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君といられる残された日々を数えているのに

 歩いてしばらくすると左右が迫り上がって高くなり、確かに切り通しのようになっていった。少し暗いその道のような底のような狭いところを、霊気の霧が流れてくる。流れをさかのぼるようにしてギンと乱菊は歩いていた。苦しくはないが霊気はさらに濃く、体にまとわりつくようにして背後へと流れていく。
 見上げると、切り立った左右の壁は終わりがないように上に伸びて、霧に隠されていた。ぼやけた太陽も見えず、ただぼんやりとある明るい筋が遠い空なのだろう。心細くなりそうに不確かな光景だった。
 ここを一人で歩いていた乱菊を思い、ギンは眉をひそめた。いつもいつもふらりと消えるギンのことを、乱菊はどう思っているのだろう。どう思って、ここを歩いていたのだろう。ギンは心なしうつむいた。どんなに乱菊が大事だろうと、それでもこれから先、自分がまたふらりと逃げ出すことをギンは確信している。
 背後を歩く乱菊の気配はかわらずあった。そのことに安心しすぎていないだろうか。そのことに甘えすぎてはないだろうか。だから今朝、乱菊がいなくなっていたことに自分はあれほどまで慌てたのではないか。ギンがうつむいたままそっと振り返ると、乱菊と目があった。
「何? どうしたの。歩くの飽きた? お腹空いてもう動けない?」
 乱菊はきょとんとした後、柔らかく微笑みかけてきた。ギンは、自分が情けない顔をしているなと思いながらも笑って首を横に振る。
「ううん。なんでもあらへんよ」
「そう? 手を繋ごうか? なにも、一列になって歩くこともないんだしね」
 ちょっと狭いけど、と言いながら乱菊はギンの横に並び手を取った。柔らかい、暖かい手がギンの手を包み込む。
 照れくさくなって、ギンはごまかすようにおどけた声を出す。
「乱菊、今日は頼もしいわあ」
「だってあたしはこの先に何があるか知ってるんだもの」
 くるりと大きな青い目が動き、乱菊は楽しそうにギンを覗き込む。そしてふふふと笑うと、先導するようにギンの手を引いて歩き始めた。
  一夜限りの恋は蜻蛉
  ふるさと思いて枕を濡らす
  道々歌うは帰れぬ童
 乱菊が小さく歌い始める。節回しも適当な、昔どこかで会った花街の女が歌っていた数え歌だった。ギンは自分も一緒に歌おうと口を開けたが、笑って口を閉じて耳を澄ます。
  夜ごと姿をかえゆく兎
  いつしか消えるは涙か魂か
  娘の結い上げほつれて流れ
 ゆっくりと乱菊は歌う。周囲は少しずつ明るくなってきたが流れる霧はますます濃くなり、隣にいる乱菊の姿も霞み始める。ギンは手を握る力を強めた。乱菊の手もまた、強く握り返してくる。
  鳴子の音色は乾いて響く
  社の囃子は遠くに霞み
  ここに花咲き乱れて枯れて
 乱菊がこちらを見る気配がして、ギンは隣を見た。乳白色の冷たい霧の向こうで、乱菊が大きく笑った。
  とうにさめてる恋の夢
 ふと、足下の感触がかわった、
 と思った途端に、霊気の霧が急に晴れた。


