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2003年03月27日(木) きれいな日記書きさんは好きですか。

少し前、友人とメッセンジャーで話していたときのこと。彼が愛読日記の女性日記書きさんのほとんどを美人であろうと想像していると言うのを聞いて、驚きの声をあげてしまった。
なぜなら、私は逆だから。男性の日記を読みながら、「この人、かっこよさそう」とイメージすることはほとんどない(わ、こんなこと書いちゃっていいのかしら。ブックマークを公開してなくてヨカッタ)。
「web日記なんか書いてる男の人がかっこいいわけないじゃない」と思っているわけではない。男性は女性のように愛だの恋だのについて書くことが少ないため、そのあたりからルックスの良し悪しを推し測るのがむずかしいからだ。
それに、男性は非モテ発言をすることが多い。謙遜というよりもはやギャグの一種なのかもしれないが、素直な私は書いてあることそのままに受け取り、「へえ、そうなんだー」と納得してしまうのである。
それに対し、女性の日記書きさんについては私もたいていきれいな人を想像している。日記を読みながら、「この人はあんまり美人じゃなさそう」とは思ったことがない。
オフレポを読むと、誰それさんは可愛いだのきれいだのキュートだのといったことばかり書いてある。どうせこんなものはホメ言葉の応酬なんだから話半分で聞いてちょうどよいのだろうが、やっぱり間に受けてしまうのだ。
また女性は恋人の有無や未婚・既婚を隠さないが、それも「きれいな人なのでは」と思わせる一因である。多くの女性はその手の話題を好んで取りあげるので、「ちゃんと恋愛をしている(してきた)人なのね」と知ることができる。その点、男性はそのあたりには一切触れない人が少なくないため、私はしばしば「ポリシーで書かないようにしているんだろうか。それとも、ネタがなくて書けないんだろうか」と思いをめぐらせなければならない。
恋愛経験はルックスを保証するものではないが、その人に人間的魅力があることの証明ではある。それはある種の安心感を与えてくれる。

さて、今年のお正月は何人かの日記書きさんとも年賀状を交わしたのだけれど、その中に一枚、私にひえーとはしたない声をあげさせたものがあった。
一度もお会いしたことのない女性日記書きさんから届いたそれは家族写真付きのものだったのだが、そこに写っている彼女がものすごい美人だったのである。ボーイッシュというには大人っぽいが、『爽健美茶』のCMに出られそうな雰囲気の女性だ。
ルックスホメ殺しのオフレポをつまらないと思っている私が言うのだから、ウソじゃない。たしかに「きれいな人っぽいな」と想像する日記書きさんのひとりではあったが、予想を大きく超えてきてびっくりしてしまった。
しかしながら、私がその年賀状を穴が開くほど見つめてしまったのはそれが理由ではない。彼女の腕に抱かれているお嬢ちゃんは日記に出てくるそのままにおしゃまで可愛らしい女の子だったが、だからというわけでもない。そう、彼女の夫がとても男前だったのである。
以前、彼女は日記の中で夫のことを竹野内豊に似ていると書いていたことがあり、「大胆なこと言うねえ!」とすかさずつっこんだが、なるほど、これならなんとでも言えるというもの。私の目には竹野内というより、阿部寛を十歳若返らせて藤木直人で中和し、端正さを残したままくどさだけ取り除いた……という感じであったが、どちらにしてもすばらしい。
実を言うと、私もわが夫はなかなかイイ線いっているのではないかと思っている。誰に似ているのと訊かれ、一生会わせることはないだろうと思えば、「緒形直人かしら……」なんて特大風呂敷を広げることもある。しかし夫よ、ごめん。今回の竹野内には完敗かも。

もしこんなビューネ君みたいな人が日記を書いていたら……を想像するだけでわくわくしてしまう。
プロフィールに「作者近影」なんか置いたら、アイドル化するのではないか。女性からのメールがわんさか届くとか、どこかのサイトみたいにオフ会の参加者を抽選で決めなくちゃならないとか。
それともそんなミーハーは私くらいなのかしらん。

【あとがき】
男性はいろいろな話題をまんべんなく取りあげることが多いのに対し、女性は愛だの恋だの、男だの女だのの話題を好んで書きますよね。この差、おもしろいなあと思います。日記リンク集で「恋愛・失恋・男と女」のカテゴリーで更新報告しているのは圧倒的に女性。男性の書く不倫日記なんて見かけたことがありません。
頑なに恋愛の話を避けたり、恋人の有無や未婚・既婚を隠している女性日記書きさんを私は見たことがありません。なんせ女性は終わった恋愛、初恋にさかのぼってまで書きたがりますからねえ……ってそれ、私のことやないかい!


