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20 欲望
緋真は床に伏せていた。 何もない、ただ広いばかりの部屋は薄ら寒い。四季折々、鮮やかに変化する朽木家最大の庭に面したこの部屋は伏せることが多くなった頃に与えられた。横になっていても楽しめるだろうという白哉の心遣いだったが、もともと寝所に使われるような部屋ではないうえに、緋真が何も求めないため室内に物はなく、人のいないときのこの部屋はがらんとしていて静けさがしんしんと満ちていく。静けさはどこか寂しさを呼ぶ。寂しさの温度は低く、胸の奥が冷えていく。 緋真は軽くて柔らかい布団を肩まで引き上げ、横を向いた。 障子は開け放たれ、夕暮れの赤い光が緋真の横になる布団の手前まで射し込んでいる。葉を落とした庭の木々は影絵のように黒々とその骨のような姿をさらしている。その向こうには何かの間違いのように赤々とした太陽があった。それももうすぐ、塀の向こうの遠い山々に沈む。部屋は闇に浸るだろう。緋真は小さく息を吐いた。それを聞く者は誰もいない。緋真は布団から手を出してそれを眺める。骨の浮いた、乾いた手は酷く小さくなっていた。 寝込むことが多くなった、と緋真は思う。 朽木家に嫁いで四年になる。 白哉の妻になることになった経緯を、緋真はまだ夢の中の出来事のように感じている。今日のように白哉がいないときは殊更にそう感じる。これは夢ではないのか。緋真は細い指で自分の頬を摘んでみる。そして指に触れる乾いた肌に、溜息をつく。頬をつねる痛みより、乾いていく体が緋真にこれが現実だと報せていた。 「……あの子を、見つけられないままかしら」 小さくちいさく独り言ちて、自分の言葉に緋真は唇を噛んだ。涙ぐみそうになって、緋真は布団を頭まで引き上げる。そうするとむっと湿った温い空気に包まれて、まだ暖かいと緋真は思う。まだ生きている、と思う。 まだこの魂でいられるのだから、探さなければ。 薄暗い布団に潜ったまま、緋真は体を縮こまらせる。涙が浮かび、とうとう大きな眼からこぼれ落ちた。それが布団に染み込むままに、緋真は涙を零す。声は上げない。本当は泣く資格だってない。緋真は呟いて、ゆっくりと瞬いた。その瞬きだけで涙を全て落とした。そして肺の底から大きく息を吐く。それで涙は止まる。百年近く、緋真はずっとそうして涙を止めてきた。妹を捜して歩いた百年には悠長に泣いている時間などなかったし、なにより泣くことを緋真は自分に許していなかった。 それでも涙は零れるのだ。罪深いと思いつつ、それでも。
畳の軋む音に眼を開けて、緋真は自分が眠っていたことに気がついた。布団に潜り込んだまま眠っていたらしい。急に息苦しく感じて布団から顔を出すと、月明かりで青く暗い庭を背に白哉が傍らに座るところだった。 「白哉様、お帰りなさいませ」 慌てて体を起こそうとすると、白哉はそれを手で制して再び緋真を横にさせる。白哉の大きな、骨張った手が布団を緋真の肩まで引き上げ、そしてそのまま緋真の頬に触れた。 「……暖かいな」 白哉の呟きに、緋真も頬に手を当ててみる。確かに、普段はひんやりと冷えている頬が暖かかった。白哉は頬から手を放すと、枕元にある明かりを灯して緋真を覗き込んだ。急に灯された明かりに眼を細めて、緋真は白夜を見上げる。 「赤みも差している。布団に潜って息苦しくないのかと思ったが、なるほど、暖まるのは良いことだな」 独り言のように呟いて、白夜は再び緋真の頬に指で触れた。そして白哉はふと端正な顔をしかめると、両手で緋真の顔を包み込む。 「びゃ、白哉様?」 緋真は慌てた。頬が熱くなるのが自分でもわかった。白哉に眼で訴えつつ、白哉の手を軽く叩いてみたり顔を動かしてみたりするが、白哉は動じることなく緋真の顔を覗き込んでいる。そして、親指で緋真の目元を拭うようにした。 「泣いていたのか」 緋真は目を逸らした。 白哉の手から逃れようとして顔を動かすと思いのほか手に込められた力は弱く、白哉の手はするりと離れた。思わず緋真は白哉を見上げる。 蝋燭の淡い橙色の光に照らされて、白哉のわずかな表情の変化が見えた。普段は揺るがない彫像のような顔をかすかに歪めて、白哉は緋真を見つめている。顔を包んでいた大きな手は所在なさげに、正座をする白哉の膝に戻された。 「……白哉様」 布団から手を伸ばすと、緋真は白哉の手に触れた。そっと撫でると、白哉が緋真の手を握る。 「緋真、焦るな。今は養生せよ」 白哉の声は低く、わずかに硬い。 「家の者も調べている。信頼できる、よく働く者達だ」 「はい、白哉様。あの方々には本当に感謝しております。本当に……本当なら、白哉様の、皆様のお手をわずらわせるわけには参りませんのに」 「……気に病むな」 白哉の眼が細められる。その痛々しい眼差しに、緋真は言い募りそうになる口を閉じた。己への不甲斐なさと、周囲への申し訳なさと、妹への懺悔の思いと、様々な感情が渦となって溢れそうになるのを緋真は飲み込む。 白哉の手に力が込められた。緋真も弱々しい力で握り返す。 そしてお互いに見つめ合い、小さくちいさく微笑み合った。 緋真はひっそりと深いところから息を吐いた。白哉の薄く硬く結ばれた口元が微かにやわらぎ、鋭い目元はわずかに細められる。そうして自分を見つめる白哉に、緋真はいつも泣きそうになる。白哉の、見逃してしまいそうな微笑みが向けられるたびに、緋真は常に張りつめている何かがほどけていくのを感じ、常に渦巻いている様々な感情が静まるのを感じる。やがて、一人で泣くときと違うものが細く痩せた体を満たし、ますます泣きそうになる緋真はそれを堪えようとして、ただそっと深くふかく息を吐くのだ。 「緋真」 かすかに空気を震わせて、白哉が呼ぶ。その柔らかな眼を見つめて、緋真は涙を堪えた。幸福を求めてはならないのに、許しを求めてはいけないのに。そう思う心を裏切るように暖かなものは緋真を満たし、そして白哉を求めている。 なんて罪深いのだろう。 なんて愚かしく、浅ましく、罪深いのだろう。 それが人なのか。だからこそ人なのか。 百年前の妹の眼差しを思い出し、緋真はゆっくりと瞬きをした。何の疑いもない、真っ直ぐに向けられた妹の大きな瞳。緋真は、ゆっくりと、妹とよく似ている大きな眼を閉じ、開ける。 「はい、白哉様」 緋真は精一杯の笑みを浮かべてみせた。
朽木夫婦のお話です。書きたいとずっと思っていたのですが、何となく書き出さずにおりました。途中まで書いて放置してみたり。 夫婦にしては初々しすぎるような気もしますが(結婚して四年目にもなれば初々しさはかなり薄れているもんだと思うんですよ)、まあ純情夫婦って事にしておいてやってください。あと、部屋は原作にあっただだっ広い部屋を意識しました。あれって、落ち着いて寝られないように思うのですが、気のせいですか。
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