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君といられる残された日々を数えているのに
目を覚ましたら、乱菊がいなかった。 ギンは飛び起きて、そして呆然とする。頭が働かない。壁と戸の隙間から射し込む早朝のぼやけた光に照らされた誰もいない空間を、ギンはぼんやりと眺める。 「……乱、菊?」 膝をついたまま手を伸ばし、ギンは乱菊が寝ていた空間に触れた。床に敷いていたむしろには体温は残っていない。秋の気配を漂わせたひんやりとした空気に冷やされている。ギンは何度も、軽く叩くように触れる。かすかに埃が舞うのが見える。 「ら、ん、ぎく?」 なぜ。 どうして気付かなかったんだろう。 ギンは冷たい汗が首筋を流れるのを感じた。確かに眠る前に乱菊に酒のようなものを飲まされた。このところ急に朝晩が涼しくなってきて、それなのに着物は薄かった。昨晩、ようやく手に入れたぼろぼろの厚い着物を繕っていた乱菊が、暖まるから、と言って差し出したそれを、ギンは嬉しくてよく確かめもせずに一気に飲み干したのだ。思い返して、ギンは首を振る。暖まったし機嫌良くはなったが、あれくらいで意識を失ったりはしていない。いつもいつも、乱菊の霊圧だけは感じているのに。 そこまで考えて、ギンは違和感を感じた。確かに乱菊の姿はない。しかしギンの肌には柔らかく触れる乱菊の気配があった。ギンは慌てて眼を閉じて気を澄ませ、乱菊のいた場所に手をかざす。 濃密な霊圧の残滓がそこにあった。 眼を開けてよく凝らすと、薄く漂う炎の朱が見える。 「……あ」 ギンは声を上げ、霊圧の残滓の行方を眼で追った。勢いよく立ち上がり引き戸まで行くと、そこでまた慌てたように戻ってくる。手近のずだ袋を手にとり、周囲の物を掻き集めて中に入れていく。最後に竹筒に水瓶から水を入れると、それも袋に放り込み、気もそぞろにギンはあばら屋を出ていった。
どんどん濃くなっていく霊圧を辿って獣道を曲がると、生い茂る木々の中で倒木に腰掛けている乱菊がいた。 乱菊は驚きもせず、 「ようやく来たのね。遅いじゃない」 と澄ました顔で言う。ギンは安堵と嬉しさで気が緩んでいた上にそんなことを言われ、つい笑った。 「ひどいわあ。ボク、慌てて追っかけてきたんよ」 「慌てることないじゃない。夕べ、ちゃんと言ってあったし、チカラを隠したりしなかったでしょう」 「そうやけど、でもなあ」 乱菊の隣に腰掛けようとしてギンが近寄ると、乱菊は眉をひそめた。 「ちょっと、あんた、着替えてこなかったのね。繕ったやつ、枕元に置いておいたのに」 ギンが首を傾げると、乱菊は手を伸ばしてギンの着物のすそを引っ張った。 「これじゃ肌寒いでしょ。山の上はもっと涼しくなるわよ」 そう言って乱菊は上目遣いでギンを見上げる。ギンはすそを持たれたまま乱菊の隣に座り、満足げに笑う。 「ボク、ちゃぁんと気付いとったよ。ほら」 ギンは背負っていた袋をおろすと口を開けて乱菊に示した。袋の中には乱雑で、乱菊は苦笑する。ただ、その一番上、竹筒の隣に乱菊が畳んだままに入れられている着物を見て口元をほころばせた。 「あんた、ホントに慌てて来たのね」 「そう言うとるやないの」 「はいはい。判ったから早く着替えなさいよ。あっち向いてるから」 乱菊はひょいとギンに背を向けた。ギンは乱菊が繕ってくれた着物を取り出すと、少し離れて着替え始める。着物を脱ぐと、朝の冷えた空気が触れて鳥肌が立った。昼間の日差しはまだ強いように感じるのに、朝の空気も、見上げる空の高さも、秋が来たことをギンに告げている。そういえばいつのまにか、騒がしい蝉の声も聴かなくなった。 「涼しゅうなったね」 声を掛けると、足下の花をつついていた乱菊は顔だけ上げた。 「そうね。雨が降ると寒いかなって思うけど、過ごしやすくなったわ。夜、暑苦しくて目が覚めることもなくなったし」 「そうやね」 「夕べ、あんたもよく眠っていたわよ。