2003年03月19日(水) 男は「そういう生き物」なのか(後編)

前回の日記には、浮気についての本音コメントをいくつもいただいた。
「仕事を語るより人生を語るより、恋愛観にその人がもっともよく表れる」というのが私の持論。独身時代は気になる人ができると、なによりもまずそこのところをチェックしたものである。
今回、“浮気観”を語ってくださったのはほとんどが女性であったが、やはりひとつひとつからその方の性格や生き方の一端が伝わってくるような気がして、ぐっと親近感を募らせた私だ。

さて、いただいたメールは25通(うち男性は3)。「女もすなる」とあったのは13通、「浮気されたら関係終了」と宣言したものは14通で、いずれも過半数に達していた。
それではいくつかコメントを拝借しながら、今日は小町の恋愛観をお話しま……こら、べつに知りたかないとか言うなー。
まずは、思わず「うわ、これイヤやなー」とつぶやいてしまった、これ。

彼は「アイツを責めるなよ」と彼女をかばってるし、彼女も挑戦的で、なかなか嫌な気持ちを味わいましたね〜。 【だんさん】


学生時代、彼の浮気が発覚したときのお話だそうですが、私だったら「なかなか」どころの話じゃすまないでしょうね。
浮気されたとき、恋人を憎むか、相手を憎むか。私は相手の女性に憎悪を燃やすタイプなので、「アイツは悪くない。責めるなら俺を」なんてセリフは火に油を注ぐようなもの。
といっても、私が女性の前で感情をあらわにすることはないですけどね。自分が怒りや嫉妬で取り乱しているのを彼女に知られるほど、屈辱的なことはない。それは私にとって究極の敗北。どうせ恋人と関係を続行させることは不可能。ならば、彼女の家に乗り込んだり一発ひっぱたいてスカッとするよりも、何事もなかったかのような顔をしてプライドを死守するほうを選ぶだろうと思います。
では次は男性に聞いてみましょう。もし妻に浮気されたら、あなたはどうしますか?

うーん、自分の落ち度を責めるなぁ、第一に。愛想をつかされる失敗も重ねているので、「ああ、ついに」とあきらめるか、「相手にあって僕になかったものは何か」は突き止めたいです。捨てられたら、さらに男を磨いて口説き直すしかない?これは難しいなぁ。間違いなく泣き寝入りですな。 【matsumonさん】


ま、なんともうらやましい。奥様への愛が爆発してますねー。
実はこれ、すごいと思ったんですよね。そんな目に遭ってもなお、matsumonさんは「妻」を見ている。私だったら、女を磨いて同じ相手を口説き直すという発想はまず浮かばない。
私、買物は遅いけど、こういう場合のあきらめというか見限りはものすごく早いんです。その昔、彼の留守に部屋を掃除していて他の女が泊まった痕跡を見つけてしまったことがあるのですが、三十分後には荷物をまとめ、テーブルに書き置きを残して出て行っていましたね。
この手のことでケチのついた相手とはやり直せないというのが大前提としてあるので、わんわん泣きながらも「この人とは終わった。次に進まなくちゃ」と考えている。私はそういうタイプです。
そして、私を非常に懐かしい気持ちにさせてくれたのがこれ。

今まで付き合ってきた人に対しては、ものすごい抑止力をもって浮気させないようにしてきている。 【ちょむさん】


若かりし頃を思い出しました。うんうん、私も牽制してきた覚えがあるなあと、思わず遠い目をしてしまいました。
では、今はどうなのかというと。夫の仕事の都合で、週末婚のような生活をかれこれ二年も続けているわが家。いくら慣れたとはいえ、友人に「浮気してたらどうする?」なんてからかわれてムッとしたり、夫と連絡が取れず、悶々とした気分で過ごす夜はあるわけです。
でもそんなとき、私が胸の中で反芻するのが「もう大人なんだから」という言葉。そのとき、妻にはいかなる言い訳も通用しないことを彼は知っている。それがどんな結果につながるかも。それでもなにか事を起こしたとしたら、それは間違いなく「彼の選択」なのだ。彼が大人の男として考えた末に選びとった行動なのだ。そのときはもう、こちらはそれを甘んじて受け入れるしかないではないか。
彼にまかせておけばいい、彼を夫に選んだ自分を信じるという意味でも。今はそういう気持ちだ。
これは彼への思いであると同時に、自戒でもある。私とて彼の留守になにかしようと思えば、いくらでもできるだろう。しかし、そのときはすべてを失う覚悟ですることだ、と。
その結果なにがどうなっても、「こんなことになるなんて……」はナシ。私も立派な大人なのだから。

二人の信頼関係というものをどれだけ大切だと思っているか、浮気するしないはそこにかかっていると思ってます。 【りおさん】


相手が本当にかけがえのない存在であるならば、それを失うリスクを冒してまでポッと出の好奇心や性欲を満たそうとするわけがない。そこまで頭が回らなかったというなら、その相手はそれだけの存在でしかなかったということだ。

