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2003年05月29日(木) ONLY ONE

残念なことがあった。夏休みに北欧に出かける予定なのだが、最終地をロンドンにしていた。しかし、先日夫の会社でSARS対策の渡航自粛通達が出され、その指定国・都市の中にロンドンが入っていたのだ。おかげで、あちらで仲良しの日記書きさんにお目にかかる計画がおじゃんになってしまったではないか。
帰りはパリからの便に変更したと夫が言うのを聞いて、間髪入れず「パリかあ。知り合いいないなあ……」とつぶやいた私はどうかしている。でも、楽しみにしていたので、とてもがっかりしてしまった。
非日常を楽しむのが旅の醍醐味。わかっちゃいるけど、私の日常であるところの日記の世界もちょっぴりは持っていこう。
というわけで、今回も「ラブレター・フロム・北欧」をやるつもり。ここで募集をかけたら、ぜひリクエストしてね。

メッセンジャーは夜更かしの友。オンラインにしているといろいろな方に声をかけてもらえるのだけれど、どんな話で盛りあがるかというと、やはり日記の読み書きに関する話題である。
うちのサイトにリンク集なるものがないからだろうか。「誰の日記を読んでますか」と尋ねられることがとても多い。
マイ日記才人とブラウザのお気に入りに登録してあるサイトを合わせれば七十くらいはあるはずだが、「おすすめの日記は?」と言われてもとっさには選べない。
それに、私は自分のブックマークを他人に教えるのをとても照れくさく感じるタチ。部屋に遊びに来た友人に本棚を覗かれ、「ふうん、こういうのが趣味なんだ」とつぶやかれるのと同種のはずかしさがある。よって、手堅く無難なメジャーどころをいくつか紹介するに留まるのが常である。
さて、こういう話をしていると気がつくのが、「特別な思い入れのある日記」を持っている人が少なくないということだ。
それは自分がこの世界に引き込まれるきっかけになった日記であったり、同じ書き手として目標や憧れの位置にある日記であったりするのだが、「とっておき」という点で他の行きつけのところと一緒くたにすることができないという存在。そこに書かれてあった出来事をまるで自分の身に起こったことのように話したり、「とにかくきれいな文章を書く人なんですよ」と惚気たり、閉鎖になってしまったと肩を落としたり。そのさまはまるで恋する者のそれである。この場合の“恋の相手”が同性であるか異性であるかは関係ないのは言うまでもない。
「そういう日記に出会えてよかったね。それは本当に幸せなことだよ」
そう声をかけながら、こちらの胸まで温かいもので満たされる。
私たちが一生のうちに出会う人の数は約二万人と言われている。その中で配偶者になる可能性のある人は五人なのだそうだ。
そして、私は運命の日記に出会える確率もそのくらいのものなのではないかと思っている。
「神様、ありがとう」とつぶやかずにいられないような、星の数ほどある日記の中からよくぞ見つけだしたと自分を褒めてやりたくなるような、そんな日記に、そんな書き手にめぐり会えるのは。

人は必ず誰かに
愛されてると言えるよ
だって僕は今でも君を
とてもとても好きだから

人は必ず誰かに
愛されてると思いたい
君のこと想うように
僕もいつか愛されたい

(ズル休み/槇原敬之)


私の書くものがどこかの誰かにとって代わりのきかない存在であるなんてことは望むべくもないけれど。なんとなく口ずさみたくて……。

【あとがき】
「運命の日記」とまではいかなくても、好きな日記書きさんのサイトの掲示板やオフレポを読んで、他の人と仲良くしているのにちょっとヤケた……みたいな話はよく聞きますよね。その気持ちはなんとなくわかります。たとえ遠い存在だとわかっていても、ほのかな独占欲って芽生えちゃうもんなんですよね。私にもONLY ONEがあります。


