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25 亀裂
死神と虚との境を取り払う方法を探ろうと考えついたのは、いつのことだったろう。 開かない窓から晩秋の高い空を見上げて、浦原はゆうるりと昔に思いを馳せる。高いたかい空はいつかの空と同じ青さで、そこにあった。白い雲がたなびいている。鳥が一羽、悠々と翼を広げたまま、狭い窓枠に切り取られた空を通り過ぎていった。浦原は眼を細めてそれを見送る。徹夜続きで酷使している眼に昼も間近の空は明るすぎて、浦原は右手をかざした。 尸魂界ではもう長いこと、死神の能力限界を突破する方法を模索している。 死神の能力には限界が存在することは早くから知られていた。その能力の限界を突破する理論的な方法も、比較的早期に見つかっていた。しかし、そこから先、限界を突破する具体的な方法を確立することは未だ誰も成功していない。 自分、浦原喜助を除いては。 秀でた己の能力をこれほどまでに疎ましいと痛切に感じたことはこれからも、この先もないだろうと浦原は思う。せめて研究馬鹿と呼ばれるような、他のことを全く気にせずに、気づかずにいられるような頭なら良かった。世界の矛盾にも、蠢く陰謀にも、人の欲の影にも気づかないようなら良かった。浦原はどうにもならないことをつらつらと考える。 もう、引き返せないところにいる。何もかも遅すぎた。 眼を細めたまま、浦原は身動ぎもせずに空を上げていた。人気のない、狭い研究室には動くものはない。山積みになった資料、床に無造作に転がされた様々な機器、天井を覆う管やそれを繋ぐ紐と針金、様々なものが死んだような静けさで佇んでいた。半日前まで全てが稼動していたとは思えない無機質な沈黙だった。 攫ってきた女の赤ん坊に崩玉を隠した後、全ての機器を停止させた。 浦原は窓に背を向けて、自分の研究室を眺める。遠くなった光景がぼんやりと目の前に立ち現れる。今とほとんど変わらないこの研究室に入ってきた、あの日の藍染惣右介の姿が入り口に浮かび上がる。 壊す……と、言うのかい? あの日、藍染は珍しく驚いた表情を見せて、そのことに浦原はわずかに目を見張った。藍染は常に柔らかい物腰と微笑みで、それを崩すことは滅多になかったから。 そうなんスよ。協力してくれた藍染サンにはホントに申し訳ないんスけどね。 驚いたまま動かない藍染に、あの日の浦原は丁寧に謝罪し、説明した。確かに死神と虚との境を取り払う物質−−『崩玉』と名付けたその物質は出来上がったこと。しかし、それはどうにも危険だから、危険であることにようやく気づいたから……気づけたから、それを破壊しようと思うこと。 作り上げてから気づくってのも、遅すぎるんスけどね。 浦原は自嘲の声で呟いた。 でも、作り上げてからでないと気づけないことだったかもしれません。現実を目の当たりにして初めて、その恐ろしさに気づけることだったのかもしれないっスね。だから……壊さなけりゃならないんです。 浦原は言葉を尽くして開発された物質『崩玉』の危険性を説明した。藍染が最も労を惜しまずに浦原に協力した死神だったからだ。藍染はそれを黙って聞いていた。そして、一言、 しかし、それはあまりに勝手じゃないだろうか。 と低く呟いた。その響きの冷たさに浦原はわずかに目を見張った。 藍染は柔らかく微笑んでいた。そして真っ直ぐに浦原に視線を向けた。 危険性は判る。しかしそれは最初から判っていたことじゃないのか? 予測できないくらいに危険だったというならば、それを管理し、守る体制を作ればいいことだ。手に負えないほど危険だから破壊しようなどと、それはあまりに短絡的で愚かな発想じゃないか。君らしくないな。 浦原は、藍染の静かな言葉と共に、何かこれまで確かだったものに亀裂が走る乾いた音を聞いていた。崩玉の危険性を、性質や効果を丁寧に説明すれば藍染なら真っ先に破壊に賛同するだろうと浦原は考えていたから、予想とは酷く異なる藍染の言葉に、浦原は驚いた。しかし浦原は自分の耳を疑ったりはしなかった。藍染の様子を全身で捉え、そして藍染の奥に潜む仄暗さを初めて垣間見た。 あの日の藍染の言葉を思い出し、浦原は眼を閉じる。 あの日、藍染は静かに言った。