今、私の手元に『話を聞かない男、地図が読めない女』がある。
つい昨日、「男の浮気性は精子の仕業だと言われても説得力がない。それは科学的に立証されていることなのか」と息巻いて書いたばかりなのに、あら、まあ。それは男と女の脳の違いによるものだ、と見事に解説されているではないか。
つまり、こういうことらしい。「セックスしたい」という欲望を作りだすのは脳の視床下部というところ。その部分が男性は女性に比べて大きいだけでなく、そこを活性化させる男性ホルモン、テストステロンの分泌量が女性の十倍から二十倍。ゆえに、性衝動は男性のほうが強いのだ、と。
なるほど、それで合点がいった。

会社の重役やら名誉のある職にいる男性があっさりと痴漢で捕まったり少女買春などに手を出すのを見ると、理性なき生き物よのーと慨嘆したくなりますよ。本当に、後先考えてない。 【匿名希望さん】


「おいおい、そんなことで人生棒に振るか?」と理解に苦しむような事件がしばしば起こるのも、そういうわけだったのねえ……なんて皮肉は置いておいて。
テストステロンが女性の百倍だろうが千倍だろうが、乱交性は生まれつき体の奥底に宿っているのだと聞かされようが、「じゃあ、浮気性なのはしかたないね」なんて私はやはり思わない。
人間は森の野生動物ではない。知性も、理性も、心もある。私がともに生きているのは「雄」ではなく、「男」なのだ。

【あとがき】
浮気に限ったことではないけれど、人間、いけないことだとわかっていてもするときはするでしょう。何を言ったところで、どれだけ目を光らせたところで、誰にも阻止なんかできないよね。つまり自分の選んだ人を信じて、まかせることしかできないんです。「信じきる」というのは決してたやすいことではないけれど、疑心暗鬼になって過ごすのはごめんです。「人生はなるようになる。すべては必然で起こる」それが私の信条でもあります。


2003年03月18日(火) 男は「そういう生き物」なのか(中編)

※ 前編はこちら

今日に至るまで、なぜ私が「男はそういう生き物だから」に首をひねりつづけてきたか。「そんなもん認めてたまるか」という気持ちももちろんある。が、そのような感情的なものは横に置いておくとすれば、理由は「そのメカニズムについての説得力のある説に出会ったことがないから」に尽きる。
今月号の『婦人公論』の中に、渡辺淳一さんの「男の浮気の原点は精子にある」というタイトルのコラムがあった。

精子というものは、常に激しく仲間と競い、戦いながら卵子へ向かって突進し、そのなかへ入りこもうとする生きものである。この精子の卵子への異様な執着の仕方と落ちつきのなさを見たら、男が女と見るとすぐときめき、なんとか近付こうとする気持ちがよくわかる。
文明がいかに進もうとも、人間は体の奥底に沁み込まされた原点を忘れることはできない。男の浮気性は、雄という生きものに染み込まされた本能なのだ。


これこそまさに、私が「聞きわけのよい人たち」から何度となく聞かされてきた説である。精子を「男」に、卵子を「女」に置きかえて二者の生理の違いを考えるというのは、話としてはわかりやすいし、面白い。
しかしながら、根拠の弱さ、こじつけ感は否めない。精子の持つこの性向が、ときに理性を奪い、行動を支配するほど強い本能として男性の中に残っているというのは、医学的、科学的に証明されていることなのだろうか。
別のページでは神経解剖学の専門家が、妻が夫の浮気を見破ることができるのは脳の仕組みによるものだ、と説明している。
「脳梁の後部が、女性は太く丸い球状なのに対し、男性は細い管状なんです。脳梁は神経線維の束なので、そこが大きいということは物事をきめ細かく見ることができることを意味します。だから、女性は夫の表情や行動のささいな変化にピンとくる。一方、男性は妻が髪を切っても気がつきませんが、それは愛がないからではなく、顔しか目に入らないからなのです」
男性の浮気についてもこんなふうに解説してもらえないものだろうか。
「女の浮気は絶対許せない」と言う男性がときどきいる。理由はこうだ。
「男は愛情がなくてもセックスできるけど、女は気持ちがなければできない。だから、男のそれより罪が重い」
男は出来心で浮気できるけど、女は本気でないとできないだろ?女は受け入れる側だから、遊びではセックスできないはずだ------こんなことを真顔で言うものだから、私は笑い転げてしまう。いったいいつの時代の話をしているのだろう。それは女性に貞淑であることを望む気持ちからきた、大いなる勘違いである。愛情とセックスを切り離すことぐらい、女にとっても朝飯前だ。
「浮気をするか、しないか」は男と女の生理の違いなどではなく、チャンスの有無と理性の強靭さにかかっている。私はほとんどそう信じている。男の浮気が女のそれより多いのも、理由はそこにある。
「絶えず卵子を追いかけ一瞬たりともじっとしていない、あの落ちつきのなさを体の奥に秘めているから、男は……」などというのは、男たちが自己弁護のために作り出した都合のよい解釈に過ぎないのではないか。
私はやはり、女性が自発的にそれに理解を示してやろうとするのはわからない。同じセリフでも、男性が浮気がバレたときに言い訳がましく、あるいは開き直って口にするほうが、気持ち的にはまだ理解できる。