2003年05月23日(金) 私にないものを持つ人たち

玄関のドアを開けると、リビングの電話が鳴っていた。部屋に転がり込み受話器を引っ掴むようにして出ると、以前派遣でお世話になった会社で机を並べていた女性だった。半年前に私がその職場を去るとき、連絡先の交換をしていたのだ。
「ひさしぶりやね。どうしてるかなあと思って」
電話の主が彼女だとわかったとき、私は少々驚いた。職場でこそそれなりに話したものの、プライベートなつきあいはまったくなかった。番号は教えたが、まさか本当に電話があるとは思っていなかったから、彼女が唐突に自分のことを思い出してくれたのが余計にうれしかった。
……のも束の間、残念ながらそういうわけではなかったのだとすぐに気づいた。互いの近況報告をひと通り済ませたところで、彼女が突然尋ねた。
「ところで話変わるんやけど、小町ちゃんとこはなに新聞取ってる?」
「うちは讀賣だけど」
彼女はふうんとつぶやいたあと、「なに、新聞屋でバイトでも始めたわけ?」とからかう私に切り出した。
「ねえ、セイキョウ新聞取る気ない?」
「生協新聞?」
「ちがうちがう、聖教新聞。知らない?創価学会の」
こういうシーンに出くわすたび、私の中にある種の感慨が湧き起こる。「こういうことを人に頼めるってすごいよなあ」というものだ。
皮肉のつもりはない。その行為の好ましい、好ましくないもこの際置いておく。学生時代の友人にアムウェイ・ビジネスを勧められたときもそうだったのだが、こういうとき、私は相手が電話をかけてきた理由にがっかりする一方で、自分にはとうていできない芸当を軽々とやってのけるその人たちに対して、「はー、すごいな」と思ってしまうのだ。
むかしから、私は人になにかを頼むというのがとても苦手だ。「出勤のシフトを変わってくれない?」とか「リンク張らせてもらっていいですか」といったレベルのことでさえ、声を掛けるのをかなりためらう。それはどうしても必要なことなのか、頼まずに済ませる方法はないものかと自問する。
断られるのが怖いのではない。相手に「断りづらいな。困ったな」と思わせることが嫌なのだ。
そのため、やむを得ず誰かに話を持ちかけねばならないときは、相手のための“逃げ道”を必ず用意する。
「もしあなたがだめでも、他にも当たれる人はいるから大丈夫よ」
「突然の話だもん、こっちも無理を承知でお願いしてるから、気を遣わないで」
自分が頼まれごとを断るのが下手だから、卑屈かなあと思いつつもそういった文句を添えずにはいられない。
こんな私にとって、「勧誘」なんてものは頼みごとの中でももっとも苦痛に感じる分野だ。見ず知らずの人間に対してでなく、友人や知人に働きかけねばならないとすればなおのこと。そういうことができる人たちは、「私にこんなこと頼まれたら困るだろうな」「あの人、こういうの嫌いかもしれない。迷惑かけたらどうしよう」と悩まないのだろうか。とても不思議だ。
いや、たとえ思っていたとしても、「騙されたと思ってとにかく使ってみてよ」「ほんといいから、一度話を聞きに来て」が結局言えてしまうのならば、彼女たちが私にはないものを持っていることは確かである。
ちなみに、私は人に悩みを相談するのも苦手。現実問題として、話したところでどうにかなるわけではないし、弱っている自分を見せたくないというのもある。しかし、さらに強い力で私を押し留めるのは「こんな陰気くさい話を聞かされても相手は困るだろうな」という思い。
聞いてもらうだけで気が晴れるということはあるのかもしれないが、所詮は一時的なもの。相手に対する「申し訳ないな」の気持ちをねじ伏せてまでそれを得ようとは思わない。
甘えたい気持ちより遠慮が勝利する。家族に対してさえそういうところがある私は根本的にみずくさい人間なのかもしれない。
「人になにかを頼む」と「相談を持ちかける」。この両者は私にとって同質のものである。

【あとがき】
セイキョウ新聞はどうしたかって?もちろん断りましたよ。ちょうど先月、毎日新聞から讀賣に変えたばかりだったので、それを理由に。本音は「宗教、興味ないから」だけど、言いづらい。宗教はその人のパーソナリティの一部でしょ。その人自身を否定するみたいになっちゃうから。アムウェイにしてもそうだけど、頼んできた人の気分を害さずに断るのはむずかしい。どうして頼まれる側の私がこんなに気を遣わなくちゃいけないの、と思うこともしばしばです。


2003年05月21日(水) なくて七癖

休憩室でお茶を飲んでいると、仲良しの同僚がやってきた(会社で起こった話をするときはいつもこの書き出しだな。まるで休憩ばかりしているみたいだ)。
「ちょっと、これ見て」
彼女が自分の右目の横あたりを指差す。見ると一センチ長さの引っ掻いたような傷があり、うっすら血がにじんでいる。
「あら、どうしたの。タマちゃんの真似しちゃって」
「それがさあ」
なんでも、仕事をしていたらどこからか突然ボールペンが飛んできて、ペン先が彼女のこめかみに命中したのだという。
床に落ちたそれを拾いあげ、「なぜこんなものが」と呆然としていると、隣席から「すみません」の声。その女の子が親指とひとさし指の上でくるくると回していたものがあらぬ方向に飛んでしまったのだ。
「信じられへん、もうちょっとで目に刺さるとこやってんで」
話を聞きながら、思わずぎゅっと目をつぶってしまった。私はなにかが自分めがけて飛んでくるシーンを想像するのが苦手なのだ。テレビのCMで野球のボールなどが画面のこちらに向かって飛んでくるようなのを見かけるが、あれを直視することができない。モビットのCM(桃井かおりと竹中直人が卓球をしているやつ)もいつも顔を背けてしまう。「私、尖端恐怖症で……」という人がたまにいるが、私のこれも似たようなものかもしれない。
そんなわけで、彼女の話を聞くまでもなく、私はこのエンピツ回しが嫌いである。視界の端で始終やられていると気が散ってしかたがないし、いつ失敗して飛んでくるかと思うとどきどきしてしまうのだ。
しかしながら、それが癖になっている人は驚くほど多い。学生の頃に大流行し、その技をマスターしようとみなこぞって練習したものだが、おとなになっても手持ち無沙汰なときにはついやってしまうらしい。
私はいまテレコミュニケーターという仕事をしているのだが、百人ほどいるフロアを観察したところ、実に五人にひとりがペンを回しながら客と電話で話していた。