珍しく寝顔見たら、おかしくなって笑っちゃった」 言いながら思い出したのか、小さく笑う乱菊の背は揺れる。その揺れを横目で見て、ギンはおおげさに溜息をついてみせた。 「乱菊が一服盛ったんやないの」 ギンの言葉に乱菊がくすくすと笑う。 「一服って、失礼ねえ。単なるお酒よ。本当に暖まってよく眠れたでしょ。あんたがいなくなっていたときに、森の向こうの集落で頂いたの。あたしだって飲みたいのを少し我慢してあんたにあげたんだから、感謝しなさい。美味しかったでしょ」 「そうやけどね。眠りすぎて乱菊が出ていくのに気付けへんかった」 話す声が自分でも驚くほどしおれていて、ギンはごまかすように着物に勢いよく腕を通した。乱菊の背はまた少し揺れる。 「家を出るときにチカラを隠したりしなかったのは、目印っていうのもあったけど、あんたに気付かれないようにってのもあったからね。あんた、人の気配が消えると目を覚ますみたいだから」 「あれだけ濃いぃ気配残されたらなかなか気づけへんよ。まあ、追うのは楽やったんけどな。かたつむりの這った跡みたいやったさかい」 「失礼ね。かたつむりって何よ、かたつむりって」 ふて腐れた声で言い、乱菊は振り向いた。ちょうど帯を締めているところで、最近、自分の体の変化が気になっていたギンはなんとなく慌てた。しかし乱菊はそんなギンの様子を気にすることなく、唇を尖らせている。 「だいたい、どうしてこんなに荷物があるのよ。頂上まで行って帰るくらい、一日で大丈夫よ」 そう言って乱菊はふくれたずだ袋を突いた。帯を締めて息をつき、ギンは庇うようにずだ袋を手にとって抱える。 「遅うなったら寒うなるわ。それにこの山えらい高いんやで。山の上涼しいし、もし夜ぉ明かすことなったらどないするねん」 しかし乱菊は拗ねたように顔を背けた。 「一日で大丈夫よ。あたし、行ったもの」 「え、いつ」 「あんたが勝手にいなくなっている間に」 何か言おうとしていた口を閉めて、ギンは動きを止めた。そっぽを向いている乱菊の唇は尖ったままだし、眉は不機嫌のときに必ずなる吊り上がった形をしている。何を言おう。何か言わないと。ギンはもう一度口を開け、しかしまた閉じた。鳥の声が聞こえる。ここはまだ斜面もきつくはなく、木々も生い茂っているから生き物の気配も沢山あった。しかしギンは周囲に気を配っていられない。様子を窺うように、 「……乱菊、怒ってはる?」 とおそるおそる声を掛けてみる。乱菊はちらりと一瞥し、 「べっつにー?」 と言った。ギンはずだ袋に隠れるようにする。視線が痛い。 「まあ? 夕べ山に登ろうって言ったら反対されたとか、面倒だとか言われたけど? あんたが慌てて登ってきた気配を感じられただけでまあすっきりしたし? いいのよ別に。いいんだけどね」 言われて、ギンは昨晩の会話を思い出す。 乱菊が山に登ろうと言い出したときに、ギンは確かにあっさりと反対した。今、潜り込んでいるあばら屋は山の麓にあるから、行くこと自体は別に問題ではなかった。問題は山にあった。 この山々は西流魂街の端に位置していた。 西流魂街の八十地区は、東に位置する地区境の山脈と西に位置するこの山脈に挟まれている。東の山脈は七十九地区との地区境であったから、山の向こうには土地もあり人もいる。しかし、西の山脈の向こうに何があるのか、知る者はいなかった。ただ流魂街はこの八十地区で最後であり、つまりこの山々は尸魂界の端にある。山の向こうにはこの八十地区よりも更に荒れ果てた、何もない荒野が広がっている、という認識が人々に定着していた。 乱菊と出会う前、ギンは興味本位で少し登ったことがある。この山々は中腹くらいから急に濃密な霊気が霧のように漂い始める。下から見ていると雲のように見えるから、ずいぶんと低い位置に雲がかかっているとギンは思っていた。だから霊気の霧に突入したときに、ギンはそれの違和感に驚いたものだった。霧そのものは害はなかったようだったが、ギンはそれ以上登ることはせずに山を下りた。