が、そう言いつつも、気になることがないわけではない。女性の性的欲求を満たすための商売や女性による性犯罪が、男性のそれに比べて極端に少ないのはどうしてなのか。
もしこれが、男と女では性への執着の強さが根本的に違っていることを示しているのだとすれば?
浮気とセックスは切り離しては考えられない。となると、それを理性の問題だけだと言い切るのはむずかしいのだろうか。
「男は種を蒔く生き物だから」「太古の昔に狩人だったことの名残」などでなく、生物学的根拠のある説を私は知りたい。

【あとがき】
よろしければ、「浮気」に関するあなたの本音を聞かせてください。「もし浮気されたらどうするか(関係継続の余地があるのか、など)」「されたとき、こう対処した」について、とくに興味があります。いただいたコメントは次回の日記で紹介させていただく場合がありますので、NGな方はその旨ひとことお願いします。「オッケーよ」な方はお名前と、お持ちならURLをお書き添えください。


2003年03月17日(月) 男は「そういう生き物」なのか(前編)

私には物心ならぬ、恋心ついた頃から抱きつづけてきた疑問がある。この年になっても明快な答えを得られずにいるそれは、巷にはびこる「男は浮気をする生き物である」という大前提についてだ。
「こればっかりはしかたがない」といった諦念や開き直りの意を込めて、人はしばしばこれを口にする。あたかも如何ともしがたいことであるかのように。あまりに耳目に触れる機会が多いため、「これはもはや社会通念とさえ呼べるのではないか」とドキリとしてしまうほどである。
が、私がとりわけいぶかしく思うのは、女性の口からそれが語られるときだ。たとえば、作家の佐藤愛子さんはエッセイの中でこう言っている。
「男が浮気するのは、ネコがネズミを追いかけるのと同じ。ネズミがそこにいるから追う、これはもう習性である。男の浮気を防止しようなどと思ったときから、女の不幸ははじまるのだ」
「男は浮気をするものである」----これは女にとって、「ハイ、そうですか」とすんなり受け入れられるような事柄ではないはずだ。なぜなら、たとえ嫌々渋々にせよ、そういうものだと認識するということは、同時に「あきらめる」ことでもあるからだ。
なのに、どうして一部の女性たちはこんなにもあっさり、それを「男と女の生理の違い」として片づけてしまえるのだろう。私は昔からこれが不思議で不思議でしかたがなかった。
それでも、佐藤さんのように人の世の酸いも甘いも噛みわけてきた人の口から語られたときには、私も一度ぐらいはふーむと唸ってみないこともない。
しかしながら、自分とたいして年の違わない女性に「男ってそういう生き物だからね」なんてさらりと言われると、驚愕するとともに痛々しいものを感じずにはいられない。「この年でそんな悟りの境地を開くほどの艱難辛苦を味わってきたのかしら」と、つい勘ぐりたくなってしまう。

あらためて確認しておこう。私が今日これから書きたいのは、浮気の是非についてではない。男のみならず、苦悩させられる側である女まで一緒になって、男の浮気はしかたがないものと容認している、あきらめている。私が解せないのはそこだ。
「何がそう彼女たちを聞きわけよくさせるのか」ということ、そして「男は本当にそういう生き物なのか」ということなのだ。

【あとがき】
前回の日記で「おぬしは女心がわかっとらん!」なんてことを書いたばかりだけれど、私も男性の生理についてはこの年になってもさっぱりわかりません。理解する気がないのではなく、私には想像がつかないのです。とりあえず明日の更新をお楽しみに。


2003年03月13日(木) 女心はデリケート

休憩時間に仲良しの同僚とお茶を飲んでいると、「ちょっと聞いてくださいよ」とA君がやってきた。
彼は二十一歳のフリーター。見るからに軽い風貌に加え、敬語は苦手だけれど携帯メールを打つのは異常に早いという、まさにいまどきの若者である。
おしゃれで見映えのいい男の子なのだが、あまりにのほほんとしていてハングリーさがない。「私がこの年頃のとき、こんなにおぼこかったっけ?もうちょっとしっかりしていたような気がするけどなあ」と思えてならないのだが、それは彼が十も年下だからだろうか。