個性が強く、万人には受け入れられないであろうと思われるものに対して、私たちは「あの人はちょっと癖があるね」とか「癖のある味」という表現をする。
辞書で調べても「かたよった嗜好、習慣」とあるし、やはり癖には好ましいものではないというニュアンスがあるようだ。たしかに誰かのそれを思い浮かべたとき、「ないよりあったほうがいい」と思うものはひとつもない気がする。
人のことをあれこれ言うのは気がひけるのであるが、友人に「まあ、人それぞれだしね」が口癖なのがいる。どんな話をしても、最後はそれ。「ま、いいんじゃないの、人それぞれで」と締めくくられてしまうので、そのたび私はがっくりくる。
人それぞれ、そう、たしかに人それぞれ。でも、それほど「それを言っちゃあおしまいよ」な言葉はない。彼女に悪気がないのはわかっていても、そのリアクションには萎える。
というわけで、先日彼女に「それを言ったら話が終わってしまってつまらない」と抗議したところ、思わぬ反撃を食らった。
「でも小町もあるやん、口癖」
えっ。なくて七癖、やっぱり私にもあるのか。
「街歩いてたら、しょっちゅう言うやん。『あ、漫画喫茶!』『あそこにネットカフェできてる!』って。どんなしょぼい看板でも目ざとく見つけて、ぜったい反応するよね」
あいたたた。
でもそれは口癖じゃなくて、三度の飯よりネットが好きな人間の悲しい性なのよと言いかけて、口をつぐむ。それを知られるほうがよっぽどみっともない。
人のことをああだこうだ言うのは控えよう……というのは無理だから、せめて小さめの声でということにしよう。

【あとがき】
彼女の言うとおりですね。最近多いじゃないですか、街に漫画喫茶とかネットカフェとか。歩いてると、「あっ、ここにもある、あそこにもある」ってついつい目が行っちゃって。帰省や旅行でしばらくネットが「キレた」状態になると、ますますその症状はひどくなる。ネット中毒とはうまく言ったものだなと思います。


2003年05月16日(金) プライドをお持ちなさい

顔見知りの女性と初めてゆっくり話す機会があった。私よりひとつ年下の結婚二年目の主婦であることがわかったので、てっきり独身かと思っていたと告げると、「まあ、似たようなものですけどね」と笑う。彼女の夫は平日はほとんど出張に出ているのだそうだ。
私が「あら、うちも週末婚ですよ」と答えると、彼女はそれを聞いて気を許したのか、ほとんど初対面の私にこんな話を始めた。
「最近、夫の様子がおかしいんですよね」
あら、どうしたの。
「夫が帰ってきて、汚れ物を洗濯しようと思って出張カバンを開けるでしょう。そしたら、見たことのない下着が入ってることがあるんです」
夫の下着を買うのも、洗濯をするのも、着替え一式をカバンに詰めるのも彼女。見覚えのない下着など家の中に存在するはずがないのに、ここ半年で数回そういうことがあったという。
「枚数が足りなくて、向こうで新しいのを買ったんじゃない」
「ちがいます。だって、新品じゃないんですよ」
それだけではないという。金曜の夜、なくしたと思っていたネクタイをして彼が帰ってくる。出勤したはずの土曜、急用で会社に電話をかけたら、休みだと言われる。夜中に起き出し、別の部屋から電話をかけている。
「うーん、それはかなり怪しいかも。で、彼はそのたびどう釈明するの?」
「いえ、訊いたことないですから」
「この下着はなにとか、今日はどこ行ってたのとか、そのつど聞かないの?」
「そんなの怖くて訊けませんよ」
私はえーっと言ったきり、言葉をつなげなかった。夫の口からどんな言葉が返ってくるのか想像したら、そりゃあ恐ろしいだろう。真実を知りたくないと怖じ気づくのはわかる。しかし、明らかに体に異状を感じながら、悪い病気にかかっていたらどうしようと病院に行かず放置している人がいたら、やっぱり愚かだと私は思う。
疑いが濃ければ濃いほど、それが自分にとって大切なものであればあるほど、早急に対処しなくてはならないというのに。
しかし、私の胸の中に不快な空気が立ち込めたのは彼女のこの臆病さのせいではない。
この夫が浮気をしているのかどうかはわからない。しかし、もしクロだとしたら彼女は完全に夫になめられている。彼には秘密を隠すために細心の注意を払っているという様子がない。愚鈍な妻が気づくわけがないとたかをくくっているのか、問い詰められても言い逃れできる自信があるのか、はたまたバレてもたいした痛手はないと踏んでいるのか。いずれにせよ、この夫は妻を軽んじている。
「そこまでコケにされながらよく黙っているね」という彼女に対するあきれが、私をたまらなく不愉快な気分にさせたのだ。

先日、新聞の家庭欄に三十代の女性から寄せられたこんな相談が載っていた。

夫から、交際している女性がいると告白されました。私と彼女の両方とも愛している、ふたりとも幸せにできると言うのです。しばらくして夫は彼女に振られたのですが、その後も毎晩思い出の品を抱きながら、私の前で未練がましく泣き崩れます。こんな夫に幻滅していますが、離婚はしたくありません。どうしたらよいでしょうか。