当時のギンはまだ自分の持つ霊力のことも、霊気などのこともよく知らなかったし、なによりあの霧は明らかに何かを遮断していると感じたからだった。 そういうことをギンは乱菊に簡単に説明し、それに登ってもなんもないやろ、世界の端やで、と言ってその話をさっさと打ち切った。その後、乱菊に酒を飲まされたのだ。 ああ、あのときから不機嫌になってたんやろか。ギンは昨夜の己を呪いつつ、それでも反論する。 「せやかて、ここ、地区境の山とは違うんやで? 言うたやないの。山の向こうにもう地区ないで。尸魂界の端やないの。それにここ、たぶん霊山や。なんかあったら」 ずだ袋にすがるようにしっかりと抱きしめてギンは言い募り、そこで失速した。 「……まあ、乱菊は一度上まで登ってはるんやもんね」 「そういうこと」 乱菊は立ち上がり、尻を軽くはたいて土埃を落とした。 「あんた、あたしの言うこと聞かないでさっさと話は終わりましたって顔するんだもの。人の話は最後まで聞きなさいよね、ホント」 「すんません……」 項垂れるギンの頭を乱菊は軽く小突くと、脇に置いていたらしい小さな袋を手に取った。ギンは小突かれた場所に手を当てて、窺うように乱菊を覗き見る。それを見て乱菊は小さく笑った。
霊気の霧が漂いはじめてしばらくすると、生き物の気配が消えた。 木々はやがて低木になり、そして岩にはりつく苔になった。地面は岩場になり、大きな岩も転がっている。霊気の向こうに太陽が見えるが、うすくぼんやりと円く光っていた。はっきりとはしないが、太陽はもう天頂を通り過ぎたらしい。見るたびに少しずつ、その位置を下げていた。 霊気はどこかひやりとしている。ギンは息を大きく吸い込んで、その感触を肺で味わう。どこか冷たく、そして濃い。きつい斜面を登ることで体力は奪われるが、霊気が熱を帯びる体を冷ましていく。疲れが気にならない。 「乱菊」 振り返ると、息は荒いがすっきりした顔の乱菊がギンの方を向いた。 「なぁに?」 「何か、不思議な心地やねえ。疲れとるのに、あまり苦しゅうならんよ」 乱菊は頷いた。 「そうね。もしかするとあたし達にチカラがあるから大丈夫なのかもしれないけどね」 「そうかもなあ。生き物、おらへんもんなあ」 ギンは周囲を見渡した。ときどき石の転がる硬い音がするばかりで、他は何の音も聞こえない。霧に全て吸収されていくような気がする。ギンと乱菊の声も響くことはなく、どこかに消えていく。 「てっぺん、まだ遠いなあ」 斜面はかなり先まで続いているようで、ギンは目を凝らしてその行方を見定めようとした。霧は先に行くほど濃くなるから、少し先はもう見えない。 乱菊がギンの横に並んだ。 「いいのよ。本当に頂上までは行かなくても」 「そうなん?」 振り向くと、乱菊は神妙な顔をしている。 「この先で、切り通しにみたいになっているところがあるの。そこを通って山の向こう側に行けるわ」 「山のてっぺんやのうて、単に向こう側に行くつもりやったんか」 ギンの言葉に乱菊は頷いて、背をぽんぽんと叩いた。 「もう少しよ。ホントにもうちょっとで向こう側なの」 「うん、ボク平気やねん。もうちょっとでも、一日中でも」 そう言ってギンが笑いかけたとき、腹から大きな音がした。慌ててギンが手で腹を押さえるのと同時に、乱菊が吹き出す。 「……でも、腹減った……そない、笑わんでも」 「ご、ごめん。向こう側に行ったらごはん食べよう。干し芋を持ってきたから」 笑う口を押さえて乱菊は言い、慰めるようにギンの頭を撫でる。ギンはふて腐れて歩き出した。 「ほら、行くで」 「はいはいはい」 ギンの後ろをくすくすと笑っている乱菊がついてくる。ギンはわざと足を速めた。乱菊は構わず笑っていて、そのうちにギンの、固く結んでいた口も緩んだ。
→続
続きます。
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