さて、彼がこんな話をはじめた。女友達と会ったのだが、どういうわけか彼女の機嫌を損ねてしまい、結局ギクシャクしたまま別れてしまったのだという。
あらら。なんか余計なことでも言ったの?
「それがわかんないんですよ。かわいくなったって褒めたら、怒りだしたんです」
そんなわけないでしょう。そのときの会話を再現してみてよ。
「半年ぶりで会ったんですけどね、彼女すっごくスリムになってたんですよ。で、『むっちゃ痩せたなー、かわいくなったやん』って褒めたら、『そんなことない』って否定するんです。『テレんなよ、ぜったい痩せたって』って言ったら、『ぜんぜん痩せてへんし!』ってマジで怒りだして……」
なるほど、それは女の子がむっとするのも無理ないかも。
そう言ったら、彼は「えー、なんでですか」と口をとがらせた。二十一歳の男の子にこの女心を読み取れというのは厳しい注文だったようだ。
同じようなシチュエーションで、女が女に「あら、ちょっと痩せた?」と尋ねることももちろんあるが、私の経験では「わかってくれた?うれしい!」と喜ばれるより、「ううん、ぜんぜんだよー」とか「かえって太ったくらいよ」と返されることのほうが多い。
そんなときは心の中でツッコミを入れる。えー、ぜったい痩せてるって。だってそのパンツ、こないだ履いてたときはパツパツだったもん。それにさっきも何食べるって訊いたら「今日は和食にしよ」って言ってたし。ダイエットしてるでしょ。
しかし、女同士の場合、本人に否定されたらそれ以上追求しないのがお約束である。というのは、「太ったわね」が禁句であるのはもちろんだが、「痩せた?」も扱いがむずかしい“諸刃の剣的フレーズ”だからだ。
女にとって「痩せたね」は「きれいになったね」と同義語だから、言われるとうれしいのは事実。が、女は見栄っ張りな生き物で、このスリムなボディを「努力の末に最近手に入れた」ではなく「もともとこうだった」と思わせたい、という方向に気持ちを働かせてしまう。相手が男性であればなおのこと、「あら、前からこんなものよ」とすました顔で言いたくなる。そのあたりの気持ちを察してあげなければならないのである。
つまり、友人女性の否定は決してテレや謙遜だけではなかったのだ。A君は褒めたつもりでも、彼女にとっては「そんなに痩せた痩せたって言わないよ。じゃあ前の私はそんなにひどかったわけ?」と訊き返したくなるような言葉だったんじゃないかしら。
「そんなあ。だって女の人ってしょっちゅう痩せたい痩せたいって言ってるじゃないですか。じゃあ『痩せたね』は最高の褒め言葉になるだろうって男は思っちゃいますよ」
……たしかに。でもねえ、男性に髪を切ったことに気づいてもらえるのは無条件にうれしいけれど、面と向かって「痩せたね」って言われるのは複雑な気分なのよね。
なぜなら、それはふくよかだった頃の自分が相手の中に存在するからこそ出てくるセリフ。うんとひねくれれば、「痩せたね=前は太ってたね」とも受け取ることができるというわけだ。
できることなら相手が気づかぬ間に相手の中の自分を最良の状態の自分に上書きしてしまいたい……と思っているこちらとしては、手離しでは喜べないものなのよ。
「じゃあどうすりゃいいんですか?なにも言わなきゃ言わないで、すねられそうだし」
そういうときはね、「あれ、君ってこんなにスタイルよかったっけ?」とか「やっぱり女の子って華奢なんだなあ」とかいうふうにさりげなく言ってあげるの。あくまでも「なんで今まで気づかなかったんだろ?」って自問のニュアンスを込めるのがポイント。「今ごろ気づくなんて」を言外に匂わせると、女の子に花を持たせてあげられる。

それにしてもあなた、彼女以外からもチョコレートを三個ももらったって自慢してたけど、モテてたって女心の機微はまだまだわかってないわね。そうそう、明日はホワイトデーだけど、もちろんお返しは用意してるんでしょうね?
「……あ」
素材的には申し分なしの二十一歳、精進してうんといい男になってね。

【あとがき】
痩せたと言われて素直に喜ぶ女性もいるし、たしかにその見極めはむずかしいよね。「痩せたね」は使わず、「なんかきれいになったんじゃない?」のほうが無難かもね。それだったら、もし「そんなことないよおー」と返ってきても彼女は内心うれしいと思っているはず。


2003年03月07日(金) もしパーフェクトボディだったら

林真理子さんのエッセイの中に、「もし自分が神田うのちゃんのような顔とボディを持っていたら」を妄想する話があった。

南国のコロニアルホテルのベッドで、ずうっと裸のまま横たわっている。一緒にいる男が近寄ってきても何もさせない。時々、「冷たい飲み物、持ってきてちょうだい」と命令する。