私はこの幼稚な夫に対してだけでなく、妻にも言い知れぬいらだちを覚えた。
どちらも幸せにできるって?別れた愛人を思い、妻の前で号泣するって?よくまあ、そんなふざけた真似をする夫を許してやっているものだ。それが自分に対するこのうえない侮辱であることに気づかないのか。
諸々の事情を鑑みて、今の生活を失えないという結論に至ることはあるだろう。しかし、そのことと夫に愚弄されっぱなしでいることとはまったく別の話である。
「離婚はしないけど、私の前で彼女の影をちらつかせたら承知しないから」となぜ言わない。「泣き止むまで帰ってくるな!」と表に放り出せばよいではないか。
「あなたには女として、妻としてのプライドはないの。お人好しもたいがいにしておきなさいよ」
私は妻に向かって声をあげていた。
「浮気するならバレないようにやって」「クロウト(風俗)なら許せる」と言う女性に出会うたび、違う星の生物のように感じてしまう私だが、この手のなめられ妻たちのこともとうてい理解することはできない。
そのためだろう、先述の彼女にもこの相談者にも親身になろうという気持ちがほとんど湧かなかった。

【あとがき】
「浮気はバレないようにしてくれるならね」とか「風俗行くのはしょうがない」とかいう女性、ごろごろいるじゃないですか。友人にもいるし、ここをお読みの方の中にもいるんじゃないかな。でも、私はこういうふうに思えることが本当に理解できない。一応、寛容やねーと言うけれど、ちっともそんなこと思っていない。そういう境地に達することと、人間の度量の大きさ、了見の広さは関係がないでしょう。私の中では「男性にとって都合のよい方向にものわかりがよい」という認識です。


2003年05月14日(水) 会いに行くなら。

職場の休憩室でお茶を飲んでいたら、二十一歳フリーターのA君がやってきた。
「いやあ、人生そんなに甘くないですね」
イスを引きながら、彼が言う。
「悟り入ってるね、どうしたの」
「ゴールデンウィークにメールで知り合った女の子と会ってきたんですよ」
ま、おもしろそうな話。身を乗り出したら、彼は期待に添えるような話じゃないとでも言うように首を振った。
「会わなきゃよかったなって」
「つまり、イメージと違っていたと」
「まあ、そういうことです」
早い話が、ルックスが彼好みではなかったのだ。待ち合わせ場所に現れた彼女を見て、「心の風船が急速にしぼんでいくのを感じた」という。
しかし、逆に彼女はA君のことを本格的に好きになった模様。明言を避けていたら、とうとう先週末、「友達にあなたのことをどう説明したらいいの?」と聞かれてしまったのだそうだ。
申し訳ないけれど、その気にはなれない。でも、メールでは盛りあがっていたのに会ったあとで断るなんて、「君は僕の好みじゃなかった」と言っているのも同然ではないか……と彼は気にしているのだ。
私はそれを聞きながら、先日新聞の投書欄で読んだ話を思い出していた。投稿者が駅の改札口で人と待ち合わせをしていたところ、隣に立っていた若い女性が突然泣き出した。ハンカチを貸し、理由を尋ねると、通りすがりに彼女を見たメル友の彼から「好みじゃないから会わない。帰れ」と携帯にメールが届いた、と説明したというのである。
私は思わず「なんちゅうひどいやっちゃ」とつぶやいた。が、しばらくすると「でも、運が悪けりゃこういうこともあるわなあ」とどこか納得している自分がいた。
恋人となる人に、性格だけでなくルックスやその他の要素にも相性を求めるのは自然なことだ。だから、メールや電話のやりとりでは「私が知っている限りのすべてが好き」と思えても、会ってみて「違う……」となることはしばしば起こる。それはやむを得ないことで、冷酷だとか不誠実だとかいう問題ではない。
もちろん、いくら落胆したからといってこんな仕打ちをするような男は人としてどうかしている。しかし、会いに行くからには、こうした出会いには事件や犯罪に巻き込まれるリスク以外にも、こういう種類のつらい目に遭う可能性もあるんだということを認識しておく必要があるだろう。
それらよりずっと高い確率で起こりうる、相手に(ひそかに)がっかりされてしまうという悲しい事態に対する「そのときはしかたがない」という覚悟と潔さも携帯しておくべきなのは言うまでもない。

この期に及んで、タカハシ君が言う。
「彼女を傷つけずに済む断り方はないですかね」
そんなもの、あるわけないでしょう。悪者になろうと嫌われようと、「恋人として見ることはできません。ごめんなさい」とはっきり言う。それしかない。
「僕ってひどい男ですか」
ひどい男になりたくなかったら、彼女がすっぱりあきらめられるようにしてやること。それがあなたが彼女にあげられる、唯一にして最大の優しさなんだから。

【あとがき】
メールで知り合った人と会ったこと?私も一度ありますよ。独身かつ恋人なしのときの話です。待ち合わせ場所ではそれはもう緊張しましたね。だってどんな人が来るのかまったくわからないのですから。その人とは二年間毎日やりとりをした末に会うことになったんですが、「イメージが崩れるのが嫌(イメージと違ったらメールが続けられなくなると思ったから)」と写真を見るのをずっと拒んでいたのですよ。それがいろいろあって、ついに会うことに。そのときの話は過去ログの……いや、やめときます、今さらはずかしすぎるわ。


