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22 奴隷

 琥珀色の甘い海の底に沈み込んでいる。見上げても、遠い水面で光のようなものがきらめくのが見えるだけ。
 波も、風も、光も、雨も、音も。
 ここには何も届かない。




 これからもう嬲り殺されるだけだ、という危機的状況にあった雛森達を救ったのは、その当時の五番隊の隊長と副隊長だった。虚を斬り裂きにその群れの中に飛び込んでいった銀髪の副隊長とは対照的に、焦げ茶の柔らかそうな髪をした五番隊隊長はその五の字を背負った広い背中で雛森達をその霊圧や流れてきた攻撃から庇っていた。
 凶暴な虚の気配を完全に遮断し、安心感そのものといった霊圧で雛森達を守るその人は、雛森に振り返ると優しげに微笑んだ。その背を見上げてその笑みを向けられて雛森が安心感と憧れを持ったとしても、それは止めようのないものだった。


「雛森君」
 藍染は低い柔らかな声で雛森を呼ぶ。その抑揚は穏やかで、常に一定で、雛森は呼ばれるたびに耳の奥が少しずつ溶けていくように感じる。
「はい、何でしょうか」
 振り返り、雛森は笑みをいっぱいに浮かべて返事をした。藍染はいつも通り、優しく眼を細めて微笑んでいる。そして雛森の笑みを見て、僅かにその眼を細める。
「いい返事だね」
「はい。それだけが取り柄ですから」
 駆け寄って、雛森は大きな角度で顔を上げて藍染を見上げる。そうすると藍染はいつも、きちんと顔を雛森に向ける。
「それだけだなんて言ってはいけないよ。雛森君。君はいつも本当に良くやってくれている」
 低い、けれどはっきりとした声でたしなめられ、雛森は少し俯いた。その頭に暖かい手のひらが乗せられる。
「過大評価をしてはならないが、卑下をしてはいけない。どちらも自意識過剰で客観的な見方を出来ていない証拠だからね。自分をきちんと評価しなさい。僕は君に助けられているよ。それを信じてくれるかい」
 柔らかな重みが心地よい。雛森は藍染を見上げる。眼鏡の奥の深い瞳は優しげで、厚い手のひらは優しく雛森の頭をぽんぽんとたたく。そして、慌てたように手を引っ込める。
「女性に無闇に触れてはいけなかったね」
「いえ、そんな」
「でもそんな不埒なことでもなく本当に、本気で僕は君に感謝している」
 僅かに躊躇した手がもう一度伸ばされて、雛森の頭を軽く撫でた。
「僕を信じてくれるかな」
 雛森は熱い感情が沸き上がるのを押さえて、頷く。
「はい。……ありがとうございます」
 こういうとき、藍染の微笑みに雛森はいつも誓う。何があっても、藍染隊長についていこうと。この人の為に自分は動こうと。
 それが副隊長としての思いなのか、個人としての想いなのか、それは雛森にも分からなかった。それらは混然として複雑な模様を描き、ただ雛森の中にあった。


「雛森さんは本当に藍染隊長を尊敬しているんだね」
 吉良はそう言って、少し哀しげに眉を寄せて笑った。
「うん。吉良君も、市丸隊長を尊敬してるんでしょう?」
 屈託無く笑い、雛森は吉良を見上げた。吉良は困ったように笑みを浮かべて頷く。
「うん。そうだね」
 雛森は嬉しげに微笑んだ。
「市丸隊長は普段は大変だけど、でもいざっていうときにはとても頼りになる方で、そういうときには本当に尊敬してる自分に気づくよ。普段は難しいけど」
「ふふ。市丸隊長って、藍染隊長の下にいらしたときも細かい雑用は藍染隊長がなさっていたらしいものね」
 雛森は思いだし笑いをする。吉良は首を傾げた。
「藍染隊長がお話して下さったの。そして、次に来た私はよく働くから、副隊長ってこういうものだったんだと思い出したよって、笑っていらした」
 どことなくふと砂糖菓子の匂いがしたように感じて、吉良は、ただ笑みを返した。
「尊敬できる隊長の下で働けて、私達、しあわせだね」
「……うん」
 頬を染めて笑う雛森を見て、吉良はもう一度、困ったように笑った。


「雛森君」
 藍染は雛森を常に心地よい響きで呼ぶ。雛森はその度に、体の芯に静かで確かなものが波立つのを感じる。
「はい、藍染隊長」
 駆け寄ると、藍染は先程提出した提案書を手にしていた。
「ここなんだけどね」
 藍染の手にある書類を覗き込もうと、雛森はその体の傍に立った。そうすると微かな金木犀の香りがした。隊舎の中庭に金木犀が愛らしい花を咲かせていたことを思い出し、その傍らに佇んでいた姿を思い浮かべる。
「この件なんだけど、これはとても良くできていると思う」
「ありがとうございます」
「ただ、こちらの方だけどね」
 そこで言葉を切り、藍染は真面目な顔で雛森を覗き込む。その眼に雛森は息を止めた。
「これだと少し足りないのではないかと思うんだ」
「はい、えーと、どうすれば良いでしょうか」
 藍染は書類をめくると、説明図を指さしながら幾つかの点を説明する。その流暢で淀みない言葉に、雛森の思考はゆるゆると沈み込み流れゆく。
「判るかな」
「はい。それではこれらの点を変更した報告書を作ってきます。もう少しお時間を頂けますか」
「すまないね。君の案も良く出来ているのだけど、より良くするためだからね」
「はい」
「一緒に頑張ろう」
 申し訳なさそうに眉を寄せた藍染はそこで微苦笑を浮かべるが、雛森は逆に幸福感で満たされていた。仕事を無責任に投げるだけではなく、信頼をし、共に考え、より高いところへと引き上げようとしてくれる上司を持って、本当に恵まれていると雛森は思っている。
「いつもありがとう。雛森君」
 雛森は胸がいっぱいになって喉が塞がれて、何も言えずに礼をするしかない。


