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冷えた身体に残る温度は

 幼い頃、抱きしめられて暖をとっていたこともあった。


 自宅を出てすぐに吐く息が白くなっていることに気付いて、乱菊は遠くなった日々を思い出して苦笑した。苦笑したまま、乱菊は何かをこらえるように眉を寄せて眼を細める。そうすると妙に歪んだ表情になって、それに気付いて乱菊は俯いて、小さく笑う。
 ふと、しばらく居た現世を思い出す。
 こちらは酷く寒かった。
 現世は、あの街はなぜか熱を帯びていたように思う。人が群れているのか、病んでいるのか。どちらにしても一人でいても寒さをあまり感じずにいられる街だった。いろいろなことを誤魔化して生きていくには最適の場所だろうと思う。
 乱菊は顔を上げた。空は澄んで、高い、冬の空になっていた。
 ここでは、誤魔化せない。この寒さを誤魔化しきれない。
「まだ、ひび割れないのね」
 そう呟くと、その口元から漏れる息は白い。
 あの、眠れないほど寒い夜と同じに。


 今にも壊れそうな小屋は、心細くなる音をたてて軋んでいる。
 大きく息をつくとそれは闇夜にもわかるほど白くて、乱菊は、まだ小さな幼い手で自分の体を抱きかかえた。そしてちらりと軋む戸に目を向ける。
 隙間から木枯らしが入り込んで、出口を失い隅でくるくるとほこりを巻き上げている様子が見えた。かさかさと軽い何かが床を転がる音がする。乱菊は布切れの下でいっそう体を縮める。がさがさと体の下のむしろが音を立てた。
 背中でがさりと音がした。
「乱菊」
 高い、しかしひそめた声でギンが呼ぶ。ばさりと何かがかけられて、わずかに暖かくなった。乱菊は眉をひそめる。
「あんたが寒くなるでしょ。何してんの」
 お互いに一枚ずつしかない、厚めの着物だったもの。着用に耐えられなくなって、もしくは着ていた者が死んだのか、廃れた集落のすみに捨てられていたというそれをギンが拾ってきたのは数日前だ。一人一枚や。そう言って乱菊に一枚を渡し、一枚で自分を覆った。
 その一枚をギンは乱菊にかけている。振り返らずに乱菊は布を返すように押しのけた。体から離して布切れから手を出すだけで寒い。
「せやかて、寒いやないの」
 ギンの声は相変わらず、何も感じてないかのようにいつもどおりだ。極力そっと布切れを持ち上げて、乱菊の傍らに潜りこんできた。隙間から入ってきた冷気に凍えてさらに縮こまった乱菊を、ギンが後ろから抱きしめるようにする。反射的に頭を持ち上げると、ギンの腕が首の下に入り込んできた。そのまま上の腕と交差して、乱菊を抱きしめてくる。
「……暖かい」
「な、このほうが互いにええやろ」
 乱菊がほっとしたように呟いてこわばった体をわずかに伸ばすと、ギンは笑みを含んだ声で言う。笑って、乱菊を深くふかく、自分の懐に入れようとする。細い腕がそっと乱菊を包もうとする。乱菊は目の前にある手を握った。くすくすとギンが笑う。
「体丸めとき。前も後ろも暖かいやろ」
 後ろから耳元でギンは囁く。
「ギンは背中、寒いんじゃないの」
「寒うない。ボクは乱菊が腕ん中にいてるさかい、ぬくぬくや」
 やわらかい声。
「もう眠り、乱菊。ぬくうなったさかい、眠うてかなわんわ」
 こつんと後頭部にギンが顔か額を寄せて呟くから、乱菊はそうねと笑って目を瞑る。途端に眠気が温もりに溶けてとろりと体を重くして、乱菊は眠りに落ちていく。ああ、ギンの匂いってなんか甘いのか、と思いながら。
「おやすみなあ」
 ギンの呟きが聞こえた。


 そうやって、いつもいつも背中から抱きしめられていたから、乱菊は背中でそう言うギンの顔を見たことはなかった。ただ、耳元でそう囁くギンの声は柔らかく緩んでいて、だからギンも暖かいのだろうとぼんやりと思いながら、乱菊はいつも眠った。
 暖かな、心地よいぬくもりに包まれて眠っていた。
 ずっとずっと、長い間。
 やがてその暖かさに包まれなくても、それでもずっと。


 それでも、その温もりは薄れていく。
 姿を見るだけで確認できていたそれはもう、その姿が消えた今、どうしてもこの肌に戻らない。
「……痛いなあ」
 大人の声で乱菊は呟いて、曇り空を見上げる。冷たい風が乱菊の髪を揺らし、袴のすそをはためかせた。
「寒いのって、痛いなあ。ひりひりする」
 寒いからなのか。
 長い間ずっと、やわらかにゆるやかに暖められていたからなのか。
 ひとり、になったからなのか。
 乱菊は自分の腕で自分を抱きしめた。あのころのギンの腕は今の自分のそれよりずっと細かった。それなのに、記憶の中のそれは逞しく、大きかった。
 その印象どおりの腕を持った現在のギンは、別の空間にいる。
「やっぱり、こっちに戻ってこなければよかったなあ……でも、やっぱり無理だったかな」
 どこにいても、この寒さからは逃れられない。
「あっちは、寒くないのかしら……」
 知らない空間。夜の世界。垣間見たことはあるが、乱菊は虚圏を知らない。直接知っている死神はそう多くはない。幾度かあったという大戦を乗り越えてきた古株か、斥候か、もしくは王族か。
 ギンはどうして夜の世界を選んだのか。
 ギンはどうして藍染を選んだのか。
 少なくとも乱菊には分からない。分かる術もないし、おそらく、分かるには道が違いすぎた。
 昔は傍にいたのに。
 お互いの体温を分け合うほどに傍にいたのに。

 次に会うのは相手を殺すときだ。

 空は、まだ割れない。
 悠然と白い雲が高いたかい空に流れている。
「……ねえ、痛いのよ」
 寒空は、何も答えない。






こちらは「scrap paper」の2006年10月31日(火)に書いたメモを短編にしたものです……あまり変えられなかったなあ。すみません。あれはメモ程度とはいえそれなりに完成になっていたようでしたよ。書いていて、あれー、あまり書き足すことがないなあと思っていました。短編化も難しいようです。膨らませることができるものと、できないものがあるんですね。
そんなわけで、こちらはタイトルを考えてくださった、やー様に差し上げます。ありがとうございました。そしてすみません、一文字だけ加えさせていただきました。ごめんなさい。あまり変わらなかったのですが、よろしかったらもらってやってくださいな。


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