2003年05月12日(月) ボウリングの思い出

土曜日は以前いた会社の先輩、A子さんと梅田で待ち合わせ。
彼女とは年が六つも違うが、同じプロジェクトに参加したのをきっかけに意気投合、私が退社してからもしばしば食事したり旅行に出かけたりする仲なのだ。
ちょっとリッチにイタリアンのコースランチに舌鼓を打ちながら、今春の人事異動や社員の退職、結婚ネタなどの情報提供を受け、大いに語らう。やめてから二年半も経つのにいまだにそんな感じがしないのは、こうして彼女が社内のゴシップを逐一教えてくれるからだろう。
食欲とおしゃべり欲が一段落したところで場所を変える。いつもならカラオケとなるところだが、少々食べ過ぎた私たち、腹ごなしにボウリングでもしようかということになった。
ボウリング場なんて何年ぶりだろう。新入社員の頃、親睦を深める名目で同期と来たのが最後だから、かれこれ九年ぶりである。
「負けたほうがこのあとのお茶を奢ることな」
とA子さん。いいですねえ。私、ものを賭けた勝負には負けませんよ。かくして、『茶茶』のケーキパフェを賭けた戦いの火蓋が切って落とされた。
ルールブックを見ると「女性は10〜12ポンドを目安にボールを選びましょう」などと書かれてあるが、本当なんだろうか。試しに10ポンド(4.5kg)に指を入れて持ち上げてみたが、重すぎて腕がもげそう。重量的には8ポンドがしっくりくる気がしたのだが、悲しいかな、穴に指が入らない。やむなく9ポンドをチョイス。
しかし、この500gの差は思った以上に大きかった。手首にかかる負担が大きく、ほとんどコントロール不能になった。毎回のように厄介な位置のピンを残してしまう。
「7番と10番のスプリット(ピンが離れて残っている状態)なんかぜったい無理やん!」
後ろでニヤニヤしているA子さんに叫んだら、「もしあれを倒したら、今日のボウリング代、私が持ったげる」と返ってきた。
やったねと小躍りしながら、「あれ、この感じ、いつかどこかで……」と首をかしげたら、懐かしい記憶がよみがえってきた。
大学時代、仲良しの男の子とボウリングに行ったときのこと。やはりスプリットを出した私。「あれ倒したら、なんかいいことあるかな?」といたずらっぽく言ってみたところ、彼は「お、ええよ」。
「わーい、じゃあセブンティーンアイスを……」と言いかけたら、彼が笑顔でこう言った。
「スペア取ったら、キスしたる」
ひゃああ。心の中で身悶えする私。だって、彼のことずっと好きだったんだもん。彼には地元に幼なじみの彼女がおり、私は長く友人の座に甘んじていたのだが、ついにチャンス到来?
なのに、なのに。私の口から出たのは気持ちと正反対の言葉だった。
「ちょっと待ってよ、それのどこが“いいこと”なのよ」
当時まだまだ純情だった私は動揺を悟られまいと思わず憎まれ口を叩いてしまったのだ。
なんともったいないことを……。今の私なら、「よっしゃあ、ぜったい倒す!」と宣言、床に這いつくばって板目を読み、ボール三つくらい抱えてレーンに向かったであろうに。
で、結局どうなったのかって?
やっぱりちょっと煩悩が強すぎたみたい……。ボールはふたつのピンのあいだをゆうゆうとすり抜けて行きましたとさ。

休憩なしで二人で五ゲームはさすがにきつかった。勝負にはかろうじて勝ったものの(AVG.110というきわめて低レベルな戦いであったが)、パフェのスプーンを左手で持たねばならなかったほど腕はガクガク、週が明けてもまだ鉛をぶらさげているようなダルさが残っている。
でも、やっぱりボウリングって面白いな。大学時代は近所のボウリング場に毎週のように出かけていたことを思い出してしまった。
そうそう。今年の夏は大阪でオフ会をしたいなあと思っているのだけれど、チーム対抗ボウリング大会っていうのはどうかしら。負けたらオフレポでなにを書かれるかわからないから、日記書きのメンツをかけて死闘を繰り広げるの。あら、いいじゃない。
で、うんとおなかを減らしたら鶴橋へGO!ホームに降り立つともうニンニクや煙の匂いが漂ってくる大阪のコリアンタウンで、焼肉をつつきながらうんと劣情を刺激する話をしようではありませんか。
もし宿泊組がいらしてリクエストがあれば、翌日USJにもお付き合いいたします(年間パス持ってるもん)。

【あとがき】
ボウリングに行くと、男性と女性の腕力の差を感じますね。ピンが倒れるときの音が全然違うもん。ピンを倒すというより破壊するって感じだもんね。ふだんはパッとしない男の子が実はすっごく上手だったりして、「あらま(素敵)」なんてこともあったような。10年ほど前、私が学生時代に足繁く通っていた頃は、スコアは今みたいにコンピューターが計算してくれるのではなくて、自分たちで手書きしていました。懐かしい。