僕達は進歩しなければならないんだ。停滞は倦怠を産み、やがてそれは衰退を招く。 僕達の衰退は世界の衰退に等しい。そう思わないかい。
あの日、あのように浦原に向かって言ってしまったのはやはり間違いだったのか。 歩きながら過去の日に自分が告げた言葉を思い出し、藍染は小さく笑った。 技術局の門をくぐり、藍染は無機質な建物を見上げる。細い窓が並ぶそこは、技術局の中でも機密性の高い研究が行われている建物だった。多くの窓は開かれることなく、その内側で行われていることが外に漏れないように閉めきられている。その中に、浦原の研究室の窓もあった。藍染はそれを探すように見回し、一人小さく苦笑した。どれもが同じ作りをしているから、覚えておかないと、どれが浦原の研究室の窓なのか判らなかった。 袖の中で腕を組み、藍染は穏やかな顔で建物を見上げている。藍染は、浦原が自分を呼びつけた理由を予想していた。浦原に崩玉を破壊すると言われたあの日から、藍染は浦原との間に流れる微妙な緊張感に気づいていた。これまで完璧だった藍染の笑顔には、あの日、僅かではあるが確かにひびが入った。一度入ってしまったひびを埋めることはできない。その小さな亀裂は少しずつ深く進み、ぱらぱらと笑みは剥がれ落ちていく。亀裂はそのまま浦原との間に走り、それは確実なものとなっていた。 浦原はその亀裂に気づいている。 彼が確実に自分を危険視していることを藍染は理解していた。 あの発言は不用意だった、と藍染は判っていた。しかしあの日、せっかく造り出した物質を壊すという言葉に藍染は本当に驚愕していた。研究に対する浦原の前のめりの姿勢を見て、藍染は浦原が自分と近い位置に立つ死神だと考えていた。停滞を憂い、倦怠を嫌悪し、矛盾に満ちた世界に飽きた者だと、そう考えていた。 裏切られた、とすらあの日の藍染は感じた。しかし今の藍染はそのときの自分を笑う。あの頃の自分は、自分にはない才能を持つ浦原の、その技術に能力に才能に眼を眩ませていただけなのだ。よく考えれば、浦原が世界を完全に見捨てたりしないことを、藍染には判っていたはずだった。 浦原の世界を統べる漆黒の女神を、藍染は忘れていた。 人はいつも自分を基準として物事を捉えがちだと藍染は思う。藍染には女神などいない。藍染の世界は自分だけのものであり、中心には自分が立ち、他の誰も立ち入ることを許されてはいない。 だから藍染は想像できていなかった。世界の構造の矛盾にも人の世のくだらなさにも全てを薄汚く覆う血の色も気づくだけの眼力を持った浦原が、それでも女神が中央に立つ世界を美しいと思っていることに。 浦原が、まだ世界に飽き飽きしていないことに。 藍染は柔らかい微笑みを浮かべたまま、建物の内部に足を踏み入れた。痛いほど静かな廊下に硬い足音を響かせて藍染は進む。人気はなく、誰とも擦れ違わないまま藍染は階段を昇り始める。どこかの部屋から何かの機械の作動音が地を這うように響いてくる。 薬品臭がかすかに漂う中を、藍染はゆっくりと歩いていく。浦原の研究室は一番奥にある。局長だというのに浦原の研究室もまた、一般の研究員と同じ広さで、ただ奥にあるということだけが彼の地位を示していた。冷たく鈍く光る金属の扉が近づいてくる。いつ訪れても同じ光景が藍染を迎える。藍染はいつかの光景を思い出して、わずかに笑みを消した。重い金属の扉を開けると、何に使うのか判らない管や機械の向こう側にいる浦原が振り返り、そして胡散臭い笑みを浮かべるのだ。いつかの日も、あの日も。 そして今も。 藍染は人好きのする笑みを浮かべた。
「どうしたんだい、浦原。何の用かな」
