私の通っていた学校は……多分進学校だった。進学校の定義なんか判らないけれど、多分進学校だった、と思う。お嬢様学校だったかは謎だが(^^;)(ちなみに女子校の中高一貫、です。短大と四大もあるけれどエスカレーターではありません)
私立だったので、先生もなかなかに個性的だった。半年くらいふらっと外国に行ってしまったまま帰ってこない先生だって、いた。 徳ちゃん、こと徳島先生もその一人だった。 地学の教師をしていた彼は、例えば南米で皆既日食があればはるばる出掛けるなど、行動派(?)だった。 私たちは帰ってきた徳ちゃんの話をわくわくしながら、聞くのが好きだった。 そんな話の一つに徳ちゃんの登山の話があった。そこで彼の友達が登山中に命を落とした話を今でも印象深く覚えている。どんなふうに命を落として、パーティのメンバーがどのような対応をしたのか、淡々と話してくれた。言葉を飾ったりしないその話は、少しきつかった。泣いてしまう子もいた。彼はそして、淡々と「自分もいつかはその順番が来るだろう」と語った。
やがて、私は地学(+化学)受験という、わりと珍しいコースを辿ることになる。少し地学の地位を知っている方は判るだろうが、サブとは言え、地学を受験科目にする人は珍しい。私は徳ちゃんと一対一の授業という、山村もかくやの授業を受けた。地学を専攻したい、そう言った私に彼は少し困ったように笑ってくれた。
そんなこんなの日々からしばらく経ったある日、私は徳ちゃんの死を新聞で知った。以前教室で語ったように、彼の順番になってしまったのだ。新聞は彼がK2登山の前の練習に春の穂高に行き、そこで……と夕刊の社会面を殆ど使って書いた。彼が次のK2登山で山に行くのを最後にするつもりだったらしいこと、彼が穂高で命を落としたのは信じがたいことで、中部地方では高名な登山家だったという私の知らない側面とともに知った。
先ほどテレビを見ていたら「穂高の四季」という番組で、徳ちゃんの写真が出た。彼のパーティによって徳ちゃんの遺骨の一部はK2の山頂に埋められたらしい。ならば彼は今もK2にいるのだ。……登山家・徳島氏には相応しい話かもしれない。けれど、ただの徳ちゃんの教え子の私は、 やっぱり帰ってきた話を聞きたかった……と思う。皆と一緒に、教室で。そして、薄暗い地学室で。
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