2003年05月09日(金) キーワードは「劣情」

web日記読みを習慣にすることの利点のひとつに、巷でどんなことが話題になっているかをリアルタイムで把握できるということがある。
リンク集の新作リストには似たような更新報告コメントが並ぶので、それに目を通せば世の人がなにに注目しているのかは一目瞭然。半年前なら拉致問題、二ヶ月前ならイラク戦争、数週間前まではタマちゃん。そしてここ数日はやはり、「パナウェーブ研究所」であろう。
といっても、白装束集団一色のワイドショーを皮肉った内容のものが大半なのだが、この手の番組を相手に「もっと他に取りあげるべきことがあるだろうに」と嘆いてもしかたあるまい。駅の立ち食いそば屋で「そばの香りがちっともしない」と文句を言っても無駄なのと同じだ。
心配しなくても、この白装束集団に関する報道は今週をピークに尻すぼみになっていく。ワイドショーではまだまだトップ扱いだが、私は「この話題も老い先短いな」と確信している。
だって、白装束集団には“華”がないんだもん。彼らは「人々の心を捉えて離さないなにか」を持っていないのだ。
得体の知れない宗教集団という共通点だけで、「アレフ」ことオウム真理教と並べるのは失礼な気もするが、あの集団がテレビに出てきたとき、世の人が受けた衝撃は強烈だった。
まず、「尊師」と呼ばれている男の風貌に度肝を抜かれた。こ、これが教祖……?ホーリーネームだのイニシエーションだの、不思議なフレーズを口にし、流される映像もそれ空中浮遊だ、やれ水中クンバカだ、となにもかもがインチキくさい。
センスのなさも尋常でなかった。衆院選に立候補したときには宣伝カーの上で教祖の面をかぶった信者が歌い、オウムシスターズ(三人ともすごい美女だった)が躍った。事件を起こしたあとの、教祖の「わーたーしーはやってないー、潔白だあー」の歌声ひっくり返った人も少なくないだろう。
それなのに、教祖の脇を固めるのは東大、京大、早稲田といった一流大学卒の面々。そのわけのわからなさ、荒唐無稽さは小川知子の形相を変えてしまった「幸福の科学」や霊感商法と合同結婚式で一時ワイドショーを席巻した「統一教会」をもしのぐものだった。
たしかに十年に及ぶキャラバン生活、渦巻きマークを貼りつけたワゴン車、張りめぐらせた白い布、スカラー波にニビル星がどうのこうのと、白装束集団の言動は傍目には奇行としか映らぬものではあるが、世の人の関心を長く留めておくだけの派手さ、インパクトはない。
彼らには私たちの劣情を刺激する要素がないのだ。「あんな美女ばかりはべらせて、麻原はヤリまくってるにちがいない」とか「テッシーは山崎浩子をあきらめられるのだろうか」といった、下賤ではあるがもっとも人が興味をそそられる方面のネタがこの集団にはひとつもない。
強いて挙げるなら、千乃代表がむかしはきれいな人だったということだが、先日彼女にインタビューしたリポーターが「皺々の太った老婆だった。写真の面影はまったくなかった」と語ったおかげで、唯一ともいえる神秘性もこっぱみじんになってしまった。
代表は一向に表に出てこないし、上祐氏や青山弁護士のような際立ったキャラクターの信者もいない。それなのにワイドショーは「彼らはいったいどこへ向かうのでしょう」だけでよく二週間も持たせたものである。
キワモノ見たさの視聴者が彼らに飽きるのも時間の問題。もっとも、それでも信者にとっては「やっとか……」の思いだろうが。

【あとがき】
本文の中で千乃代表のことを「むかしはきれいだった」と書いたのですが、更新した翌日、ワイドショーで若かりし頃の写真を何枚か見たところ、ぜんぜんそんなことなかったです。私はよく映像が流れている例の一枚しか見ておらず、「この頃の人にしては」と思ったのですが、あれだけがものすごく映りがよかったみたい。
ところで、むかしからワイドショーで時の話題となり、なおかつ何週間も人々の関心を捉えて離さないのは「劣情をかきたてるものがある」という理由が大きいと思います。古くはロス疑惑の三浦和義、松山のホステス殺しの福田和子、和歌山毒物カレー事件の林真須美といった人たちは揃って突き抜けたキャラクターを持ち、事件の背景には「事実は小説より奇なり」を地で行くドラマ性がありました。また、芸能人の結婚より離婚のほうが騒がれるのも、人の劣情を揺さぶるものがあるからでしょうね。
このweb日記界でもそういう傾向は見られます。議論となるとヤジウマが増えてアクセス倍増だというし、一年ほど前にいわゆるデムパ系の女性日記書きが出現したことがありましたが、そのときもすごい騒ぎになってましたから。 あの人、どこ行ったんでしょうね。


2003年05月07日(水) 好きなCM

NTTドコモの「ケータイが、私たちを主人公にする。」のCMが好きだ。
どこかの田舎だろうか、ひなびた駅で男子高校生がベンチに座って電車を待っている。そこにクラスメイトとおぼしき女の子がやってきて、彼の隣に腰かける。「二限から体育あんねん」「うわ、きっつー」なんて会話を交わしながら、彼女はカバンから携帯電話を取り出す。
「ケータイな、カメラ付きに替えてん」
そして、「ま、とりあえず」とツーショットをパシャ。彼女は撮りたてほやほやのそれを眺め、「あかんわ、あんたの表情かたいわ」とくすっと笑う。「もっと、もっと寄ってよ」と男の子に注文をつけ、さらに顔を寄せてパシャ。
「うん、ましやん」
彼女は二枚目の写真を見ながら満足げに、じつにうれしそうに頷く。そこにナレーション。
「一番に撮るのはアイツって決めててん」