セックスの途中、「なんかその気なくなっちゃった」と言って、えー、そんなァーと呆気にとられている男を尻目にシャワーを浴びに行く。バスローブをひっかけた姿で出てきてテレビをつけるが、それがすごくサマになっていて男は再びムラムラする。でも、私は「何もしないで、って言ったじゃないの」と叱りつける。

男の人とそういうことがしたくなったら、自分から誘う。媚びやテクニックは一切無用。ただ素足を組んで「しようか」とひとことだけ言う。


彼女はこんなことがしてみたいんだそうだ。涙なしには読めないくだりである。どんな青春時代を送ってきたか、容易に想像できるではないか。
そんなわけで、私は「なにこれ、全部そっち系のことじゃないの」などと言うつもりはない。自分だったらどうかと考えてみても、一番に思い浮かべるのはやはり「愛だの恋だのに有効活用する」ということである。
もし私が抜群のルックスを持っていたら。「足らずの女」というのをぜひやってみたい。
私は気持ちの出し惜しみというのができない。いつも自分の持てるすべてで応えようとする。しかし今思えば、そういった「与え過ぎ」が相手の気持ちを太らせ、結果的に恋の寿命が縮んでしまった……ということもあったような気がする。だからいっぺんでいいから、「君の心がどこにあるのかわからなくて不安だよ」なんて言葉を聞いてみたいなあ。

とまあバカな冗談はここまでにして、もし私が自分の顔とからだに絶対の自信を持つ女だったらきっと真剣に考えていただろうなと想像することがひとつある。
それは、若いうちにヌード写真を撮っておくということだ。エッチのときにお遊びでデジカメで、というのではもちろんない。しかるべき場所でちゃんとカメラマンに撮ってもらうのだ。
十年前、『アンアン』というハタチ前後の女の子向けのファッション雑誌がヌードモデルを読者公募したことがあった。そして、審査を通過した十九人の女の子(もちろん全員素人)が「きれいな裸」という特集でヌードを披露したのである。当時大学生だった私は、自分と同じ年頃の女の子たちが嬉々として脱いでいるのを見てショックを受けた。
彼女たちは一様にのっぺりとした平面的なからだをしていたし、男性が見てもこれじゃあ欲情しないだろうと思われるほど、無邪気で清潔感のあるヌードだった。
が、それでも私はページの中の彼女たちを違う星の生物ででもあるかのようなまなざしで見つめ、「恥じらいというものがないのか?私が親だったら勘当ものだな。彼氏だったら別れるな」とつぶやいたものである。
今でも私は自分の裸を見ず知らずの他人に見てもらいたいという欲求は理解できない。けれど、「人生で一番きれいなときのからだを、自分のために一生の記念として残しておきたい」という気持ちならわかるようになった。
男性誌のグラビアのように官能的なポーズをとる必要はない。つくり笑顔もいらない。ヘアもメイクもできるだけナチュラルにして、飾りを取り除いた状態の“素”の姿を撮ってもらうのだ。
そして、それは大事に大事に保管しておき、いつか押しも押されぬ立派な中年オバサンに成長し、私の女としての人生はもう終わりなのかしらと寂しくなったとき、そのアルバムを引っぱり出そうではないか。「私ってこんなきれいだったんだわ」と心が温まり、明日への活力が湧いてくるに違いない。
鈍感な夫にはことあるごとに見せ、「あなたってほんと幸せ者よね。こんなきれいな奥さんもらえたんだから」と刷り込んでやろう。娘が年頃になったら、「お母さんにもこんな時代があったのよ」と見せびらかすのもいいかもしれない。「うそー、信じられない、昔はきれいだったんだ!」なんて尊敬されたりして。くっくっ。

少し前、ネットの友人が「写真サイトのモデルに応募して撮ってもらったの」と言って、URLを教えてくれた(ヌードじゃないです)。
それは女の柔らかい部分がにじみ出た、とてもすてきな写真だった。その日初めて会ったカメラマンの前でこんな顔ができるものなのかと驚いたほど、彼女は安らいだ表情をしていた。
「自分自身を見つめ直したくて、ダメもとで応募してみたんです。で、撮ってもらったら私じゃないみたいっていうか、私ってこんなふうに笑うんだなあ、こういう顔するんだなあって発見があって……」
照れくさそうに、だけど幸せそうに話す彼女を見て、すばらしい経験をしたんだなあと私は胸がいっぱいになった。と同時に、私の中の「一番いいときの自分を残しておきたい」という思いが募っていくのがわかった。
容姿的には今がマックス。階段をのぼりきり、折り返す前の踊り場にいる……という状態が、現在の私だと思う。降りるための一歩を踏み出す前に。ひと花咲かせたいという気持ちを捨てきれないでいる。
(ま、「募らせた」だの「捨てきれない」だのと言ったところで、そもそもパーフェクトボディがないんだからどうしようもないんだけどサ)