いつものように柔らかく笑って扉を開けてきた藍染を、浦原もまた笑って出迎えた。千年以上も変わらない藍染の笑みを見ていると、どうして彼に対して不安に感じるのだろうと不思議に思わずにはいられなかった。しかし、浦原の奥底にあるものが、あの日から藍染に対して激しく警鐘を鳴らし続けている。浦原は勘というものを信用していた。危険を察知するということにおいては、勘という名の本能は、経験などの裏付けもなく当人に確実なことを報せている。 浦原は、あの日、一瞬だけ見えた藍染の目の奥にある仄暗い色をなかったことにはできなかった。 「すいませんね、お呼びだてしてしまって」 そう言ってかろうじて空いている椅子を勧めると、藍染は微笑んで首を横に振った。 「構わないよ。この椅子に座ってしまったら、君の座る場所がどこにもない」 「どこかにもう一つ、埋もれているんスけどね」 「相変わらずだな。この部屋で物をなくすと捜索隊が必要だよ」 扉を閉めて、藍染はそれに寄りかかって腕を組んだ。穏やかに自分を見つめている藍染は、信頼のおける人の良い隊長にしか見えない。浦原は注意深く笑みを作る。狸と狐の化かし合いよりもたちが悪い、互いが互いの嘘を知っている騙し合いを、これから始めなければならなかった。 浦原は笑みを崩さないように口を開いた。
「……崩玉、ようやく壊せましたよ」
笑いながら浦原は言った。藍染はゆっくりと眼を瞑り、そしてゆっくりと開けた。目の前の浦原はいつも通りの、何も読ませない飄々とした顔でこちらを見ている。藍染は口元を緩めた。 「そうか。……良かった。苦労したね」 「そうっスね。ちょっと時間がかかりましたよ。藍染サンもご協力、本当にありがとうございました」 「僕は何もしていないよ。環境を整えるとか、技術局の発展に手を貸すとか、それくらいしかできていない」 浦原に頭を下げられ、藍染は苦笑いをしてみせた。実際、藍染は研究そのものには全く関われていなかった。浦原は全てを一人で行ったのだ。浦原から信用を得られなかったというより、浦原の技術についていける者が自分も含めて誰一人いなかったということだった。藍染もそれを自覚していたから無理に研究に関わろうとしなかったが、それを今は悔やんでいる。藍染は、崩玉がどのような物質であるのかも、それを造り出す具体的な方法も知らないままだった。 藍染は心の底から苦く笑う。
「……しかし、これから先も尸魂界最高峰に位置する研究だったろうね。せめて研究結果は公表しないのかい?」
ほんの僅か、唇を歪ませた藍染の笑みを眺めて、浦原は薄く笑う。 「いえ、あれも闇に葬るだけっスよ。研究内容はおろか、あの存在だって知られない方がいいっス。……まあ、どう隠しても大霊書回廊には強制的に残されてしまうんスけどね。でも、普通ならアソコには誰も入れませんから……まだ安心でしょう」 「そうか。惜しいね。僕のような凡人には、到底、到達し得ない境地だろうから、せめてその姿くらいは垣間見たかったよ」 藍染は残念そうに、微かに眼を伏せた。その仕草は洗練された上品さで、穏やかさで、浦原は眼を細めてそれを眺める。己の九割九分九厘の部分が、これまで通りの藍染を疑うことに違和感をおぼえている。しかし最後のところで、何かが叫ぶ。瞬間的に感じた氷よりも冷ややかな感覚を、己の感じたことを、浦原はぎりぎりのところで信じていた。
「すいません。やはりあれは……人が手にしてはいけないものだったんスよ」
申し訳ないと、片手を頭にあてて軽く頭を下げる浦原を、藍染はにこやかに眺めていた。こうでもしていないと、歯噛みしてしまいそうだった。男にしては細く、しかし筋肉で締まった浦原の腕が袖から覗いていた。それを凝視している自分に気づき、視線が鋭くなるのを押さえようと藍染は顔を崩して笑った。 「人が造り出したものなのに?」 その言葉に浦原もまた、大きな笑みを口に形作る。 「手元が間違えて、それで出来てしまっただけっスよ」 「偶然だというのかな。ならば」 藍染は腹の底から込み上げてくる暗い笑いを自覚した。
「君は神の領域に入り込んだということだね」
