもらうことでしか安心を得ることはできないのか。こんなふうに安全地帯に保護されねば、わが身を守ることもできないのか。その不甲斐なさに暗澹たる気持ちになったのだ。 (後編につづく)

簡単な無記名アンケートにお答えいただけませんか。
あなたのメールアドレスはこちらにはわかりません。アドレスをお持ちでない方も送信できます。回答が多いほど見えてくるものがありますので、よろしければご協力ください。なお、コメントは後日紹介させていただく可能性があります。




  
あなたは

   男性   女性


  女性専用車両をどう思いますか?

   賛成(必要) 

   反対(不要)

   その他



  実際に利用していますか?(女性の方のみ)


   している(もしくは、利用したい気持ちがある)

   していない(すすんで利用しようと思わない)



  よろしければ理由を。

  


  

  
  
ありがとうございました。結果はまた後日。






【あとがき】
アンケートを最後に持ってくる場合、本文に気を遣いますね。アンケートより前に主張を書いてしまうと逆の意見が集まりづらいからです。これは「土俵の女人禁制」アンケートのときに痛感しました(むちゃむちゃ偏った)。どうせやるならいろんな意見をいただきたいと思うので、できるだけこちらの考えをにじませることなくアンケートに持っていきたいのですが、うーむ、文章の流れというものを考えると、それは不可能に近い。ああ、私は「あなたの意見」が読みたいのー。