 青い空の下には、見渡す限り色とりどりの花が咲いていた。


 赤、白、黄、桃、橙といった様々な花が咲き乱れ、緑の葉とともに揺れている。その上には深い青い空が広がり、そこには雲一つない。
 冷たい爽やかな風が吹いている。明るい日差しが花々を照らしている。
 真っ白な視界が急に色に溢れ、ギンは口を開けたまま呆然とした。そのまま隣を見ると、乱菊は満足げな笑みを浮かべてギンを眺めている。
「どう?」
 乱菊に問われて、ギンは口を閉じてただ大きく頷いた。
 足下を見ると、花々の隙間から、いや、花から霊気が立ち上っていた。それはこれまで歩いてきた切り通しの谷に向かって足下を流れている。振り返ると、谷の入り口に集まったそれは濃密になり壁のように盛り上がり、谷を埋めるようにして流れ込んでいた。
「……すごいわあ。夢のような場所やね」
 ギンがようやく呟くと、乱菊は頷いてギンの手を引いて歩き始めた。素直にギンはついて歩く。花々は足を避けるように揺れて、なぜか足裏には草花を踏みしめている感触はない。甘い香りが霊気に混じって漂っている。
 花々の咲き誇る草原は緩やかな上り坂になっていて、その向こうには空しか見えない。乱菊はゆっくりと無言で登っていく。そしてふいに振り返り、
「気を付けて歩くのよ」
と言ってギンの手を離した。
「何やねん」
 首を傾げてギンは名残惜しげに乱菊の手を離れ、乱菊を追い抜いて進む。数歩分だけ進んで、細い目をわずかに開いて足を止めた。
 十数歩先は、何もなかった。
 乱菊を振り向くと、乱菊は笑ってギンに近づいて手を伸ばしてきた。その手を取って、再び手を繋いでギンと乱菊は崖に向かう。青い空はどこまでもそのまま広がっていて、空の下に海があるのか、それとも空しかないのか判らない。
 崖の縁に立ち、見下ろしてギンは息を呑んだ。手の届かない、その距離さえわからないほどの遙か下に、揺れる白いもの見えている。波なのか、雲なのかさえ判らない。ただ、波の音は聞こえなかった。あまりに非現実的な、高いのか深いのか判らないその光景に、恐怖すら感じない。
 隣の乱菊もまた平然とした顔で、そのまま座り込んだ。そして尻をつくと、伸ばした足を崖で揺らしてギンを見上げた。
「乱菊、全く怖ないみたいやね」
 呆れて言うと、乱菊はへらりと笑う。
「だってここまでこんなだと、嘘みたいじゃない」
 乱菊は自分の隣の地面をぽんぽんとギンに示した。ギンは苦笑して、しかし同じように座る。
 目線が下がると、花に囲まれたように感じる。二方は花に、もう一方は乱菊に、そして目の前は青い空になった。ギンは大きく息を吸い込む。花から放たれる霊気と甘い香りがギンを満たした。
 乱菊は遠い目をして前を見ている。
「ここ、すごくきれいでしょう」
「そうやね」
「それで、なんだか嘘みたいなところでしょう。山の上なのにこんなきれいな花畑も、こんなに登ったとは思えない高い崖も、空だか海だかよくわからない青い光景も。全部がさっき、あんたが言ったみたいに、夢の中みたい」
 ギンは無言で頷いた。乱菊はぽつりと呟くように言った。
「だからやっぱり、あたし達が暮らしてるこの場所はあの世なのね」
 横を見ると、乱菊は遠い目をしたままだった。ギンもまた前に目を移し、遠い空を見る。風が吹いて、二人の髪を揺らした。金と銀の光がこぼれ落ちるのが目の端に見える。
「死んでからも同じような暮らしで、危なくて、お腹空いていて、なんで死んでまでこんなって思ったりもするじゃない。でも、こんなきれいな、現の世では絶対見られないようなところがあるって判ると、ちょっと死んじゃってあの世にきて、この地区に落とされちゃったけど、まあ良かったかな……って、思うかなあって」
 そう言って乱菊はギンを覗き込むように上目遣いで見上げた。
 ギンはその青い眼を見て迷う。
 ここに来て良かったと、乱菊に出会ってからギンはずっと思っている。確かに、死んだのにどうして更にこんな日々が、と思うこともあった。しかし乱菊との出会いで、ギンはここに落とされて良かったと思うようになった。死ぬまでのおぼろげな暗い記憶も、死んでからの荒んだ日々も、全て乱菊と出会ってからの時間のなかで薄れて、ギンにとってはただの過去になっている。そんなことを告げていいものだろうか。ギンは逡巡する。
 結局、少し眼を泳がせるとギンはうつむいて一言だけ、
「思うとるよ」
と呟いた。乱菊の青い眼があまりに澄んでいて、ギンはその眼を見ていられなかった。
「今日、ここに来て驚いた?」
「うん」
「ここに来て良かった?」
「うん」
 重ねられる問いに、せめて何か伝わるようにギンはただ深くふかく頷いた。
 その様子を見て乱菊が満足げに、ふふん、と鼻を鳴らす。
「なら、これでお祝いになったわね」
「は?」
 何のことか判らずに顔を上げると、乱菊が呆れた顔をする。
「あんたねえ……さっき、あたしに尋ねたわよね? 怒ってるのって。これじゃあ、あたしが怒ってる理由が判ってないわね」
 話ながら怒りを思い出したのか、乱菊の眉がぴくりと上がる。雲行きの怪しさにギンは狼狽えた。
「ら、乱菊?」