【あとがき】
昔は落ち目のアイドルやタレントが巻き返しを図って脱ぐというのが一般的だったけど、宮沢りえちゃんとか樋口可南子さんとかがヌードになってからずいぶんイメージが変わりました。彼女たちの写真集見たとき、「美しい」っていうのはもうそれだけで存在する価値があるよなあと思いましたよ。


2003年03月05日(水) 認められる機会

エアロビクス好きの人はナルシストの要素を多分に持っている。
……と言ったら、全国のエアロビ愛好者に怒られてしまうだろうか。しかし、その気がなければ体の線も露わなウェアを着て鏡に向かって躍る自分を一時間も見つめていられるわけがないと思うのだが、どうだろう。
もっとも、この手の自己陶酔はモチベーションを保つのに貢献するし、人様に迷惑をかけるものでもないので、大いに結構。毎回最前列を陣取る私も、もちろんそのひとりである。
さて、今日はうれしいことがあった。いつも同じレッスンを受けている少し年上の女性と初めて話したのだが、彼女に「インストラクターを目指しているのかと思ってた」と言われたのである。
彼女はエアロビ歴十五年の大ベテラン。そんな人に言われたものだから、「滅相もない!」と首をぶんぶん振りながら狂喜してしまった。

結婚してからというもの、自分のなにかを「認められる」ということがすっかりなくなっている。
夫は妻を褒めたりねぎらったりしない人だし、派遣社員の身の上では仕事を評価される機会もない。生活の中で、誰かから「がんばっているね」とか「よくやったね」と声をかけられることはほとんどない。
こんな私にとって、心が温まる言葉をもらえるなけなしの場がこのサイトである。
「いつも読んでます」
「お気に入りに登録しました」
「リンク張ってもいいですか」
いただいたメールの中にこれらの言葉を見つけると、書きつづけてきてよかったなあとしみじみ思う。
そしてもう一種類、私をハッピーにしてくれるフレーズがある。
それは、「今日の日記を読んで考えてしまいました」とか「私とは意見が違うなと思う日もありますが……」といったもの。とくに後者は初めての方からメールをいただくとかなりの確率で書かれてある。
人が書いたものを読めばなにかしら感じるものだが、それはトンカチで膝を叩けばビクンとなるのと同じで、反射に過ぎない。しかし、読み手自らもう一歩踏み込んで「考えて」くれることがあるとしたら、こんなに光栄なことはない。
人はある日記をブックマークするかしないかを決めるとき、その書き手が自分と考え方が似ているかどうかにどのくらい左右されるものなのだろう。「この人とは価値観が違う」と思えば、自動的に「読まない行き」に振り分けられるのだろうか。
私の場合、書き手と意見が合うかどうかは読みつづけるか否かを判断する材料にはほとんどならない。私が「これは読まない」とするのは、この書き手とはお友達になりたくないと思ったときだけだ。
共感できることの多いテキストのほうが心穏やかに読むことができるのはたしかだけれど、私はそれよりも書き手がどれだけ「自分」を持ってそれを書いているかに注目する。「それは違うんじゃないの」と思っても、主張の根拠がしっかりしていたら、それも一理あるかもと頷くこともある。思いも寄らなかったわと感心することもある。
だから、自分が書くときも同意見の人は少ないだろうと予想できても気にせず書く。それで何人かの読み手を失ってもしかたがない。

先日、日記の中でちょっとしたアンケートを実施したところ、たくさんの方がご協力くださった。
回答の中には、私の眼中になかった部分について言及したもの、新しい視点を与えてくれたものがいくつもあった。自分の視野の狭さ、思考の浅さ、経験不足を再認識するのはこういうときだ。つくづくありがたく、また私には必要な機会だと思う。
だから、メールアドレスを公開していないサイトを見かけるともったいないなあと思う。どんな理由があるのかわからないが、読み手の反応を受け取らないのは果実の一番おいしい部分を食べずに捨てているのと同じだもの。
あ、そうだ。ついでに言っておこう。
たまに、言いたい放題書いた末に「返事はいりません」と書いてあったり、受信拒否設定をしているのか、返信できないようにしてあるメールが届くことがあるけれど、そういうのやめてね。フェアじゃないの、私好きじゃないの。