藍染の声が低く虚ろに響いた。浦原は目の前の藍染を見て、そしてへらりと笑う。藍染はいつも通りに柔らかな笑みを浮かべているが、眼は全く笑っていなかった。眼だけは、暗く冷ややかに細められて浦原を捉えていた。 「いやだなあ、藍染サン。アタシらも神と呼ばれる者じゃないですか」 軽く薄く笑ってみせると、藍染のそれもまた、軽いものになった。 「そうだけどね。でも僕らは世界の全てを統べる存在じゃないから、そう言う意味では神ではないだろう?」 「全てを統べる存在なんか、いやしませんよ。そんなお人がいたら」 浦原は小さく息を吐いた。
「アタシらに、こんな研究することを許しはしませんよ」
それを見て、藍染は再び暗く笑った。そしてすぐにその笑みを柔らかいもので塗りつぶす。浦原が鋭い視線を向けているが、藍染は動揺すらせずに目を合わせると笑ってみせる。 「そうだな。世界を揺るがしかねないこんな研究をさせないだろうね……後片付けなど、手伝えることがあったら言ってほしい。ここまできたんだ、最後まで協力したいからね。それに次の研究が決まっているなら言ってくれ。それにも出来る限り協力するから」 そこで藍染は真面目な顔をした。
「僕らは、進歩しなければならないからね」
そう言われて、浦原もまた真面目な顔をした。進歩。もう進みようもないところまで、自分達も世界もきているのではないかと思うときが浦原にはある。停滞のあとにくるのは緩やかな崩壊だ。藍染もまた、そう思っているだろうと確信に近く浦原は思う。 目の前の藍染は真面目に、こちらを見ていた。 浦原は眼を伏せて、小さく笑う。笑うしかできない。
「……お願いしますよ、藍染サン」
鳥の子色の髪が浦原の顔半分を覆う。藍染は浦原の表情を窺うことはできない。ただ口元の小さな笑みが、浦原が自分とは異なる場所に立っていることを物語っていた。藍染もまた小さく笑う。暗く、秘やかな宣戦布告を含めて。
「こちらこそ、頼んだよ。浦原」
そう言ってこちらに背を向ける藍染を、浦原は黙って見ていた。藍染は扉を開け、そして振り返る。薄暗い廊下の壁を背にして藍染は揺らぎもせずに立っている。
「では、今日はこれで失礼するよ」
管や機材が溢れるなかに、唯一、確かな輪郭で浦原が立っているのを藍染は両目で捉えた。
「ええ、わざわざ、ありがとうございました」
閉じられる扉に、それぞれの姿がゆっくりと隠されていく。 そして小さな音をたてて、扉は閉ざされた。
技術局の壁に並ぶ窓の一つに、浦原の姿があった。開かない窓から外を眺める浦原は、ひどく真面目な顔をしている。 その下の玄関が重い音を立てて開かれる。そこから藍染がゆったりと姿を現した。藍染は門へ向かって羽織を優雅に揺らして歩く。そして門の一歩手前で立ち止まり、振り返って建物を見上げた。 その視線の先には浦原があった。 浦原も藍染を見下ろしていた。 お互いに身動ぎもせずにそうしていた。 やがて藍染は軽く微笑み、そして視線を前に戻した。そしてゆっくりと、ゆっくりと門から出ていった。浦原は遠くなる五の字を見送っていた。その白い羽織姿が見えなくなるまで、見送っていた。
こちらは、闇系御題の05と23、そして27と密接に繋がっている話です。これはほぼ全て書き直して仕上げました。こっそり尊敬している素敵サイト様のお話で、やはり浦原と藍染の話があったのですが、似たようなシチュエーションを考えていたのでそちらに思い切り引きずられてしまったのです。あまりに素敵なお話なので、影響がすごい大きかったですね。書いても書いても似てしまうので、これは三ヶ月くらい書いていました。最終的には似ないで書き上げられたのかと問われると唸って逃亡してしまうのですが、でも構成や印象は異なるかなあと仄かに思っていますていうか願っています。こういう問題は難しいのですが、物語の中でかなり大事な部分だったので外すことは考えませんでした。自分の文章と思えるもので書けば大丈夫だと言い聞かせて書きました。 藍染さんと浦原さんは一度、決裂していると思っています。この決裂が物語を動かしたのでしょう。浦原さんは、藍染さんの暗い顔に気付いていたと思います。
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