なんて爽やかなんだ。学生時代にこういうものがあったなら、私も意中の彼となんとか写真に収まろうとあの手この手を考えたにちがいない。で、戦果はもちろん待ち受け画面に。
そしてあるとき、ひとりでそれを眺めていると、私を驚かせようとこっそり近づいてきた彼に見られてしまうの。
「キャー!い、いまの……」
「ごめん、見えた」
「ばれちゃったか。ま、そういうこと。でも気にしないで!」
「ぜんぜん気づかなかった。でも……うれしかった」
なんてな〜。
部活に明け暮れ、好きな人のひとりも見つけられなかった高校時代。いまさらながら高校生の恋に憧れるのは、やり残した感があるからなのかもしれない。

春は爽やかなCMが多い。そろそろシリーズ第三弾がオンエアされるのではと私が楽しみにしているのが、サントリーの『緑水』のCM。
第一弾は宮崎あおいさん扮する女子大生が駅のホームで気になる男の子に出会うも、彼の隣には親しげに振る舞う彼女の親友の姿が、というストーリー。宮崎さんが発するセリフは「水で、こんなにちがうんだ」のひとことだけなのだが、その複雑な気持ちが表情としぐさから見事に伝わってくるのだ。
この続編もよかった。夏、サークルの仲間たちと渓流へ。宮崎さんが裸足になって川の中に入っていくと、うしろから彼が追いかけてきた。うれし恥ずかしい気持ちで奥へと歩いていくが、それもつかの間、親友が彼を追いかけてきた。宮崎さんは「すべるよ!」と親友に明るく声をかけつつ、せっかくいい雰囲気だったのにな……と内心がっかり。これまたこちらに伝えてくるものがある。
本当は互いに気になる存在なのに、なかなか向き合えないせつなさ、もどかしさ。こんな記憶があるわけでもないのに(いや、忘れているだけかもしれない)、「わかる、わかるわあ」と私につぶやかせる。宮崎さんのよく言えば素朴、率直に言えばもっさりした髪型と服装にも昔の自分と重なるものがあり、懐かしさがよみがえる。
春は恋が生まれる季節。テレビの中の爽やかカップルに自分を投影して、私もたくさん恋をさせてもらおうっと。

【あとがき】
ところで、ここ数年ペットボトルのお茶がとても流行っているじゃないですか。だから、いわゆる「お茶らしい」普通のネーミングは全部使われてしまっているから、よくわからない名前のお茶がどんどん出てきますね。「生茶」とか「聞茶」とか「まろ茶」はまだわかるとして、「うぶ茶」ってなんなんですか。山口智子がセミヌードになってCMやっていたけど、まさかうぶ毛のうぶ?緑水も初めて聞いたとき、「藻が入っていそう……」って思ったけど。


2003年05月05日(月) 夫婦のあいだの個の領域

選挙に行った翌日のこと。夫が新聞を広げながら、朝食準備をしている私に声をかけた。
「ねえ、昨日誰に投票したの」
私は反射的に、どうしてそれを訊くのかと尋ねていた。「当選したかどうか見てあげようと思って」と彼は言い、私はしばらく迷ってから「あとで自分で見るからいい」と答えた。
以前から興味があった。世の夫婦というのは、互いが誰に投票したのかを把握しているものなんだろうか。もしかして、事前に「誰に入れようか」「そうねえ」なんて刷り合わせをしたりするのだろうか。
そんな夫婦がどのくらいいるのかは知らないが、結婚三年目の現時点では私はそういうのがピンとこない。何党の誰を支持するかといったことには、個人の考え方や価値観がもろに表れる。おおげさな言い方になるが、ウィークポイントというニュアンスではなく非常に重要という意味で、私にとって「急所」のように感じられる部分である。外でそういった話をしないのはもちろんだが、たとえ夫が相手でも考えなしに口にするのはためらわれる。
朝のあわただしい時間の中、名を挙げるにとどまってしまうことが私に回答を渋らせた。なぜその人にしたのかも話せない状況で、思考の先端だけをポイと投げ与えるようなことは気が進まなかったのだ。
なんでもフランクに話せる夫婦は素敵だし、そういうことについて意見を交わすのは理解を深め合うにつながる意義のあることだと思う。しかしながら、政治に関する話が私にとって気乗りしない話題の代表格であるのも事実。日記書きを二年半もつづけているくらいだから、私は話し好きで、人がなにを考えているのかにも興味があるほうだが、この分野に関しては別。きわめて個人的なことであるから、踏み込むのも踏み込まれるのも苦手だ。
見解の相違は価値観の違いからくるもので、どちらがよいも悪いも正しいも間違っているもない。よって、相手の考えを理解したいとか自分のそれを知ってもらおうという気がいまひとつ起こらない。夫がニュースを見ながらあーのこーの言ってくることはあるが、私は相槌を打つくらいで積極的にコメントすることはほとんどない。