「お前、盲目的すぎるんじゃねえのか」
 幼い頃から共に過ごし、今は十番隊隊長としている日番谷にそう言われて雛森はむくれた。
「何よ、それ。そんなことないわよ」
 雛森は唇を尖らせて反論する。
「まず藍染隊長がそんなことをお許しにならないもの。隊長は、ちゃんと冷静に自己分析し、自己評価しなさいって仰るんだから。それに、隊長の仰ることを丸飲みしているわけじゃないんだよ。自分で考えて行動してるもん」
「でも藍染の言うことそのままじゃねえか」
「隊長ってお呼びしなきゃだめでしょシロちゃん…………そのままじゃないよ。自分で納得してるし、それに、藍染隊長は私をより高みへ引き上げてくれようと助言を下さるだけだよ。それが正しいなって私が思うだけ」
 雛森は真っ直ぐな曇りのない眼をして日番谷を見る。日番谷は眼を伏せ、呟く。
「藍染が全て正しいとは限らねえんだぞ」
「判ってるよ」
 日番谷の小さな声に、雛森は確かに頷く。
「藍染隊長の全てが正しいなんて思わないよ。……でもね」
 雛森の声色が甘く柔らかくなる。
「藍染隊長はいつも、正しくあろうとしていらっしゃるの。間違いは認めて、それをすぐに正して、深く深くお考えになって。ご自分のことも周囲のことも……あたしのことも。だからこそ尊敬してるの。お側でお役に立ちたいの」
 その声の響きに、日番谷は眉を寄せて眼を閉じた。


「雛森君」
 藍染は木漏れ日のような暖かい気配を滲ませて雛森を呼ぶ。それは肌に触れて雛森を仄かに暖めるから、雛森はその度にじわりと熱を感じる。
「はい」
 処理していた書類から顔を上げ、雛森は藍染に振り向く。逆光の藍染の表情はよく見えないが、多分優しく微笑んでいると雛森は思う。
「ちょっとこちらへ来てくれないか」
「はい」
 雛森が立ち上がって藍染の横に向かうと、藍染は窓の外を指した。見ると、そこにはちらちらと雪が舞っている。
「初雪ですね」
 嬉しさが含まれた声で雛森が笑うと、藍染は微笑んで頷いた。
「今夜は雪見酒かな」
「いい理由ができましたね」
「いやいや、美しい季節を味わうのは義務だよ」
 雛森はぴくりと体を揺らした。藍染の手が、触れるか触れないかのところで肩に回されていた。その手は少し躊躇したように留まり、そっと離された。
「雛森君も、一緒にどうかな」
 申し訳なさそうな表情で藍染が言う。雛森はただ見上げて、頬の熱さを感じながら頷く。何も期待をしてはいけないと思う。何も期待なんてしていないと思う。それなのに雛森の頬は熱を帯び体は熱を発し、その熱に輪郭を失いゆるりと溶ける何かが憧れに尊敬にゆるゆると混ざっていく。




「雛森君」
 藍染は呪文のように確かな響きで雛森を呼ぶ。その声は体に染み込み底に少しずつ溜まり浸されて満ちていく。呼ばれるたびに雛森は、甘い琥珀色の海に沈んでいくように感じる。
「雛森君」
 もうただ頷いて。
「雛森君」
 ひたすら感激に身を焼いて。
「雛森君」
 尊敬も憧れも慕わしさも何もかもが混然と。
「雛森君」
 ほんの少しだけ伸ばされるその手に触れられた場所は溶けて。
「雛森君」
 何もかもが溶けて混ざり合って混沌として。
 ただ深く深く沈んで沈みゆき辿り着いたそこには。





 疑問も違和感も現実も届かない。





 遠い遠い琥珀色の水面からは甘い蜜がゆるゆると流れてくる。
「僕を、信じてほしい」
 雛森はただ底に沈んでいる。

 いつか、彼の人がその手に持つ鈍い光を放つ刃で雛森を穿つその時まで。
 雛森からその甘い甘い琥珀色の蜜が流れ出すまで。
「雛森君」
 その響きに溶けたまま底に沈んでいる。









 うわあ実力足りねえ、と呻きつつ書きました。こういう、緩やかな狂気というものを書くのにはまだまだいろいろと足りないです。イメージは琥珀でした。あれって美味しそうに見えるのに、色々な生き物を生きたまま閉じこめてしまっているので。なんとなく。まあ、ドロップみたいだな、甘そうだな、というのが最大の理由ですけど。藍染様の怖さを出したかったのですが、出てくれないのは私のせいです。

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