【あとがき】
うれしい言葉をもらったときは心の引き出しに大切にしまっておきます。たまに思い出してはハッピーな気分に浸って自分自身に栄養補給するのです。


2003年03月03日(月) タメ口を考える

週末のスーパーは家族連れで大にぎわい。レジにも長蛇の列ができており、キャッシャーの店員もてんてこ舞いだ。
しばらく待ってようやく次は私の番というところまできたとき、さきほど会計を済ませた若い女性が惣菜のパックを手に戻ってきた。そして、レジ真っ最中の店員に「ちょっと。これ、値引きされてへんかってんけど」と声をかけた。
彼女はレシートを突き出し、「二割引きとちゃうの」と憮然とした表情。店員は会計途中の客に断りを入れ、レシートを確認しはじめた。
私はその一連のやりとりを「私にはできないなあ」と思いながら眺めていた。会計を待つ大勢の客が見つめる中、数十円を取り戻すためにキャッシャーに手を止めさせる度胸は私にはない。サービスカウンターで処理してもらおうと考える。
しかし、私に「できない」とつぶやかせたのはそのことではない。彼女の店員に対する言葉遣いである。
自分が客の立場のとき、相手が誰であろうが“タメ口”で接する人は少なくない。タクシーに乗り込み、「駅まで。急いでよ」とか、レストランでウェイトレスに「ちょっと、水ちょうだい」とか。私にはこれができない。必ず「駅までお願いします。急いでください」「お水いただけますか」だ。
敬意を表して、なんておおげさなものではない。見ず知らずの人間とのあいだに適切な距離をキープしようとする気持ちから自然に出てくるていねい語だ。明らかに年下であっても、初対面の相手には「です、ます」である。

先日、夕方に再放送していた『GTO』をちらっと見た。漫画が原作のドラマだけあって、ストーリーは破天荒なものであったが、ひとつだけ妙にリアリティがあったのが生徒たちの言葉遣いだ。
女子生徒 「オニッチ、ひどいよ、それじゃあヨウコがかわいそうだよおっ」
男子生徒 「そうだよ、ちょっとはアイツの気持ちも考えてやれよ!」
鬼塚先生 「っせえ!おめえらは黙ってろ!!」
通勤電車の中で高校生の会話を聞きながら、「この子たちは学校でもこの調子で先生にも話しかけているんだろうなあ」と想像することがある。そして、いまどきの先生はそれを注意することもないのかもしれない、とも。言っても無駄だと思っているのか、「友達のような先生」を目指しているからなのかはわからないけれど。
生徒を「おめえら」呼ばわりする教師は極端にしても、『3年B組金八先生』でも金八は生徒を下の名前で呼び捨てしていたし、教師が生徒と接するときのスタンスは私の頃とは明らかに違うようだ。
教師が聖職という時代は昔の話。教師というだけで尊敬すべきだとは思っていない。しかし、敬語というのは相手に敬意を表すためだけに遣われる言葉ではない。「目上である」「立場が違う」という事実がある以上、生徒が教師に敬語を遣うのは当然ではないか。
え、心の通い合いが大切なのであって、言葉遣いは問題ではないって?
そうだろうか。小さな子どもに電車の中でおとなしくしていることを覚えさせるのと同じように、大人が若者に目上の人への口のきき方、けじめを教えるのもれっきとした教育のひとつだ、と私は思う。
テレビをつければ、宇多田ヒカルや浜崎あゆみといったハタチそこそこの女の子が相手かまわずタメ口トークを繰り広げている。彼女たちにとってそれはキャラを立てるための戦略のひとつであろうが、一般人が真似ても「常識知らず」と笑われる種にしかならない。
教師と生徒間の信頼や親近感といったものは、タメ口によって培われるものでも維持されるものでもない。教師がそれを指導しないのを怠慢とは言わないだろうか。
誰彼かまわずタメ口で話す風潮は、相手との適切な距離を測る能力を衰えさせ、分をわきまえること、相手を立てる気持ち、謙虚さといったものを人から奪っていくのではないか。そのうち「長く生きてりゃえらいわけ?」なんて言いはじめ、年配者へのいたわりや敬いの心までなくしてしまうのではあるまいな。

先日、私は職場に新しく入ってきた二十代のアルバイトの男の子が顧客と電話で話しているのを聞いて、ひっくり返った。
「じゃっ、そういうことで!(ガチャン)」
ひえー。あなた、なんてクローズの仕方をするのよ。
「え、だめっスカ?気さくな感じの奥さんでしたよ」
そういう問題じゃなくて……と言いかけて、サラリーマン川柳にこんなのがあったなと思い出した。
「まじっスカ スカがついてて ていねい語」
まさかとは思うけど。彼らはあれでていねいに話しているつもりではない……よねえ?

【あとがき】
昨日、「小中高生の保護者の77%が最近の教師は自分たちのころの教師と違い、『威厳がなく子どもと友達感覚で接している』『サラリーマン化している』と不満を持っている」というニュースをやっていました。まあ、私は「教師の変化より保護者の変化のほうが先だったんじゃないの?いまどきは親に叩かれたことのない子どもだって少なくないだろうから、体罰なんてとんでもないわけで、そりゃあ教師が萎縮してしまうのも無理ないよ」と思っていますけど。私は自分の子どもの教師がタメ口を許すような“友達先生”だったらイヤです。教えるべきことはちゃんと教えてほしい。