夫婦でもこれは個の領域だ、と思う事柄はほかにもある。たとえば宗教。信仰を持つ持たない、なにを信仰するかといったことはパーソナリティを形成する根本的要素のひとつである。
夫と義理の両親に入信を勧められて困惑している友人がいるが、夫婦だから、家族だから宗教をお揃いにという考えには強い違和感を覚える。彼女にその気がないことを承知のうえで結婚したのではなかったのか。
夫婦というのは、独立した個体がふたつ寄り集まっている状態。それは「1+1」であって、「2」ではない。
子どもから見た親という立場では「2」というひとかたまりでありたいが、夫婦としては互いは別個の人間であるという前提のもと、違いを尊重する関係に憧れる。

【あとがき】
後日談です。このテキストにいただいたメールは意見が真っ二つに分かれていました。「政治観や宗教を共有できない相手とは夫婦なんかやっていられない」というものと、「夫婦にもプライバシーはある」というものと。宗教に関していえば、「それが異なると一緒に暮らせない。宗教はそんな甘いものじゃない」という意見もいただきましたが、異なる信仰を持つ者同士が結婚するわけがないことは自明の理でありますので、ここでもそういう前提で書いています。互いがその部分で相容れない(片方に信仰心がない)ことをわかっていながら結婚したのなら、相手に入信を迫るべきでないし、逆に信仰心のない方も相手が信仰を持ちつづけるのは認めてやらねばならない、ということを言いたいですね。互いのそれには不可侵という合意が取れない相手との結婚はむずかしいでしょう。


2003年05月02日(金) 「がんばれ」ではなくて。

人を励ますのが苦手だ。
ふだん私たちが「○○するのが苦手」と言うとき、その苦手という言葉には本来の意味である「不得意」以外に、嫌悪の情が込められていることが多い。たとえば、「私は噂話が苦手です」「僕は団体行動をするのが苦手だ」にはそれを上手にできないという事実に加え、「したくないと思っている」という気持ちが表れている。
しかし、冒頭の一文に「好きじゃない」のニュアンスはない。「私はそれが下手」が意味するところのすべてだ。

私にとって、「励ます」は「応援する」とは別ものである。
ゼロを「元いた場所」「本来の自分」だとすると、プラスに転じようとする人の成功を祈るのが、応援。なんらかの理由でマイナスに転落した人がゼロを取り戻そうとするとき、その精神的な支えにならんとするのが、励まし。私はそんなふうに認識している。
応援は気が楽だ。たとえ挑戦に失敗しても、彼はゼロ地点に戻るだけ。こちらに「私がついていてあげなくては」という切迫感や悲壮感はあまりない。
私が苦手なのは、励まし。なぜならこれを試みるときほど自分の無力さを思い知らされる瞬間はないからだ。
誰かから痛みを分けてもらうことはできない。血を分けた親きょうだいであっても、生涯をともにせんとするパートナーであっても。大切な人が泣いていれば、私も泣く。しかし、それは同じ苦しみを味わってのことではない。苦悩の中にいるその人を不憫に思うからだ。楽にしてあげるすべがないのがつらいからだ。自分の不甲斐なさに涙するのである。
むかしから思っていた。励ましの言葉というのはどうしてこんなにレパートリーが少ないんだろう、と。「力になるよ」などという曖昧なものでなく、相手の心に活力を送り込むような言葉。私にはやっぱり「がんばれ」以外、思い浮かばない。
じゃあこんなときはどうしたらいいんだろう。
「あなたは十分過ぎるほどがんばっている。もうめいいっぱいなんだよね、わかってるよ。これ以上がんばれなんて私にはとても言えない。、言いたくない」
こういうときに使いものになる言葉が私の引き出しにはない。日々これだけ言葉をこねくりまわしているというのに。
「本当はこれ以上無理をさせたくない。でも歯を食いしばって耐えて。なんとか乗りきってほしい」
この心情を伝えてくれる言葉を、私はいま探している。
その一方で、憔悴しきっている人にはどんな言葉も意味を為さないことを理解している。
「私がついてるから、だいじょうぶ」
こんなものはなんの救いももたらさない。もしその言葉に救われたような気になる人がいるとすれば、口にした本人だけだ。黙って見ているのがつらいばかりになにか言いたいという欲求を満たせたから。「私がここにいることをわかっておいてね」をとりあえず表明できたから。どん底にいる人にとっては、誰がそばにいようがいまいが、現実の痛みの強さが変わるわけではないのに。気休めにもならない言葉に「ありがとう」を言わされることが、その人にとってはエネルギーの空費であるかもしれないのに。
結局、相手から求められるまで待つことしかないのだろうか。目の前で溺れているその人を水の中から引き上げることができない無力感にさいなまれながら。どうして助けてと手を伸ばしてくれないのと苛立ちさえ覚えながら。
それが岸にいる人間にできる唯一の苦悩の共有なのかもしれない。

【あとがき】
肝心のとき、人はひとりになる。自分を立ち上がらせるのは、そこから這い上がらせるのは誰のどんな言葉でもない。あてにできるのは己の精神力だけ。私はたくましい人間になりたい。