「まあ何にも気付いてないんだろうなとは思ってたけど?」
「す、すんません」
「判ってないのに謝るし」
「あ、うう」
 口籠もるギンの鼻を摘み、乱菊は冷ややかな眼でギンの眼を覗く。
「あんた、自分の生まれた日がとっくに過ぎてるの、忘れたの?」
「あ」
 ようやく思い出して、ギンは間抜けな声をあげた。ギンは二人の出会った日であり、乱菊の生まれた日となった日だけを気にして放浪から戻ってきていたから、自分の生まれた日など念頭になかった。ギンの鼻を放し、乱菊はちょいと鼻をつついた。ギンは眼を瞬かせて、つつかれた鼻を押さえる。花に囲まれた乱菊は少しだけ寂しそうで、ギンは情けなく眉を寄せた。
「あんたを驚かせようと思って色々と歩き回って、ここを見つけて、お祝いに教えてやろうってわくわくしていたのよ、あたし」
 責めるような口調ではなく、ただ寂しそうに言う乱菊を見て、ギンはきゅうと胸の奥が痛むのを感じた。乱菊はきっと、理由は判らないだろうけど、自分が乱菊から逃げるときに戻らない覚悟でいることに気付いているだろう。そんなことをおくびにも出さず、ただ寂しそうにだけ言ってみせる乱菊にギンは鋭い痛みを覚えた。
 ギンは自分で知っていた。自分の乱菊への感情が、横暴で、自分勝手で、本当には乱菊のことなど一欠片も思いやっていないことを、よく自覚していた。そして、ギンはその感情をもっと柔らかくて優しいものにかえることができないことも、判っていた。
 かわいそうだ、と思う。
 乱菊はなんてかわいそうなんだろう、とギンは思う。目の前の乱菊は、揺れる花に囲まれて、幻のように可愛らしくて綺麗だった。幻のようなのに、本当は奥歯が見えるくらいに大きく口を開けて笑ったりするし、鼻に皺を寄せて思いきり不機嫌になったりする愛らしい人だった。こんな自分に囚われて、泣いたり寂しくなったりしていい人ではないのに。ギンは思う。思うのに、ギンは乱菊から離れることができない。
 ギンはうつむいた。
 その途端、殴られた。
「痛ぁ! 何しはるん!」
「何しょんぼりしてるのよ! しょんぼりしていいのはあたしの方でしょうが」
 咄嗟に顔を上げると、乱菊は右手を握り拳にして言い放ち、意味もなく胸を張っている。
「さあ、さっさとあんたがすべきことをしなさい! あたしに言うことがあるでしょうが言うことが」
 先程までの寂しげな様子は微塵もなく、乱菊はきりっとした大きな眼でギンを見ている。ギンはきょとんとし、すぐに膝に両手をついて深々と頭を下げた。
「おおきにな。それと、堪忍して下さい」
 そう頭を下げて、ギンはおそるおそる下から乱菊を覗き見た。
 乱菊は澄まして頷いた。
「よろしい」
 そして二人で目を合わせると、同時に笑い出した。笑いながらお互いに頭を寄せて額をつける。近くなった眼を覗き込んで、微笑みあった。
「もうすぐ、あたし達が出会った日よ」
「うん、乱菊の誕生日や」
 くすぐったそうに乱菊が身を捩らせて笑う。
「なんか美味しいものが食べたいな」
「うん。ボク、いろいろ捕ってくるわ」
「甘いものも食べたいな」
「果物が仰山なる木ぃ見つけたさかい、楽しみにしててな」
 ギンが答えるたびに、乱菊は嬉しげに笑う。ギンは花から放たれる霊気と甘い香りに自分が溶けてしまうように感じる。甘くて、痺れて、満たされている。
 ふと、乱菊が額を離して空の方を見た。つられてギンも顔を上げる。
「あの向こうに、現の世があるのかな」
 ギンは小さく笑った。
「なら、この空みたいな、ずっと下にあるんは三途の川か。そしたら、えらい広い川やな」
 乱菊がギンを見て、笑う。
「そうね、川にしては広すぎるか」
 伸ばしていた足を抱えて、空に視線を戻して乱菊がぽつりと呟いた。
「いつか、あたし達、また戻るのよね。あっちに。空に落ちて」
「……多分なあ」
 するりと自分の手のひらに、乱菊の柔らかな手が滑り込んできた。その小さな手を握り、ギンも空を見る。風が吹いて、花びらが舞い上がった。鮮やかな色彩が舞い上がり、ゆっくりと二人に降ってくる。
 いつか、空に落ちていく日がくるとしても。
 いつか、乱菊から離れる日がくるとしても。
 握るギンの手に力がこもった。
 まだこの手を放したくない。まだ、今は。
 せめて、今は。





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 一応、二人の誕生祝いとして書きました。なんかしんみりしているような気がしないでもないですが、お祝いの心だけは! それだけは込めております。
 尸魂界の西端には霊山が連なっていて、その向こうにはこの世のものとは思えない(ってあの世なんですけどね)花畑があって……というのはだいぶ前に考えていた世界観です。ええ、脳内だけで。考察に書いていたと思っていたんですけどね。花畑とかその向こうは空のような大河のような海のような、というのは個人的なあの世のイメージです。三途の川のイメージが混ざっています。


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Life is but an empty dream